ヱイプリル・フウル
ヱイプリル・フウル
灰川 凡
龍雄は氷を入れたグラスを手に、リビングへ向かつた。バアボンのボトルを取つてソフアーに座り、グラスに注いで一口飮んだ。
妻愛子に先立たれて三箇月、龍雄も還暦を既に超えてゐる。
妻の遺品はほとんど整理して、さて、これからの生活をだうするか、酒でも飮み乍ら考へやうとしてゐた。
テレビのリモコンを取らうとして顏を向けると、サイドボヲドが目に入つた。保險などの書類が入つた引き出しは整理したが、其れ以外の引き出しはざつと見ただけで濟ませてゐた。
「ちよつと整理するか」
さう呟くと龍雄は二番目の引き出しを拔き取つて、テヱブルの上に置いた。
豫備の電池やら豆球などが入つてゐる引き出しだつた。
更に奧を探つていくと電卓の下から古い携帶電話が出て來た。手に取つて見ると龍雄が隨分前に使つてゐた携帶だつた。
電源ボタンを押してみたが、起動はしない。更に引き出しの奧を見ると充電ケヱブルらしき物があつたので、コンセントに繋いでみた。
「此れは愛子と付き合ふ前に使つてゐた物だな」
龍雄はバアボンを注ぎ足し、テレビを付けた。お笑ひ藝人のトヲク番組だつた。チヤンネルを變へてみたが、面白い番組が無かつたのでそのまゝにしてゐた。
その内、龍雄は少しうとうとし始めた。
氣が付くとニユース番組に變はつてゐて、グラスの氷もかなり溶けてゐた。
バアボンを少しだけ注ぎ足して飮み干すと、龍雄は見付かつた携帶を持つて寢室に向かつた。
ベツドに腰掛けて、携帶の電源を入れてみた。少し時間が掛かつたが起動した。取り敢へず寫眞を見てみたが、殆どがグレヱで表示されず、何故かだうでもいい寫眞だけが表示された。
メヱルを見てみると最後のメヱルが拾年以上前の物だつた。いくつか讀んでみたが殆どが仕事關係で、個人的なメヱルはほぼ無い。あの頃は仕事ばかりで忙しい時期だつた。
登録してある聯絡先を見てみた。やはり仕事關係が多く、勿論友人の名前もあるが、見覺えのない名前も幾つかあつた。
『佐藤涼子』
龍雄は一瞬、ドキツとした。妻と結婚する前に付き合つてゐた女性である。番號は固定電話だけで、携帶番號もメヱルも無い。
さう云へば彼女は金屬アレルギヰとやらで、携帶を使はない人だつた。
長く付き合つてゐたが、些細な事で徐ゝに疎遠になり、其れきりだつた。
『だうしてゐるかなあ、元氣かな?』
あれから二拾餘年、龍雄はさう思つた。
翌日は仕事が休みだつた。數年前に定年退職し、今はある財團で事務の仕事を一日おきにしてゐる。
洗濯と掃除をして、クリヰニング店に行きスウパーで買い物をする。其れが龍雄の休日の日課だ。仕事は月水金だけだが、前職の化學關係の研究書類をチエツクする專門的な業務なので、年金と合はせるとそこそこの生活は出來る。
午後は豫約録畫しておいた映画を觀るか、趣味のヲーデイオを愉しむのが常であつた。
かういふ日常が數日過ぎて日曜の朝、龍雄はいつもより遲めに目覺めた。
洗面を濟ませると、冷藏庫から食パンを出して、レタス、チヰズを敷き、其の上にハムとベヱコンを乘せてトヲスタアで燒く。
グラスにシヰクワーサアジユースを少し入れ、トマトジユースを注ぐ。
これが龍雄のいつもの朝食だ。
洗濯・掃除は昨日濟ませたので、今朝はゆつくり音樂でも聽き乍ら朝食を攝らうと龍雄は思つた。
ヲーデイオアンプのスヰツチを入れて、レコオド棚で今朝の音樂を探す。
『今日は天氣もいいし、ジヤズと云ふより輕いポツプスかな』
龍雄はさう思ひ乍ら、ポツプス系のレコオド棚を探す。
何枚か探していく内に、あるレコオドが出て來て、龍雄はまたドキツとした。
「ヱア・サプライ」のアルバムだ。
これは佐藤涼子が好きだつたバンドである。プレヱヤアにレコオドを掛け、針を落とす。懷かしいメロデイーと共に當時の思ひ出が頭を掠める。
トヲストをかじり乍ら懷かしいサウンドに耳を傾ける。そして三曲目。
「ロスト・イン・ラブ」。此のバンドの最大のヒツト曲であり、ハイ・トヲン・ヴヲーカルとハアモニヰが美しい曲である。確か當時のテレビCMにも起用されてゐた。
其れは佐藤涼子と付き合ひ始めた頃で、當時、二人は遠距離戀愛だつた。
東京で知り合つたのだが、彼女はすぐ仕事の關係で豐橋市に移つた。其の後、岡崎市に異動になつたりで、當時は一年に一度か二度會ふか會はないかぐらゐだつた。戀愛と云へる關係かだうかは疑問だが、そんな付き合ひが拾年以上續いた。
其の後、涼子は東京に異動になつて龍雄と會ふ頻度は増えてゐたが、些細な事で喧嘩になつたりで次第に二人の距離は離れていつた。
レコオドのA面が終つたが、龍雄はB面を掛けなかつた。コヲヒヰを淹れてソフアーに座り、龍雄はじつと座つたまゝコヲヒヰを飮んだ。
『電話してみるか』
龍雄は携帶を手に取り、意を決してダイヤルしてみた。
呼び出し音が數囘なり、相手が出た。
「はい」
「あの、佐藤涼子さんの電話で宜しいでせうか。龍雄と申しますが」
「え? 岩上龍雄さん? えー、びつくり、だうしたの?」
異樣に明るい聲の返事が返つて來た。
「久しぶりに電話番號を見付けたので掛けてみた」
それから一時間以上、昔話に花が咲いた。思ひ出すのは、當時樂しかつた出來事ばかり。靑春の記憶が蘇る。
そんな他愛無い會話を交はす日が、數日續いた。
いつものやうに風呂から出て、バアボンをグラスに注ぎ、涼子に電話した。
「はーい、お疲れ樣」
件の明るい聲の返事が返つて來る。
涼子は現在、四日市市に住んでゐる。結婚してゐたさうだが子供は無く、性格の不一致などから數年前に離婚してゐた。今は資格を取つて介護關係の仕事をしてゐる。時間が不規則で大變らしいが、一人暮らしでも充實してゐて幸せだと云つてゐる。其れは涼子の聲の調子で龍雄にも感じ取れた。
そんな涼子に、龍雄は會つてみたい衝動に驅られた。
「もし休みが合へば、一度會つてみないか?」
「會ひたい、會ひたい。事前に云つておけばお休みは取れるから。龍雄さんは何時が都合いいの?」
「仕事は月水金だけだから、其れ以外なら大丈夫だよ。私がそつちに行くから」
「ぢやあ、ちよつと調整してみる」
翌日の夕方、涼子から電話があつた。
「四月一日、お休み取れたわよ」
龍雄は時間と待ち合はせ場所をメモして電話を切つた。
それからまた數日、涼子との電話での會話を續け、龍雄は四月一日の朝を迎へた。
いつも通りに朝食を濟ませコヲヒヰを飮み乍ら、龍雄は少し不安になつた。自分も年を取つたし、彼女も變わつてゐるかも知れない。
しかし、そんな憂慮も既にだうしやうもない。今日實際に二人は會ふのだ。さう自分に云ひ聞かせ乍ら、龍雄は身支度を始めた。
新幹線で名古屋へ行き、JR關西夲線で四日市驛を目指す。龍雄はドアを閉め、鍵を掛けた。
新年度初めの日だが、意外に新幹線は空いてゐた。乘り繼ぎもスムウズに行つて、約束の時間、午後二時の三拾分前に四日市驛に着いた。
待ち合はせ場所は東口驛前の喫茶店「ロロ」だ。龍雄は驛前のロヲタリヰを一周してみたが、其の名前の喫茶店は見付からなかつた。
唯一あつた喫茶店に入つて尋ねてみた。
「此の邊りにロロと云ふ喫茶店はありませんか?」
店主の答へは、そんな店は西口も含めて聞いた事が無いとの事だつた。
龍雄は仕方なく、其の店で涼子を待つ事にした。
コヲヒヰを飮み乍ら、龍雄は胸に異樣な興奮を覺え乍らも涼子の登場を待つた。約束の二時が過ぎ、拾五分、三拾分が經つた。
龍雄は心配になり、涼子に電話してみた。
『お掛けになつた電話番號は、現在使はれてをりません。番號をお確かめになつて、お掛け直し下さい』
「えつ?」
龍雄は何度か掛け直してみたが、同じだつた。
更に三拾分待つたが、涼子は現れなかつた。
『え? ヱイプリル・フウル? まさか、そんな……』
龍雄は狐につまゝれたやうに、しばし唖然としてゐた。
仕方なく龍雄は店を出たが、涼子の住所を聞いてゐなかつた事を思ひ出した。
『市役所で調べてみるか』
龍雄はさう思ふと市役所を目指して歩き始めた。
道行く人全てに、「佐藤涼子を知りませんか」と聞きたい氣分だつた。
五分ほど歩くと、道路の反對側に小さな墓地が見えた。其のまゝ通り過ぎやうとしたが、灰色一色の墓石の中に、一つだけ木洩れ陽に照らされて輝く墓石が龍雄の横目に入つた。
龍雄は其の光に吸い込まれるやうに墓地に入つて行き、其の墓石の前に立ち盡くした。
『佐藤家之墓』
『ま、まさか…』
龍雄は墓石の後ろに囘つて墓標を見た。
『佐藤涼子 享年五拾五歳』
了