9 アイの楽しみ
「ふうっ!」
長い長い石段を登り切り、ユウは大きく一息をついた。
昨日の雨が嘘だったかのように、今日はよく晴れていて気温も心なし高い。春風が少々強く感じるものの、そこには温かさが確かにある。さすがにぽかぽか陽気とまではいかないが、ユウのように全力で走っていたら、汗だくになるくらいの気候だ。
「久しぶりだな、全力で最後まで走ったの」
独り言をつぶやきながら、ユウはがらりと玄関の戸を開けた。
昨日約束した通り、待ち合わせの場所にユイはいなかった。もし来ていたら首根っこひっつかんで追い返してやろうか……と密かに思っていたユウにとって、それは嬉しくもあり、ほんのちょっぴりだけ寂しいことでもあったりする。
ともあれ久しぶりに一人でのジョギングタイムとなったユウは、ユイと一緒の時では到底出せないような速度でいつものコースを巡りきった。しばらくぶりの全力であったけれど、一向に体力の衰えを見せなかったところは、さすがは道場の息子と言うべきだろう。
ひとしきり走った後は、やっぱりいつものベンチでゲームして、そして頃合いになったところでこうして自宅に戻ってきた、というわけである。
「あ、おにーちゃん。お帰り」
「おう」
気配を消さなかったからか、居間のところでユウは妹──アイに見つかった。
「最近にしては珍しいね、こんなに早く帰って来るなんて」
「そういうお前もな。ここ最近はずっと朝稽古に力を入れてたのに」
例のラジオの聞き逃し事件があってからしばらく、アイはその無念をぶつけるように朝の稽古に励んでいた。いつもなら稽古を終える時間になっても修練を続け、道場で延々と拳を振るっていたのをユウは知っている。
単純なストレス発散としての意味合いが強かったのだろうが、実はそのおかげでユイを連れ込んでも気づかれなかった──という背景があったりする。
そんなアイは、ユウの言葉を待っていましたとばかりににんまりと笑った。
「実は今日も例のアイドルの特番があるの! だからおにーちゃん、早く朝ごはんたべよ!」
「へいへい」
手洗いうがいを済ませ、ついでに自室であるものを取って戻ってきた頃には、すでに朝餉の支度は出来ていた。卵焼きに焼き魚、それにお味噌汁といういかにも日本的なメニューである。
アイはユウが席に着くまで待っていたらしい。早くしろと目で急かされたので、ユウは大人しく席へと着いた。
「いただきます」
「いただきます」
言うやいなや、アイは猛烈な勢いでがっつき始めた。お茶碗をひっつかんでご飯をかっこみ、卵焼きは二口でぺろりと平らげる。焼き魚に至っては太い骨こそ取ったものの、後は知らないとばかりに頭ごとバリバリと食べてしまった。
女子高生になる娘がこんな有様でいいのか──と、ユウは頭がちょっとだけ痛くなる。
「ごちそうさま! ラジオつけるけどいいよね!」
「おう」
妹の謎の情熱に半ば感心しながら、ユウはゆったりと朝食を進めていく。ちょっと古びたラジオからは朝の交通情報が流れてきて、行楽日和であちこちで渋滞が予想されることを伝えてくれた。
そして。
『──全国の皆さん、おはようございます! 【朝採りもぎ立てミュージックちゃんねる】のお時間です!』
「来たぁぁぁぁ!」
「騒ぐな。消すぞ」
「──! ──!」
「別にボディランゲージしてまで喜びを示す必要はないぞ?」
軽快な音楽と共に、明るい司会の声がラジオから紡がれた。喜びのあまりテンションのおかしくなった妹をぴしゃりと諌め、ユウは味噌汁をゆっくりと飲む。
『さてさて! いきなりでごめんなさいだけど、今日はちょっと残念なお知らせが!」
「……ん?」
続いて流れてきた不穏な言葉に、アイの動きがピタリと止まった。
『今日は予告通りゲストにユーリちゃんを呼んで、あの【O'ast Kitten!】の極秘情報をこっそり教えてもらう……予定だったのですが』
『実はユーリちゃん、風邪を引いちゃったそうで、今日はこれなくなっちゃいました!』
「──は?」
背筋がぞくりと凍るような、低い声。虚ろな目をしたアイが、女の子のしちゃいけない表情をしてラジオを眺めていた。
『いやね、おじさんとしても残念だけど、風邪ひいちゃったものはしょうがないよね! ファンなら温かくユーリちゃんの快復を祈っててほしいな!』
『代わりと言っちゃなんだけど、おじさんが【O'ast Kitten!】を生で歌っちゃうから、それで勘弁してくれよな! おじさんがカバーがした奴だって今ここでしか聞けない超限定版だ! みんな、録音の準備は出来てるかぁ!?』
「──ぶっ潰す。司会者如きがカバーとかおこがましいにもほどがある。何より、それでユーリちゃんの代わりになるとか思っていることに無性に腹が立つ」
「ファンなら温かく許してやれよ」
「私はこのおっさんのファンじゃないの!」
『さてさてさて! 全国のみなさんの怨嗟の声におじさんちょっと泣いちゃいそう! ここでユーリちゃんから預かったメッセージを読ませてもらうよ!』
『──【番組を楽しみにしてくれていたみなさん、ごめんなさい! 恥ずかしながら、風邪を引いちゃいました。実は最近体力をつけるためにジョギングしているんですけど、ちょっとその時に体を冷やしちゃったみたいです】』
『──【さて、今回の件は完全に私の体調管理がなっていなかったのが原因です。ご迷惑をおかけした皆さんにお詫びを申し上げますとともに、ほんのささやかですが、気持ちとして特別版のCDをプレゼントしたいと思います。これが代わりになるとは思いませんが、許してくれると嬉しいな!】』
『──そんなわけで! ここに朝イチに届いた直筆サイン入りの特別版CDがあります! こいつを番組を聞いているみなさんから抽選で十人にプレゼント! 応募方法はいつもと同じ感じ! ただし──』
『番組途中に発表されるキーワードが必要だ! 聞き逃さないようにな! 早速一つ目のキーワード行くぜ!』
『──【ジョギング、楽しい】! ちなみにキーワードはユーリちゃんから指定されたやつだ! よっぽどジョギング好きなんだろうね! それじゃ、気を取り直して次のコーナー行ってみよー!』
「おにーちゃん、ペン」
「おにーちゃんはペンではありません」
アイは立ち上がり、ごそごそとどこからかペンとメモを持ち出してくる。楽しみにしていたコーナーがまたも聞けなかったからだろうか、その表情は不満たらたらで下手したら泣き出す一歩手前だ。
それでもちゃんとキーワード―をメモするところを見るに、よほどその特別版のCDとやらが欲しいのだろう。テレビにもラジオにも、もちろんアイドルだの歌手だのにも一切の興味のないユウには、その気持ちはまるでわからない。
『──さぁて、次のコーナーに行く前に二つめのキーワードだ! ええと……【トースト、落とさないでね】! 実に馴染み深いフレーズ! こいつはおなじみ【O'ast Kitten!】の歌詞からだろうね! これ聞きながらトースト食べている諸君も多いんじゃないかな!』
「ずいぶんとらしくないキーワードだな? この手のキーワードって普通もっとシンプルだろ」
「おにーちゃん、うるさい」
必死にメモを取る妹をよそに、ユウは味噌汁のおかわりをする。久しぶりに全力で走ったからか、今日はいつになく腹が空いているのだ。おそらく、汗をかいたために体が塩気を欲している、というのも一因ではあるのだろう。
ユウがのんびりとみそ汁を飲んでいる間にも、ラジオからは軽快な音楽が流れ、最新の音楽の情報を流し続けている。もちろんユウはその内容に一切の興味が無いが、こういうのが好きなアイでさえ、その内容をろくに聞いていない。
おそらく、重要なキーワードを聞き逃さないようにと、それ以外については意識をシャットアウトしているのだろう。
そういう風に使う技術じゃないんだけどな──なんて思いながら、ユウは食後の麦茶をぐびりと飲んだ。
『──おっと! 今日はもう時間が来ちゃったようだ! みんな、最後まで聞いてくれてありがとう! ──え? 最後のキーワードがまだだって? わかってるわかってる、今から発表するって!』
『──さぁ、聞き逃すなよ! 最後のキーワードは……【いつもの場所で、待ってるからね!】だ! ……なんかちょっと意味深なフレーズ! もしかして幻のアナザーバージョンに関連する言葉なのか!? あの曲の背景を考えるのにも役立ちそう! 最後に、もう一度応募方法の確認を──!』
そしてとうとう、最後のキーワードが放たれた。アイはそれをしっかりとメモし、お行儀悪くぐてっと机へと突っ伏す。
しょうがないな、なんて思いながらユウは自らの食器と一緒にアイの食器も台所へと片付けた。どうしてそんなにも落ち込むのかまるで理解は出来ないが、楽しみにしていたことがトラブルのせいでおじゃんになった──例えば、ゲームの発売日が急遽延期になったとか──悲しみは、ユウだってわかるのだ。
「ホントに好きなんだな、その曲」
「うう……曲も好きだけどぉ……それ以上に、歌っている人が好きなんだよぉ……。私、今日この瞬間だけを楽しみに、あれからずっと頑張って生きてたんだよぉ……」
「大袈裟過ぎない?」
「おにーちゃんには一生かかっても理解できないだろうね……。ゲームしか興味のないオタク人間だし……」
突っ伏したまま、アイはユウと目を合わせずにふて腐れている。よほど堪えたのだろうか、普段の元気いっぱいの様子からはとても想像できないようなありさまだ。
妹がここまで落ち込むのも珍しい……と思いつつ、ユウは久しぶりに兄貴らしいことをしてみることにした。
「そんなこと言っていいのか? お前にとって嬉しいお報せがあるんだけど」
「ほへ? なに? 新しいプロテインでも出たの?」
「この前聞き逃したっていう特番の録音、もらったぞ」
「……うぇぇぇぇぇ!?」
がばりと飛び起き、食いつかんばかりの勢いでアイはユウに顔を寄せた。ユウの手の中にチラチラと見えるUSBメモリを見てさらに鼻息を荒くし、信じられないとばかりにユウの顔を見上げる。
「ホ、ホントに!? ホントにそうなの!? なんでおにーちゃんがそんなの持ってるの!?」
「ほら、例のジョギング仲間にもらったんだよ。妹が特番見られなくてへこんでるって何気なく話したら、録音データ有るからあげるよって」
「うっひょぉぉぉ! 愛してる! おにーちゃん愛してる! だから早くそれちょーだい!」
「借りものだから壊すんじゃねえぞ? データコピーしたらすぐ返せよな」
「わかってるわかってる! だから早くちょうだぁぁぁぁい!」
「……なんかホントに渡していいのか、心配になってきた」
狂喜乱舞。その四字熟語がしっくりくるくらいに、アイは喜びに満ち溢れていた。顔は笑顔でいっぱいで、口の端が上がっているのを抑え切れていない。
「ねぇ、そのジョギング仲間って人にあとでお礼言っといて! というかぶっちゃけお友達になりたい! お友達になってずっとずっと語り合いたい! 今度うちに呼んでよ!」
「お、おお……」
何気なく放たれた一言に、心の中だけでユウは焦る。実は昨日家にいた──しかも、なかなかきわどい感じの格好だったうえ、風呂だって利用し、さらには部屋で二人きりでゲームしてくつろぎまくっていただなんて、言えるはずがない。
ユウにとって幸運だったのは、興奮しすぎてアイが冷静でなかったことだろうか。普段のアイだったら、ユウのわずかな呼吸の乱れを即座に見破り、徹底的に追及している。
「ええと、日中はかなり忙しいって言ってたし、けっこう厳しいと思うぞ。朝に走っているのも、早朝くらいしか時間が取れないかららしいし」
「……あれ? おにーちゃん、その人って引きこもりニートだっていってなかった?」
「それがどうも違うっぽいんだよな。なんか特殊なバイトをしているらしい」
「……いろいろ察せってことだね。うん、わかったよ」
USBメモリを大事そうに握り、アイはぎゅっと目を瞑った。私が友達になるからね……! などとつぶやいているところを見るに、何やらよくわからない勘違いをしているのだろう。
訂正するのも面倒なので、ユウはそのままほったらかすことにした。
「じゃ、とりあえず名前だけ教えてくれる? 今度お礼のお手紙書くから!」
「おう。ユイってやつだ。苗字は言ってなかった」
「おっけ、ユイちゃんね……!」
「……ん?」
今にも飛び上がらんばかりの妹を見て、ふと、ユウは気付く。昨日は何とも思わなかったのだが、よくよく考えてみればおかしいことが一つだけあった。
「……なんでユイのやつ、俺の名前を知っていたんだ?」
▲▽▲▽▲▽▲▽
USBメモリを受け取ったアイは、自室へと引きこもった。USBメモリの中の音声ファイルはそのままでは──パソコンで開かないと聞くことは出来ない。ゆっくりと一人で音楽を楽しむという観点から見ても、アイの行動は何ら間違っていないといえるだろう。
「ふんふふ~♪」
鼻歌なんか歌いながら、アイはそれを自分のノートパソコンへとセットする。この年で自分専用のパソコンを持っているのはちょっとした自慢だが、もちろんこれは兄のお古だ。
それでも、音楽ファイルの移行をしたり、ちょっと動画を見るくらいでしかパソコンを使わないアイにとっては、お古で十分──むしろ、新しいパソコンなんて壊してしまいそうで使いたくないとさえ言い切ることができる。
「まだかなまだかな~♪」
【識別中】の文字を愛おしく眺めながら、アイはこの後訪れるだろう素晴らしき音楽の世界に思いをはせる。
そして。
ぴこん、と識別完了の音が鳴った。
「よっしゃあ! ……んん?」
たった一つだけ入っていた音声ファイル。それを見て、アイは首を傾げた。
ファイル名は【朝採りもぎ立てミュージックちゃんねる_特別版】。長さはだいたい十分ちょっと。ファイルサイズはちょっと大きいけれど、朝のラジオの一コーナーのデータだとすれば、それほど不思議な数値ではない。
問題なのは、別のところだ。
「……なんでファイル作成日が放送日前になってるんだろ?」
んむむむ、とアイは頭を悩ませる。
でも、今のアイにはそれ以上に重大な問題があった。
「……ま、いっか! バグるのなんてよくあることだよね!」
デスクトップ上へとそのファイルをコピーし、アイはお気にのヘッドフォンを装着する。そして音声ファイルをクリックし、めくるめく芸術の世界に笑顔で没頭していった。