6 冷たい雨
「……」
深い眠りから目覚め、ユウはむくりと起き上がった。
カーテンの隙間からちらりと見えた外はまだ少し暗く、寝ぼけた頭で時計を見れば、いつもより一時間ほど早起きしたことがわかる。はて、一体どうしてこんな中途半端な時間に目が覚めたのか──と不思議に思ったところで、ユウは自分の体が伝えてくる感覚に気付いた。
「……うげ」
カーテンを開け、窓の外を見る。
分厚い暗灰色の雲が、隙間なく空を覆っていた。
空気はいつもより幾分か重く、いくらかの湿気を感じる。ここ最近はなかったくらいに吹き込む風は冷たく、止めとばかりにほんのりとわずかに雨の匂いがした。まだ降り出してはいないものの、いつ降り出してもおかしくないくらいの状態ではある。
「まーた微妙な天気だなおい……」
ユウの直感だと、六割の確率で雨が降る。大雨じゃないだろうけれど、しとしとと降り続く冷たい雨だ。窓を開けただけでこれだけ冷たく感じるのだから、外に出て走ろうものなら──風に身を晒したのなら、きっと冬のそれに等しいものを感じることだろう。ましてや、雨が降り出したのらもっとひどいことになるのは疑いようがない。
もちろん、外に出なければまったくもって問題ない。今すぐ暖かい布団の中へと引き返し、惰眠を貪るのも悪くない選択だろう。春休みにしかできない贅沢を学生のユウが思う存分楽しんだところで、どうこう言われる謂れなどありはしないのだから。
「約束、しちまってるんだよなぁ……」
脳裏にパッと浮かんだ芋ジャージ姿のサングラス少女が、ユウに向かってふくれっ面をしていた。
「あいつは来るのかね……連絡できりゃ一番いいんだけど」
あいにく、ユウはユイの連絡先を知らない。今までそんな話をしたことはないし、する必要性も感じなかった。ユウとユイは朝に一緒に走るただのジョギング仲間と言うだけで、文字通りそれだけの関係だ。
「……しゃーない」
それでも、ユウはいそいそと身支度を整え始める。寝間着とほとんど変わらないようなシャツに袖を通し、これまたラフな運動用のズボンを穿いて。ウェストポーチに小物類を入れ──もちろんゲーム機もいれた──最後に台所で水筒を用意すれば、準備は万端だ。
がらりと扉を開け、ユウは外に出る。吹き荒ぶ冷たい風にぷるると一瞬体を震わせ、長い石段を降りていく。日差し一つないものだから思っていた以上に体感温度は低く、体を温めることも兼ねて、ユウはほんの少しだけ早いペースで足を動かした。
「なにやってるんだろうな、俺」
いつもなら、こんな天気の時はジョギングに出掛けない。というか、ちょっとでも雨が降りそうだったのなら悩むことなく家に引きこもる。ユウは確かにジョギングが好きで、朝のあの空気も、あの空気の中で遊ぶゲームも好きなのだが、それそのものが大きな目的ではない。濡れる危険を冒してまで走りたいとは全く思っていないのだ。
そうこうしている間に運動公園へと到着する。いつもの時間よりも一時間ほど早く着いたからか、ユイの姿は見えない。人の姿もまばら……というかまるで見当たらず、公園の中の気配を探っても、それらしいものはまるでなかった。
どうやら、ほとんどの人間が今日は家に引きこもることに決めたらしい。今この場にいる奇特な人間なんて、それこそユウくらいなものだろう。
「……走るか」
どうせ時間はまだまだあるのだ。体を温めるのも兼ねて、ここはひとつ、久しぶりに全力で走ってみてもいいかもしれない。
そんなことを考えたユウは、ユイに合わせているときの倍近いペースで走り出した。冷たい風をその身に受け、湿った空気を切り裂いていく。街灯が、看板が、樹木がどんどんと後ろに流れていき、少しずつユウの体は温まっていく。
「よっしゃ、こんなもんか」
上級者コースと初心者コースを行ったり来たりし、三十分ほどばかり走ったところでユウは引き返す。このペースなら、ちょうどいい頃合いにいつもの集合場所に戻ることができるだろう。まだまだ体力に余裕はあるから、ユイと合流した後にまた走ることになったとしても問題ない。
──そんなことを考えていた、まさにその瞬間。
ぽつり、ぽつりと冷たい雫がユウの頭に落ちてきた。
「やっべ、降り出しやがった」
激しい雨ではないものの、小雨と表現するのは憚られる程度の雨が地面を絶え間なく打ち付ける。雨そのものにはあまり勢いを感じないが、横風が吹いているせいでちょっとした台風のようなありさまだ。
降水量的には少ないんだろうな、なんて考えながら、ユウは一段とペースを速めた。さすがに雨に濡れて喜ぶような子供じゃないし、ユウだってずぶぬれになって風邪をひくのは嫌なのだ。
「この雨ならあいつもこないだろ……」
ちら、とユウは腕時計を見る。雫のせいで酷く見づらいが、まだ約束の時間にはなっていない。ユイがいつ家を出ているのかは知らないが、ここから歩いて帰れる距離に住んでいるのだとしたら、雨が降り出したころはまだ家にいるか、あるいは出た直後といったところのはずだ。
「……嘘だろ?」
そう、だからユウの前方でびしょぬれになっている芋ジャージ姿の人間なんて、きっと夢か幻の類のはずなのだ。
ユウは無意識のうちに全力でかけていた。靴がぐしょぬれになるのも構わずに水たまりに足を突っ込んで、最短距離を突っ切った。
「おい、ユイっ!」
「あ、あはは……咲島くん、や、やっぱりすごく速いんだねぇ……!」
「バカ野郎、そんなこと言ってる場合じゃないだろうが! なんで来たんだよ!」
ユイの体ははっきりとわかるほどにぷるぷると震えている。えんじ色のジャージはすっかり水を吸いきっており、もはや元の色がまるで分らない……というか、黒に近い色合いになってしまっている。
「ひ、ひどいなあ……。そ、そんなの約束したからに、き、決まってるじゃん?」
「だからって傘の一つももってこないやつがあるか!」
「う……こ、ここに着いたときは降ってなかったんだよぉ……」
がつん、とユウは頭をぶん殴られたような気がした。
ユイの言葉が本当なら、彼女はずっとここで雨に打たれていたことになる。そりゃあ、確かに木の下で雨宿りこそしているものの、この横風が吹いている中ではあまり意味をなさない。
ユウが走っている間も、彼女はここでずっと待っていたのだ。ユウが早起きしてここに来たように、彼女もまた、早起きしてユウに会いに来ていたのだ。
ユウが走り出さずにその場で待っていれば、ユイが雨に打たれることはなかったのだ。
「に、しても、今日は本当にひどいねぇ……。ささ、寒いし雨降るし……マスクもびっしょびしょ」
かたかたと声を震わせながら、ユイは弱弱しくにっこりと笑う。用を成さなくなったマスクは捨てたのだろう。いつもはぷっくりと膨らんでいる可愛らしいピンク色の唇は紫色になっていて、やっぱり小刻みに震えていた。
「う……」
「ユイ!?」
ぐらりとユイが体勢を崩す。咄嗟にその体を抱き寄せ、ユウは気づいてしまった。
「あっつ……!? お前、すごい熱出てるじゃねえか!」
「う、うそぉ……!? ちょっと眩暈するけど、そんなはず……」
あれ、と気の抜けた声がユウの耳を突く。どうやらここでようやく、ユイは自分の足腰に力が入らないことに気付いたらしい。おまけに指摘されたことで自覚症状が出てきたのか、みるみると顔が赤くなっていった。
「あ、あれ~?」
「ちくしょう、完全に雨で体を冷やしてやがる! おいユイ、お前の家はどこだ!? もしくは保護者の電話番号!」
「だめだよぉ、ユウくん。いくら私の熱心なファンでも、そいつはまだNGだよ~」
「くそっ! 熱でだいぶトンチンカンになっちまってんな!」
さすがに熱せん妄とまではいかないだろうが、意識が朦朧としているのだけは間違いない。こうなるともう、ユイが一人で家に帰るのは不可能だろう。どのみち、歩くことさえできないのだ。
だとしたら、やるべきことなど一つしかない。ユウは覚悟を決めた。
「オラァ!」
「わっひゃい!?」
ユウは問答無用でユイをおぶさった。冷たく濡れた髪が首筋をくすぐり、柔らかいものが背中に押し付けられる。シャツ越しに暖かめの体温を感じるけれど、それは無視。荒い息遣いも、甘い匂いも、激しい心臓の鼓動も全部思考の外に追いやった。
「緊急事態だ! しっかり掴まってろよ!」
「ユウくん……見た目以上に逞しい体してるねぇ……」
「ちくしょう、どこ触ってやがる!」
意識をもうろうとさせたユイを背負って、ユウは全力で走り出す。夢現のユイがユウの胸筋を撫で繰り回したり、だらりと頭を肩に乗せたり、耳にかみついて来たりしたものの、それでも彼はいつものジョギング以上の速さで走り抜けていく。
「うへへ、はやーい……」
「野郎、後で覚えてやがれよ……!」
目指すはもちろん──ユウの家である。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「っしゃオラァっ!」
長い長い石段をようやっと昇り終え、ユウは玄関の軒先へと駆けこんだ。さすがにこの雨の中、ユイを背負った状態で石段を駆けあがるのは難儀したが、それでもユウの足に限界が来た様子は見られない。
「ふう……ッ!」
だいぶ荒くなった息を意識的に整え、ユウはゆっくりと息を吐く。そのままさらに大きく息を吸って、なるべく自然と一体化するように精神を集中させた。それから二秒、三秒と経つと、まるでその場には誰もいないかのように、ユウの存在感が希薄となる。
雨音がすべてを消し去ってくれるのを願いながら、ユウは慎重に自宅の戸を開ける。ガラガラと幾許かの音が出てしまったが、出ちまったものはしょうがないとそれを無視し、家の中の気配を探った。
「……よし」
幸いなことに、妹の気配はない。父親の気配もない。この時間なら、まず間違いなく稽古に出ているのだろう。
そのことに安堵しながら、ユウは自室へと向かっていく。器用に足で扉を開け、ぐしょぐしょに濡れてしまうのも構わずに、ユイをベッドへと横たわらせた。
「……」
眠っているのだろうか。小さくかたかた震えているものの、ユイは動かない。ずれたサングラスは今にも落ちそうなのに、直そうともしない。ユウがベッドに寝かせたそのままの状態で、手足をだらりとさせていた。
「……あっ」
ここで、ようやくユウは気付く。
「……この後、どうすりゃいいんだ?」
ユウは、一時的な対処としてユイを自宅へと連れてきた。雨宿りの意味合いはもちろん、ここでしっかり体を休めてもらおうと思ったのがその大きな理由だ。体を冷やして熱を出した人間に対する対応として、ユウの行動はそれなりに正しいものだといえる。
普通だったら、この後は熱いシャワーを浴びてささっと着替え、多めに砂糖を入れたホットミルクでも飲んで一息つくところだろう。
だが、肝心のユイは寝こけてしまっている。そして、起こしてしまっていいものなのか、ユウにその判断はつかない。
「と、とりあえず部屋を暖めて……あと、タオルだよな」
エアコンのスイッチをオン。ついでにストーブも引っ張り出し、どちらも出力を最大にする。ストーブがぢぢぢ、と音を紡いだ次の瞬間、暖かな空気と特徴的な匂いがそれから吐き出された。
「……」
そして、タオルを持ち出したユウは固まる。
「……いいのか?」
ユイのジャージはぐっしょりと濡れている。こうなるともう、ジャージの服としての機能はほとんど期待できない。
それすなわち、ユイの体はずっと冷えたまんまということでもある。それは一番やっちゃいけないことのはずだ。
だから、なるべく早くタオルで体の水滴を拭ってやる必要がある。それでも、ジャージを脱がして、だ。
「恨むなよ……っと」
とか言いつつ、ユウは手だの足だの、比較的当り障りのないところだけをタオルで拭いていく。しかし、そんな都合のいい部位などそうそうあるはずもなく。
「やっぱ脱がさないとダメだよな……」
ユウは、ユイの長めの髪を拭きながら考える。こいつの水気を取ってしまえばもう、あとはジャージを脱がすくらいしかやることが無い。本来なら真っ先にやるべきことのはずであるそれは、果たしてアウトなのかセーフなのか。
ユウとユイは、友達ではあるのだろう。ユウはユイのことをそれなりに信頼しているし、こうして面倒を見る程度には大切に思っている。ユイだって、この雨が降りしきる中、ただただユウを待ってくれていた。
だが、決して恋人ではない。朝に一緒に走るジョギング仲間という、それだけの関係でしかないのだ。
──嫌われるのは、なんか、嫌だ。
だけれども、ユイをこのままにしておくわけにはいかない。この手の熱は、きちんと対処しないと意外と長引きかねないことをユウはよく知っている。
ならばもう、覚悟を決めるしかない。
「……何してんだろうな、ホントに。変態かっつーの」
ユウは、その水滴のついたファスナーに手をかけ……ようとして。
一瞬止まって、ユイのこめかみ──サングラスのつるへと手を伸ばした。
「……最後くらい、すっぴん見せろよな」
どうせ最後だ。なら、せめて心残りの無いようにしたい。
そんなことを考えたユウは、顔を拭くためだ──と心の中で言い訳してから、ユイのそのサングラスをそっと外す。
まさに、その瞬間の出来事だった。
「──!」
ふるふると震える長いまつげ。わずかばかりに赤みが戻ってきた頬。
可愛らしい顔立ちの少女と、目が合った。