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60 『聞いてないんですけど?』


「聞いたよ咲島くん、スーツ買ったんだって?」


「なんかすっごい高いオーダーメイドのやつらしいじゃん?」


「ふふふ……! 休日にユーリちゃんとお出かけした時のですよね……!」


 放課後。例によって例のごとく、事務所にやってきたユウは──いつものカツサンドを食べている最中に、三人娘に絡まれた。


 幸か不幸か、今この場にはユリはいない。レッスンかはたまた別の仕事があるのか、ともかく合流するとしてももう少し後のこととなる。ユウが事務所に来たのは諸々の打ち合わせのためであって……つまり、時間にいくらか余裕があるのは間違いない。


 間違いない、のだが。


「どこから聞いたんですか、それ」


「ユーリちゃん自身が今日届くんだーって、言いふらしてましたよ?」


「んで、届いたら教えてねって言われて……」


「今しがた、桜木さんに聞いたら『さっき届きましたよ』って……まさか、知らなかったのかい?」


 ごくん、とカツサンドを飲み込んで。そしてユウは、受付のところに佇む綺麗なお姉さん……桜木のほうをちらりと伺い見る。


 ──ユウの視線に気づいた桜木は、にこっと笑って小さくひらひらと手を振っていた。


「……今初めて知りましたね」


 少なくとも、ここにやってきた時は何も言われなかった。そして、カツサンドを食べている最中に宅配業者がこの入り口を通った気配はない。となると、ユウの知らない裏口(?)に届いたか、あるいはすでに荷物を受け取っていたのに桜木が何も言わなかったかのどちらかだが……そんなのはもう、考えても仕方がないことである。


「そうなのかい? てっきり今日は、スーツの試着のために来たものだとばかり」


 ホタルが不思議そうに小首をかしげる。実際のところ、それも今日の予定の一つではあったのだが、別に急ぎのものでもないし、明確に時間が取れるかどうかも不明であったため、姫野からユウには通達されていなかったのだ。


 もちろん、試着の一つくらいであればユウ一人でできないわけではない。しかしながら、そこには姫野の……ユウ以外の人間に対する特別な配慮があったのである。


「じゃあさじゃあさ! せっかくなんだし、今から試着するってのはどう!?」


「どうって……勝手に着ていいものじゃないでしょう?」


「いやいや、自分の正装なんだから好きに着て良いに決まってるじゃん!」


 買ったのは事務所(ひめの)とはいえ、実際に着るのは紛れもなくユウだ。ましてや、そのスーツを着るのはあくまでこの事務所の中だけだというのであれば、変に遠慮する必要なんてどこにもない。マリナが言っているのはどこまでも正論で、そしてほかでもない事務所の先輩がそう言っているからこそ……「あ、そういうものなのね」という気持ちがユウの中にも芽生えてくる。


「あ、ちなみにですけれども……」


「なんすか?」


「ユーリちゃん、ちゃんと咲島くんのスーツ姿は見ていますよね……?」


「そりゃまあ。買う前の試着の時にばっちりがっつり見られてますよ。なんなら俺が鏡で見る前よりも早くあいつが見ているような……けど、それが?」


「よかった……いえ、ちょっと気になっただけです」


 わかり切っている地雷を踏み抜く理由なんてないですからね……と、ミチルは小さく呟く。もちろんユウの鋭敏な耳はその呟きをしっかり捉えていたが、残念なことにその意味までは把握することはできなかった。


「さぁ、そうと決まれば善は急げだ。時間も惜しいし、お着替えタイムと行こうか!」


「……一応確認ですけど」


「なんだい?」


 ユウよりもウキウキした様子で桜木の元にスーツを取りに良く三人娘……のうち、一番近かったホタルを呼び止めて。


 ユウは、重々しく告げた。


「まさかとは思いますけど、目の前で脱げとか言ったりしませんよね?」


「い……言うわけないだろう!? キミは私たちを何だと思ってるんだ!?」


「いえ……スーツ買いに行ったときは、ユリと姫野さんの前で割とがっつり脱がせられたので」


「うそでしょ」


「嘘だったら、よかったんですけどね」




 ──さすがに、公共の場で脱がすのはよくないと思うよ。




 後にホタルが、こっそりとユーリに告げたその言葉。言い方を致命的に間違えてしまったとホタルが悔やむことになるのは、もうちょっと後のことであった。




▲▽▲▽▲▽▲▽




「こんな感じっす。……期待させておいて申し訳ないですけど、別に面白いものでもないでしょう?」


 ややあってから。


 きちんと更衣室(?)で新品の黒のスーツに着替えたユウは、例のダンスのレッスンスタジオでその姿を三人娘に披露していた。もちろん、わざわざこの場所を選んだのはスーツ姿でダンスをするため……ではなく、単純に壁一面が鏡で前も後ろも見るのに難儀しなかったから、というそれだけの理由である。


「へぇ! 思った以上にしっくりしてるじゃん!」


「化けたねえ……! 咲島くんとはとても思えない仕上がりじゃないか!」


「なんでしょう……? 体ががっちりしてるからスーツが似合うんですかね?」


 悪くない反応。若干一名ほど、かつての意趣返しをしている者がいるが、それはご愛嬌というものだろう。少なくとも、三人とも酷くまっとうに、純粋な意味で──友人が新しい装いをしていることに対しての感想を述べている。それは、ユウが想像していた「お披露目会」とほとんど違わないものであった。


「しかしまぁ、随分と良い生地使ってるね……。相当なお値段したんじゃないか?」


「ちょっとビビるくらいの値段ではありましたね」


「男の子のマジなスーツ姿ってなんだかんだで初めて見たけど……なんだろね、改めて見るとブレザーとは雰囲気全然違うよね」


「その辺は俺にはさっぱりっす」


「たしか、数着ほど買われたんでしたっけ? いろんな色や柄のを一通りそろえたってユーリちゃんが楽しそうに話していましたが……」


 話しかけていた言葉を途中で切って。


 ミチルが、少し不思議そうに問いかけた。


「黒のスーツに黒いネクタイ……柄入りのものではありますが、ネクタイくらいは色付きのほうが良かったのでは?」


 ボディガードがおしゃれをする必要なんてどこにもない。どこぞの映画に出てくる秘密組織のエージェントだって、黒いサングラスに黒いスーツ、そして黒いネクタイで決めていた。だからある意味では、黒で統一するのが正装であるのだと言えないこともないのだろう。


 けれど、そこまでガチガチに黒にこだわる必要もまた存在しない。今の日本においては黒いスーツに黒いネクタイではどうしても喪服を連想するし、無駄な威圧感や圧迫感だって与えかねない。


 であれば──そう、ネクタイくらいは華やかなものにしてもいいのではないか。それこそが、ミチルの言いたいことである。


「ああ、それは……」


 もちろん、そんなことはスーツ屋さんでもすでに話題に上がっているわけで。


「俺も、ネクタイくらいは色のあるやつにしてもいいんじゃないかって言ったんですけどね。あいつが色のあるやつは嫌だって聞かなくて」


「……え? ユーリちゃんがそんなことを……? 咲島くん、よっぽどセンスのない色でも選んだんですか……?」


「いや、さすがにそこまで常識知らずじゃないっすよ……普通にそこらで見かけるような、シンプルな深い青です」


「……えっ」


 一瞬で、ミチルの顔がさあっと蒼くなった。


「ちょっと待って咲島くん……まさか、赤を選んだりとか」 


「よくわかりましたね。……いや、青がダメでも赤ならいいだろって思ったんですけど、それもダメだって言われました。別に派手なドギツい赤じゃなくて、普通にリーマンが着けてるような落ち着いた赤ですよ?」


「いやいやいや……どう考えてもこの流れじゃダメに決まってるでしょ……」


「……? まぁ、ともかくあいつの中では色付きはどうにもダメみたいで。緑だったらギリ許容範囲ぽかったんですけど、黒のチェックが良いって言うもんだからじゃあそれにするか……って。ほかの細々したやつもほとんどあいつに選んでもらいましたね」


「もはやツッコむ気すら失せてきたんだけど、当たり前のようににユーリの意向で物事を決めていることについては、どう思ってるんだい?」


「だって……俺、そういうのよくわかんないし……。その辺は全部あいつに任せたほうが確実でしょう? 俺のセンスより、アイドルのセンスのほうが絶対信じられるじゃないですか」


「「…………」」


 ああ、もうこりゃダメだ──と、赤青黄の三人娘の心が一つになる。確かにユウはファッションやその手の話題に非常に疎いところがあったが、かといって自分の意志がないというわけではない。それなのに、もはやユーリの意見に従うことに何の疑念も抱いていない──それこそが当然のことであると、心の底から思ってしまっている。


「どういう手管を使ったんだろうね……こうもガチガチに仕込むとは……」


「ええ……あの娘、もしかして想像以上にちょっとアレな感じなの……?」


「ユーリちゃんもそうですが、咲島くんもあまりにも無防備すぎません……? 今日日、三歳の子供でも自分の好みくらいは主張しますよ……?」


「……マジで、そこまで色にこだわりがなかったってだけですからね? それにほら、ライブの主役はあいつなんだから、そのボディガードだって主役の意向に沿うのが筋ってものでしょ? アイドルにはイメージカラーがあるとも言いますし、迂闊に変な色を取り入れたらそれこそ雰囲気がぶち壊し……って、なんすかその顔は」


「べっつにー?」


「そこまでわかってて、なんで肝心なことが分かんないのかなーって思ってるだけ」


「朴念仁……ともまたちょっと違うでしょうか。なんかもう、一周回ってユーリちゃんが可哀そうに思えてきました……」


 何とも微妙な顔……具体的には、呆れてものが言えないと顔に書いた三人娘が、わざとらしくため息をつく。ユウとしては甚だ遺憾ではあるのだが、さすがに三対一はあまりにも分が悪すぎるし……仮にタイマンだったとしても、ユウが女の子に口喧嘩(?)で勝てる可能性なんて万に一つもないのである。


「……なぁ咲島くん。もしかしてだけど……いや、恥ずかしかったら言わなくてもいいんだけど」


「……なんすか?」


「ネクタイ、一人で結べる? その様子だとキミ、今までつけたことなんてないだろ?」


「ええ、ありませんよ。実際、結べませんでした……が、今は練習して結べるようにしましたから」


 論より証拠、と言わんばかりのユウはその黒いネクタイを結んで見せる。鏡も見ずに、手元だけで……そう、あの時ユリにやってもらったウィンザーノットだ。首元に現れた三角は形も綺麗で立体的で、どこに出しても恥ずかしくない出来栄えである。


「どうです? 悪くない仕上がりで──」




「な……なんで、ネクタイ結べるの……?」




 入口のほうから聞こえてきた、この世の終わりを見たかのような絶望しきった声。


 三人娘の視線と、そしてユウの視線が入口のほうへと向く。


 当然、そこにいたのは。


「う、うそでしょ……?」


 信じられないとばかりに立ち尽くす、ユリであった。


「よお。用事は終わったのか?」


 はて、なんでこいつこんな顔してるんだ──と、心の中でいぶかしみながらもユウは努めて冷静に、いつも通りの様子を崩さずに声をかける。自分の経験上、変によそよそしい態度を取ったら絶対にろくなことにならないのはわかりきっているし、何より今回はマジで何もやましいことなんてしていないのだから。


 一方で、ユリは。


「な、なんで!? なんでネクタイ結べるの!?」


 これからレッスンのつもりだったのか、ユリは動きやすい服装──つまりは、結構な薄着をしている。具体的には薄手のシャツ一枚で、ユウとしては少しばかり目のやり場に困る感じだ。それなりの付き合いである今だからこそ何とか耐えられているものの、もし初対面でこんなふうに……拳にして三つか四つ分の距離まで肉薄されたのなら、きっと大変なことになっていただろうな──と、ユウは不動の精神で加速を始めた自らの心臓の鼓動を抑え込む。


 ──なんでこいつ、毎回地味にいい匂いがするんだろ?


 どうでもいいことを心の中から追い出して、ユウはただただ事実を告げた。


「なんでって……そりゃあ、覚えたからだろ」


「いつ!? 私、聞いてないんですけど!?」


 別に言う必要は無いというツッコミをいれられる人間は、どこにもいなかった。


「お前、俺のこと知ってるだろ?」


「知ってるから、聞いてるんですけど!?」


「──あの動きは、見切った(・・・・)」


「……?」


「──敵の動きを見切り、理解すれば自らの技にすることができる。というか、そこまでやれて初めて【見切った】って言えるんだよ。そう、理解できなきゃ見切った内には入らない」


「……」


「確かに俺はファッション関係は五歳の子供にも劣るかもしれないが──こういうことなら、むしろ得意だ」


 咲島流の師範代であるユウにとって、相手の攻撃を見切るのなんて朝飯前だ。当然、その動きを見切ったのなら自分自身で再現することもできるわけで。ネクタイの結び方なんて、究極的には決まった手順でぐるぐる巻きつけるだけ……武術と違って、相手の動きや重心、タイミングを考慮する必要はどこにもない。決まった通りに指を動かすだけなのだから、それを模倣することができないはずがないのだ。


 ただ、ちょっと問題があるとすれば。


「ユウくん……ネクタイを結ぶのを攻撃か何かだと思ってるの……?」


 呆然としたユリが紡いだ、その言葉。


 それが、この場にいるユウ以外の人間全員が思っていることであった。


「…………マジな話、武術ってのは右でも左でも使えるようにならなきゃいけない。だから、反転した動きに対応できるようにするってのは普通なんだよ。ねえ、ホタルさん?」


「論点ずらしは感心しないねえ」


「……あれっ」


「なんでそこで、武術で話を例えるのかな……」


「ま、マリナさん?」


「ユーリちゃん……可哀そう……」


「ミチルさんまで……?」


 迷惑かけないように練習した、でいいじゃないですか……と、ミチルがどこか憐みの光を宿した瞳でユウとユリを見つめる。ネクタイを着けてくれる相手を敵扱いはないわあ、とマリナは優しくユリの肩をぽんぽんと叩いた。ついでにホタルは、武術を嗜む人間全員がこう(・・)じゃないからね──と、ユウ以外の三人に向かってわざとらしい解説(?)をしていた。


「と、とりあえず! まだまだユウくんは初心者だからっ! だからしばらくは、私が着けてあげるからっ!」


「いや……子供じゃあるまいし、大丈夫だって」


「名実ともに子供だよっ! ううん──ファッションで言えば生後三か月の赤ちゃんなんだよ!?」


「そんなこと……あるかも、だけどさあ」


 せめて三歳児くらいではあってほしかったな、とユウは心の中で涙を流した。


「それに……ユウくん、そのスーツって」


「さっき届いたらしくって。せっかくだから着てみてほしいって言われた」


「…………ふぅん」


 ユリのその一言に、慌てたのはミチルだった。


「え……ユーリちゃんにはすでに見せたって言ってませんでしたか……!?」


「間違いなく見せましたよ? なんならこいつが一番見てるまでありますが……おいユリ、そうだよな?」


「そうなんだけど……どうせなら、また最初から着替えるところをゆっくり見て見たかったなって。あの時、なんだかんだでそんなにじっくりとは見られなかったから」


「「…………」」


 コレ(・・)は思った以上にヤバいんじゃあないか。


 三人娘の心は一つになって……されど、誰も言葉を発さない。発せない、と表現したほうが正しいかもしれない。少なくとも三人とも、身近な友人であるはずの少女がとんでもないことをまるで当たり前であるかのように話し始めた時の対処方法なんて、知るはずがないのだ。


 そして、そんな三人娘を無視して──ユリは自らのポケットをまさぐり始めた。


「スーツは残念だったけど……」


 頼むから。


 頼むから、次に続く言葉はまともであってくれ──と、三人ともが心の底から希った。


「じゃん! 整髪料!」


 ユリがポケットから取り出したのは……いわゆる整髪料だ。クリームジャーに入った比較的コンパクトな形をしており、そしてどことなく高級感あふれるデザインをしている。もしユウにいくらかのファッション知識があれば……あるいは、この場にいたのが上村や天野であれば、それがメンズの整髪料の中でも相当お高いもの、具体的にはたったこれっぽっちでウン千円とする代物であることに気づけただろう。


「おっ、整髪料か」


「え……ユウくん、知ってたの?」


「そりゃあ、俺だって今どきの男の子だからな」


 もちろん嘘である。ユウがすぐにそれに気づけたのは、似たようなものを数時間前に見たばかりだからだ。


「スーツ屋さんの時は髪のセットまではできなかったでしょ? だから、ちゃんと髪をセットしたところも見たいなあって」


 にこにこと嬉しそうに──心の底から楽しそうに、ユリはユウの後ろへと回る。なんとなくそうだろうなと感づいていたユウは、誰に言われるまでもなく、少しばかり腰を落としてそれを受け入れる体勢になった。


「そういや、咲島くんが髪をセットしているのって見たことないね」


「それこそ、あのライブの変装の時くらいでしょうか」


「でしょ! それだって、スーツは借り物なうえにじっくりは見られなかったし……! せっかく一張羅を着ているんだから、髪もきちんとセットしてすごくカッコよくしたいと思ってたんだあ!」


 とんとん、とユリがユウの背中をたたく。言葉を交わすことなくユウはもう少しばかり腰を落とした。傍から見ればほとんど空気椅子状態ではあるが、長年鍛え上げたユウの足腰の強さは半端ではない。見ていて惚れ惚れするほどのその安定感は、まるで本当にそこで椅子に座っているかと錯覚するほどだ。


「せっかくだし、いろいろ試してみちゃおっかなー!」


 きゅるきゅる、とユウの耳元で蓋の開く音がする。


 そして。




「…………は?」




 思わず背筋がぞくりとするほどの、冷たい声。


 咲島の人間をこうも精神的に追い詰められる存在は、この世にそうは多くない。




「──ねえ、ユウくん」




 感情の一切を削ぎ落した、無機質な声。


 ぴと、ぴと──と、ユウの首筋にその白く細い指が触れた。


 視線の先──鏡の中では、満面の笑みを浮かべたユリが、ユウの耳元で囁いている。




「──説明、してくれるよね?」




 無言の圧力。重力が三割増しになったかのような空気。先ほどまでは上機嫌だった人間が、こうもいきなり豹変することなんて尋常ならざる事態だ。実際、友人のあまりの変わりように三人娘は事態を理解しきれていない……否、状況を理解する以前の問題として、認識そのものが追い付いていない。


 そしてユウもまた、この状況をどう乗り切るべきか頭をフル回転させる。まずはいったい何が地雷だったのかを探り当てようとして……そして、気づいた。


「その……」


「……」


「……それ(・・)、実は学校ですでにやられたというか」


 ユリが豹変した理由。言わずもがな、今日の心からのお楽しみ──ユウのヘアセットが、すでに自分以外の何者かによって成された形跡を見つけてしまったためである。


 ユリはマジにスーツを買ったあの日から今日この瞬間を心から楽しみにしていたし、何なら楽しみ過ぎて眠りが浅くなる始末でさえもあったのだ。今日という日をずっとドキドキしながら待っていたのに……いざ蓋を開けてみたらこの仕打ちなのだから、可愛そうであると言えないこともないこともない。




「──聞いてないんですけど?」


「「ひえっ」」




 ただ、まぁ。


 ユリが個人的に楽しみにしていただけで、それには法的根拠も何もない。身もふたもない言い方をすれば──ユリが勝手に期待して、勝手に舞い上がって、そして勝手に不機嫌になっているだけに過ぎない。


 そんなの、ユリも心のどこかでは理解している。


 理解しているからこそ、止められないのだ。


「ヘアセットなんて……それも整髪料を使うだなんて、そんなの絶対ユウくんじゃない」


「お、おう……」


「それに、ユウくんなら……もし誰かに勧められたとしても、絶ッ対に断るはず」


「「……」」




「────誰?」




 たった一言。


 たった一言だけで、三人娘はその気迫に飲み込まれて動けなくなる。


 そしてその一言と共に放たれた気迫は──咲島流の師範代でさえも、ほんの一瞬とはいえ動きを止めるほどのものであった。


「ユウくん……」


 すんすん、すんすん。


 ユリはすんすんとユウの匂いを嗅いだ。


 そして、言った。




「……優香ちゃん?」




 なんでわかるんだよ、とユウは思った。


 三人娘は、心の中でドン引きした。


「や、やましいことはしてないからな?」


「……」


「ほら、例のライブでの変装、さすがにクラスのみんなにはバレバレだったみたいで。学校に着くなり、ヘアセットとサングラスを着けられて……な?」


「……」


「も、もちろん誤魔化したぞ? いや、誤魔化したっていうか、どのみちバレてるわけだから、守秘義務だって言ってはぐらかしたというか……」


「……」


「そ、それに。俺がやりたいって言ったわけじゃないんだ。ただ、そういう流れになって……確かにやったのは上村さんだけど、整髪料自体のは天野のやつだ。それにほら、お前だって言ってただろ? 少しはクラスのみんなと仲良くしろとかそういう感じのこと……! だから俺も、これくらいのおふざけくらいなら付き合うべきだと思ったんだよ……!」


「…………」


「信じてくれ、頼む……! お前、俺のこと一番よく知ってるだろ……!?」


 懇願。今のユウにできることはそれだけだ。ただひたすら、本当のことを訴えて……なんとかしてユリの機嫌を直さないといけないと本能が警鐘を鳴らしている。それができなかった時にどうなるかだなんて、想像もしたくないことであった。


「…………じゃあ」


 しめた、とユウは心の中でガッツポーズをとる。


 反応してくれたということは、交渉の余地があるということに他ならないのだから。何より一番ヤバいのは、全くの無反応であることをユウはこの数か月で学んでいるのだ。


「…………証明して?」


「……証明?」


 さて、どうしたものか──と、ユウは思案する。証明しようも何も、今言ったことがすべてなのだから。


「んー……ほら、ちゃんと整髪料落してきただろ? これ、不本意だったってことの証明にならないか?」


「ん……? ちょっと待て咲島くん、どうやって落としたんだ?」


「どうって……普通に、学校の水道でわしゃわしゃーっと。タオルは体育の時に使うやつがあったので」


「「…………」」


 あえて語るまでもないが、整髪料はそんな適当な落とし方をしていいものではない。


「……それ、証拠隠滅したかっただけじゃ?」


「い、いや……そんなつもりはなかったんだが……」


「……ほんと?」


「本当だ。ユリ、俺が今までにたったの一度でも……この手のことで、お前に嘘をついたことがあったか?」


「…………もぉ!」


「うぉっ!?」


「「きゃっ!?」」


 ユウがたじろぎ、三人娘が悲鳴(?)を上げる。


 それもそのはず。


 ユリが──堪らないとばかりに、後ろからユウに抱き着いたからだ。


「ユウくんは! ユウくんは私のなんだからねっ!? 私のっ! 私のボディガードなんだからねっ!?」


「お、おう……」


「別にみんなと仲良くするなって言ってるわけじゃないの! ううん、むしろみんなとはもっと仲良くしてほしい……けど! 私のボディガードだってことも忘れてほしくないの!」


「う、うっす」


 ユウとしてはもう、心の中がいっぱいいっぱいだ。精神的な衝撃が強すぎて冷静さを欠いていると言ってもいい。たとえ大男にチョークスリーパーを掛けられたとしても余裕で対処できるのに、これほどまでに危機感──否、心臓の鼓動を止められないのは、ひとえにひどく物理的な感触のためにほかならない。


 力も、技も。何もかもにおいてユウのほうが勝っている。この程度の拘束、ちょっとでもその気になればすぐに解除できる。


 なのにユウは、それができない。


 しちゃいけないし、したくないし、したらヤバい。だからユウは、なされるがままになるしかないのだ。


「あと! オシャレするときは一番に私に見せてほしい! ボディガードならそれくらい普通だから!」


「え……そうなの?」


「そ・う・な・の・! それと、ケータイも見せて! 撮った写真、送ってもらったでしょ!?」


「う、うん……」


 言われるがままに……いいや、ユウが自分のケータイを取ろうとする前に、ユリが後ろからユウの懐をまさぐる。うひゃあ、と変な声が出そうになるのを、ユウは気合で持ちこたえた。


「やっぱり……! 優香ちゃんから何枚も送られてきてる……! しかもすっごくカッコいいやつ……!」


「……」


「つ、ツーショットまで……!? ど、どういうことなのユウくん!?」


「な、なんか記念に撮るからって言われた……。女子って生き物は、とにかく写真撮らなきゃ死んじゃう生き物だ、こんなの常識だ……って」


「う、うそ……」


「あと……『女子との初めてのツーショだろ、感謝してよね!』って言われた……」


「~~~~っ!?」


 幸か不幸か、全て本当の話である。ユウは確かに、嘘偽りなく正直にあったことを話している。それが自分のできる精いっぱいの誠実な行為で、それ以外にユリを鎮める方法がないと──もし少しでも嘘をついたり事実を隠そうとすれば、その時こそユリがどうなるかわからないと理解しているためである。


 ただ、正直であることが必ずしも正しいとは限らない。どちらを選んでもどうしようもないこともある。悲しいことに、それこそが現実なのだ。


「うわあ……ユーリちゃん、女の子がしちゃいけない表情(かお)してる……」


「咲島くん、けっこうモテるかんじなの……? 結構脈ありっぽく聞こえるんだけど……」


「というより、その優香ちゃんって娘がぐいぐい来てるみたいだねえ。どうしてなかなか、やるじゃないか」


「……だ、だめっ! 絶対だめーっ!!」


 とたたた、とユリが凄まじい指捌きでユウのカメラのケータイを起動する。そしてそのままインカメラ──もちろん、ユウがインカメラを使ったことは一度もない──に切り替えて、ぐい、と腕を上げようとして……微妙に据わりが悪いことに気づく。


「ユウくん!」


「おう……」


 以心伝心。ユリからケータイを受け取ったユウは、耳のこそばゆさをなるべく気にしないようにしながらそれを高く掲げた。


「もっと右……! そこ! そのまま少しだけ腕を上げて……あっ、角度! もうちょっと倒して! あと、ちゃんとカメラ内に入るようにもっと寄って!」


「ええ……すでに十分近いじゃん……。というか、ほぼ毎日顔を合わせているし、呼べばいつでも会えるのに写真なんて撮る意味あるか……?」


「そーいうことじゃないんですっ! 優香ちゃんが撮ったやつよりももっとすんごいのをたくさん撮るまで、今日は帰さないからねっ!」


「うわァ……」


「あれかな、マーキングってやつかな」


「彼のケータイに他所の女の写真が入っているのが、堪らなく嫌なんでしょうね……。でも消すこともできないから、それが埋もれるほど自分の写真を撮っておきたい、と」


 ぐいぐい、ぐいぐい。


 何度も体を押し付けて、最高のアングルを探りに探って。


 一切の妥協もなくベストのポジションを見つけ出したユリは、とうとう写真を撮ろうとして──。




「──はい、そこまで」




 唐突に響いたその声に、動きを止めた。


「あなたねえ……もう、なんて声を掛けたらいいのやら……」


 わざとらしくため息をつき、そしてなんだか疲れ切った表情でユリたちを見ているのは……もちろん、姫野だ。ユリの痴態(?)を見て、いろいろ思うことはある……のに、状況があまりにもあんまりなものだから、上手く言葉にまとめられないのだろう。


 なお、当のユリは動きこそ止めているものの、その構えは解いていない。げに恐ろしきは乙女の執念であった。


「この大事な時期に、妙な写真を撮って流出した……なんてことになったら、目も当てられないってわかってる?」


「みょ、妙な写真なんかじゃないもん……それにこれ、ユウくんのケータイだもん……」


「…………そう言われると、妙に納得できちゃうのが悲しいところよね」


「えっ……俺のケータイなら大丈夫って、どういうことです……?」


「だってあなた……SNSなんてやってないでしょ?」


「ですね。何が面白いのか、さっぱり……」


「ゲームは好きだけど、ソシャゲもやってない……わよね?」


「ですねえ。ちょっと俺がイメージするゲームってやつじゃありませんでした」


「あと、その……リアルの連絡先も、あんまり交換してないわよね?」


「…………最近数人増えましたが、連絡の六割がユリで、二割が姫野さんで、残り二割が妹ですね。というか、ケータイって連絡のやり取りくらいにしか使ってないです」


 ついでに言えば、そもそもとしてカメラ自体もほとんど使ったことが無い。フォトライブラリにあるのは、メモ帳代わりに撮った黒板の写真が数枚と、やっぱりメモ帳代わりに撮ったバスの時刻表くらいである。


 そんなユウのケータイから、大事な情報が流出する可能性が限りなく低いのだ。


「仲が良くて悪いことは無いはずなのに……売りの一つの親しみやすさが悪い方向で発揮されてる……ううん、人の目につかないところで発散されてるってポジティブに捉えるべき……?」


「あの、姫野さん……その、結局写真って撮って良いんだよね……?」


「……せめて、適切な距離感のものにしなさい。あなた、ファンイベントでそんな風に写真撮ったことある?」


「えー……? 全然あるよぉ……?」


「小さい子供相手よね、それ……まぁいいわ」


 相手がユウくんじゃなきゃ、全力で再教育しないといけない事態よね──なんて、小さく呟いて。


 そして姫野は、改めて宣言した。




「──次の仕事の詳細が決まったわ。すり合わせしたいから、さっさとツーショットでもなんでも撮ってちょうだい」




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― 新着の感想 ―
読者も心の中でドン引きした。 ユリちゃん……このままではヤンデレヒロインになってしまう……。
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