5 彼女の歌声
「ふう……っと」
自宅前の長い長い石段を昇りきり、ジョギングを終えたユウは一息をついた。
もうそろそろ、人が動き出す時間だろうか。実際、帰るまでの途中でユウは出勤するサラリーマンやゴミ出しに出かける主婦を何人か見ている。小学生や中学生の姿を見かけなかったのは、きっと春休み中だからだろう。
がらら、と音を立ててユウは自宅の戸を開けた。ぽた、と一滴の汗が滴って玄関に小さなシミを作る。汗ふきタオルで額を拭ったユウはぴしゃりと戸を閉めて、そろりそろりと家の中を進む。
「おはよ、おにーちゃん」
「お、おう……」
が、ユウの努力も虚しく、彼の妹──アイは既に食卓へと着いており、こそこそと逃げようとするユウを目ざとく見つけて明るい笑顔を浮かべていた。
「どしたの、さっさと手洗いうがいして、一緒にご飯食べようよ」
「いや、シャワー浴びてから……」
「お味噌汁冷めちゃうでしょ? それに、洗いものはあたしがするんだから」
「……だな」
ユウは手早く手洗いうがいを済ませ、観念したように妹の前へと──食卓へと着く。すでにホカホカの銀シャリと焼き魚、それに卵焼きとこだわりのお味噌汁が用意されていた。今日日珍しい、いかにも日本の朝食といったメニューである。
「いただきます」
「いただきます」
手を合わせてから、二人の朝食は始まる。まずはご飯を一口食べて、それからおかずを一口ずつちょこちょこと。焼き魚の骨は大きなものを真っ先に外し、細かいものは面倒くさいとばかりにそのまま飲み込んだ。
「おにーちゃんさ……」
「うん?」
「最近なんか雰囲気違うよね。今日も、気配が──体力の消耗の仕方が違う」
「……」
にひひ、と笑いながらアイはユウを上から見下ろしている。
ユウよりも広い肩幅に、ユウよりも頭半分ほど高い身長。そして──見てはっきりわかるほどの、筋肉質な体。腕は確実にユウより太いし、もしかしたら太腿もユウより太いかもしれない。これで顔だけは年相応の女の子だというのだからタチが悪い。
たしかにユウは見た目だけはちょっと細めで、そして身長も平均程度だが、それにしたってこの合成写真が現実になったかのような妹と相対すると、巨岩と会い見えたかのような──あるいは、巨大なヘビににらまれた小さなカエルのような気持ちになってしまう。
「ん。最近ちょっと、ジョギング仲間が出来たんだ」
「へえ。あんなところ走るもの好きがおにーちゃん以外にいるんだ。しかも、おにーちゃんと一緒に走れるって相当だよね」
「んにゃ、俺の方が合わせてる」
「そうなの? おにーちゃんがわざわざ人に合わせるって……あっ! もしかして女の子!?」
「うん」
「えええええええっ!?」
あと数日のうちに女子高生になるユウの妹は、その体格に似合わない黄色い声を発し、きゃあきゃあと嬉しそうに色めき立つ。修行や特訓ばかりしているくせに、この手の話題は好きなんだな──と、ユウは柔らかい卵焼きを食べながら思った。
「ねえ! ねえねえねえ! それってそれって、すっごく可愛い子なの!? ううん、あのおにーちゃんがわざわざ気に掛けるくらいだから、すんごい美人さんなんだよね!?」
「芋ジャージのグラサンマスクマフラーな不審者だぞ」
「……えっ」
「おまけに引きこもりニート」
「………………」
「本人は違うって言い張ってたけど、ありゃたぶんダイエットか、不摂生が祟って病院の検査かなにかにひっかかったクチだな」
「なにそれ……」
「顔にコンプレックスでもあるのか、いまだにすっぴん見たことない」
「うぉう……」
本当かどうかはわからないが、ユウはそういうことにしておいた。この口うるさくやたらと甘えたがりな妹を黙らせるには、興味を無くさせるのが一番だと理解しているからである。外見については間違いないし、すっぴんを見たことないのも事実なので、あながち間違いとも言い切れないんだ……と、心の中だけで付け足す。
「でも、なおさら珍しいね。おにーちゃんがそんな人の面倒を見るなんて」
「なんつーか、ほっとけなかったんだよなぁ……」
喋りながらも二人の手は止まらない。机の上の皿はあっという間に空になり、食後の余韻だけが二人の間を満たす。二人とも、今日も元気に二杯ほどのご飯を平らげていた。
「……あ!」
「どした?」
「おにーちゃん、ラジオ聞いていい?」
「飯食い終わったし、別にいいぞ」
ユウの家には【食事中にテレビ・ラジオをつけてはいけない】という絶対のルールがある。ユウ自身はテレビにもラジオにもまるで興味が無いので何とも思わないルールだが、現代っ子らしくテレビが大好きなアイにとっては、このルールはあまりにも苦痛過ぎた。
故に、アイはだいたいいつもテレビの時間をずらしてご飯を食べる。どうしても間に合いそうにないときは、ユウもびっくりするくらいの速さで食べる。そして、必ず食卓を共にする人間にテレビの許可を取るという癖がついているのだ。
「にしても、今どきテレビじゃなくてラジオか」
「んー? 今日はねぇ、ラジオで【O'astKitten!】が流れるんだよ」
「お、おーす……なにそれ?」
何気なく放った一言。だというのに、アイは信じられないものを見たかのような表情でユウにまくしたてた。
「嘘ぉ!? おにーちゃん知らないの!? 今めっちゃ流行ってるアイドルの歌じゃん! CMとかにもいっぱい使われてるし、あちこちで流れてるでしょ!?」
「テレビとか興味ないし、休日は基本家でゴロゴロしてるから」
「おにーちゃんの方がよっぽど引きこもりじゃん……知らないとかありえない……」
「別に知らなくても死にはしないし、生活に困りもしないだろ?」
「健康で文化的な最低限度の生活には必須だよ?」
「……この家にいる限り、健康で文化的な生活なんてありえないだろ」
「……あ」
ユウの表情がはっきりと変わる。あまりにも冷え切ったそのまなざしを見て、アイは言葉に詰まってしまった。
ちく、たくと時計の秒針が二回動く。そのわずかな時間で、アイはこの場を切り抜ける秘策を思いついた。
「よ、よし、ラジオラジオ~っと」
「……」
──♪・♪~♪!
ちょっと古いラジオから、明るく弾む様なメロディが流れてくる。思わず踊りだしたくなるような、はたまたついつい口ずさみたくなるような、何とも特徴的で歌いやすそうな旋律だ。
おそらくこれが件の曲なのだろう。なるほど、如何にもアイドルらしい、元気の出そうな曲である。
「悪くないメロディだな」
あまり音楽には興味がないユウでも、一発で気に入るくらいにはいい曲だ。ぴりっとした緊張感はいつの間にか霧散しており、食卓には先程までと同じ──否、先程まで以上の明るい空気が漂っている。
しかし、上気分になってきたユウとは対照的に、アイは絶望のそれに近い表情をしていた。
「おにーちゃん……」
「お、おう」
「今の、曲の終わりの、サビの歌詞の無いところ……」
「つまり?」
「始まる時間、間違えてた……」
「……ドンマイ」
「うわぁぁぁん!」
明るい旋律はすぐに途切れ、直後にテンションの高い司会者によって宣伝と広告が読み上げられる。そしてそのまま、事務的な声の女性が今日のお天気と交通情報を読み上げ始めた。
「楽しみにしてたのにぃ……!」
「一人でさっさと飯食ってりゃ見れただろうに」
「おにーちゃんが! いっつも一人でご飯食べてそのまま部屋に引きこもるからいけないんでしょ!?」
「そんなの関係ないだろ……っと」
手早く食器を台所へと持っていき、洗いやすいように水を張る。冷蔵庫からよく冷えた麦茶を取り出したユウはコップにそれを注ぎ、腰に手を当ててぐびりと飲み干した。
「んじゃ、俺シャワー浴びて部屋に引きこもるから」
「今日もゲーム? たまにはこっちに顔出してもいいんじゃない? 無理にお父さんと顔合わせなくてもいいからさ……」
「うっせ。ゲーム出来るときにゲームしないでどうするんだよ。ちゃんと自主トレしてるんだから文句は言わせない」
「……」
そうして、ユウは足早に自分の部屋へと戻っていく。アイは、そんなユウの後姿をただ悲しそうに見つめていた。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「おはよう、咲島く……ん?」
「……どうした?」
そして、翌日。いつもの時間、いつもの場所でユウはユイと落ち合った。しかし、何一つ変わったところはないというのに、今日に限ってユイはいぶかし気にユウのことをじろじろと見つめだす。
「咲島くん……なんかちょっと怒ってる?」
「……そんなこと、ないけど」
「嘘……絶対怒ってる! やっぱりずっと私に付き合わせちゃったから……!」
「いや、それについてはもうあきらめてるからマジで何とも思ってない」
「ひどっ!?」
屈伸、伸脚。下半身周りを十分に伸ばし、二人は準備運動を始める。特に念入りにアキレス腱のストレッチを行った後は、互いに背中合わせになってペアストレッチを始めだした。相手を背中に乗せて腰をぐいーっと伸ばさせる、例のアレである。
「でも、機嫌悪そうに見えたのは間違いないよ? ……なにか、あったの?」
首の後ろ──天から降ってくるユイの甘い声。どうせ言うまで引き下がるだろうと踏んだユウは、ちょっとくらいなら問題ないだろうと、その胸の内を語る。
「……ちょっと、嫌なことがあったというか……思い出しただけだ」
「ふーん……?」
今度はユイが背中を丸め、ユウを背負おうと足を踏ん張る。全体重を預けたらどうなるかなんて火を見るよりも明らかだったので、ユウはその驚異的な背筋を持ってストレッチされているフリをした。
準備運動が終われば、後はもう走るだけ。今日も二人は肩を並べて仲良く朝の森の空気を切り裂いていく。この静かな森に響くのは、二人の息遣いのほかには小鳥と虫の音くらいしかない。
「そういえばさ……」
「おう、なんだ?」
「咲島くんって普段、何してるのかなって」
「何って……学校行ってるけど……」
「それ、平日の話でしょ? そうじゃなくて、お休みの日っ!」
「家でゴロゴロ、部屋に引きこもってゲーム三昧」
「あれっ、意外と堕落した生活」
「引きこもりニートには言われたくねえな」
だげど、否定できないのもまた事実である。基本的にユウは一人でゆっくりする事さえ出来れば、それ以上に何かを望みなどしないタイプなのだ。
「それだけじゃないでしょ……他になんかないの?」
「……まぁ、いろいろやってるけどさ」
そして、あまり人に言いたくないこともしている。他人から見ればすごいことなのかもしれないが、ユウ自身は誇れることでも何でもないと思っているし、出来得ることなら完全にそれと縁を切りたいとさえ思っている。
けれど、ユウの家はみんなそうなのだからしょうがない。そして皮肉なことに、ユウにはそれの類稀なる才能があったのだ。
昨日よりもほんのちょっぴり早く、二人は公園の中間地点を通過する。
「もっとこう、プライベートなこと教えてよ!」
「どうしよう、引きこもりがストーカーに進化しようとしている」
「怒るよ!?」
「不審者ルックの人間に追われるこっちの身になってくれ」
今はマスクもマフラーも外しているからまだマシだが、公園に来た直後のユイの姿はまさしく不審者のそれだ。そんな姿の人間に追いかけられたら、いくらユウでも若干ビビる。小学生なら迷わず防犯ブザーを鳴らし、地域のネットワークに拡散されるレベルの事案になるだろう。
「冗談は置いとくとして……そうだなぁ、たまに日雇いっていうか、派遣のバイトやってるよ」
「派遣のバイト?」
「そう、なんかそういうのに登録してさ、気が向いたときに仕事したいぜって連絡するの。場合にもよるけど、倉庫内軽作業とか仕訳、シール貼りとかラベリングとか、そんなのやって日給を貰えるってやつ」
「……ライブの設営とか?」
「そそ。求人サイトじゃいかにも簡単なお仕事です! ……とか言っておいて、実際はほぼ力仕事なんだよな。俺、化粧品のラベル貼りって広告見て応募したのに、実際にやったのは飲料工場でひたすら材料の段ボール箱を運ぶって作業だったぜ。詐欺にもほどがあるっての」
「バイトにゲームに朝はジョギング……意外とちゃんとした生活してるんだねぇ……」
「意外とってのは余計だな。そういうお前はどうなんだ?」
「い……いろいろやってる……よ?」
ユイはわかりやす過ぎるほどに動揺し、さっとユウから視線をそらした。それに心当たりのあるユウは、これ以上何かをしでかさないうちにさっさと謝るというコマンドを選択する。
「……ごめん、ニートに今の発言はちょっと無神経だったな」
「いい加減咲島くんは私への認識を改めるべきだと思いますっ! 私、ホントにニートとかじゃないからね!? 昼も夜も忙しく動き回ってるからね!?」
「ほーん。まぁ、朝のこの時間しか空いてないってのなら、それだけは本当なのかもな」
もちろん、ユウは話半分にしか聞いていない。さすがに本気で引きこもりとまでは思っていないものの、それに近い何かしらの事情を抱えているのだろうということを察している。尤も、それが本当かどうかを確かめる術がないので、結局はどうしようもないのだが。
「ほかに話せることか……ああ、妹がいるな」
「へぇ! いつか会ってみたいなぁ……!」
「……おう、先に謝っとくわ」
「ん? 私、なんかヘンなこと言った?」
「いや、別に」
会話は一度として途切れることなく、やがて二人はゴールへとたどり着いた。ユイは肩で息をしているものの、明らかに昨日に比べて余裕がある。順調に体力がついてきているようで、次はもうちょっと距離を伸ばしてもいいかもしれないとユウに思わせるほどだった。
そのまま二人は、もはや恒例となった例のベンチへと歩いていく。
「そういえば、咲島くんって走るときに音楽とか聞いたりしないの?」
「音楽とかあんまり興味ないんだよな。そういうお前はどうなんだ?」
「ま、まあちょっとは興味あるけど……なんか恥ずかしいっ!」
ほっぺを真っ赤にさせてユイが恥ずかしがる。いったい今の会話のどこに恥ずかしがる要素があるのかユウには全くわからないが、女子供とは得てしてそういうものだと思い直ることにした。
妹のアイだって、風呂上がりにスポブラ姿でそこらを歩き、洗濯物の扱いだってユウに任せることがあるくせに、なぜか下着を外側にして干すとひどく恥ずかしがって容赦ない一撃を食らわせてくる。前者が良くてなぜ後者がダメなのか、ユウは未だに納得していない。
「ああでも、昨日妹が聞いてたのはちょっといいなって思ったな……」
「どんな曲?」
「名前は知らないけど……こういうやつ」
──ふんふんふんふ ふんふふふ ふんふーん♪
ハミング……と言えるほどの上等なものではないものの、ユウは頭にしっかり残っていたメロディを口ずさむ。中々歌いやすい曲なのか、一度も歌ったことのない割にはうまくできたんじゃないかと、ユウは自分で自分に万雷の拍手を送った。
「どうよ? なんか有名な曲らしいぜ……ユイ?」
いつのまにやら、ユイの足が止まっていた。どことなく落ち着かない様子で、見るからにそわそわとしている。明らかに尋常な様子ではなく、かといってかつてのように酸欠が起きたようにも思えない。
「ユイ? どうした?」
「咲島くん……」
サングラスの下から、ユイがじっとユウを見つめる。
なんだかよくわからなかったので、ユウは困った様に愛想笑いを浮かべることにした。
「わかっててやってる……?」
「いや、全然わかんねえけど」
「そっか……そうだよね……うん! そうなの! それは全然違うの! ホントはこう!」
ユイは、その可愛らしいくちびるに音を灯した。
──うわのそら O'ast Kitten!
──キミだけを みつめてる
──指鉄砲に ときめき込めて
──キミにとどけ このきもち
高めの彼女の甘い声が、静かな森に響き渡っていく。朝のこの空気よりも透き通った声が、高らかに自然へと響いていく。まるでそこにはそれ以外の音が存在しないかのように、ユウの耳はその音の虜となった。
「~♪」
どれだけ時間が経っただろうか。もしかしたら一瞬のことなのかもしれないし、一時間のことなのかもしれない。時間の感覚なんてとっくにどこかに行っていて、ユウはただ、歌うユイに釘付けとなった。
──勇気を出して O'ast Kitten!
──ウィンク飛ばし 投げキッス
──鏡の前で はなまるつけて
──私だけみて O'ast Kitten!
たしかな余韻。言葉に出来ない妙な高揚感。生まれてこの方、こんな気持ちを感じたことはない。ユウは確かに、そう思った。
「え、えへへ……どうだった?」
「す、すげえな……。良い声だって思ってたけど、マジで才能あるかもしれない。プロデビューできるんじゃないか?」
「…………今からデビューってのは、ちょっと無理かな?」
あまりにも意外過ぎるユイの才能。思いがけないユイの特技に、ユウは顔には出さずとも、心からの称賛の言葉を送った。
もし彼がこの時感動に心が震えていなかったら、ユイの満面の笑みの裏に隠れたほんのわずかな寂しさを見逃すことはなかっただろう。
「俺、歌詞聞いたの初めてだけど、メロディだけの時と結構雰囲気変わるんだな?」
「原曲、興味持った?」
「んー……どうだろ。まだ何とも言えないけど……」
「けど?」
──ユイの歌声だから、こんなに感動したんだと思う。
思わず口に出そうになった言葉を、すんでのところでユウは飲み込んだ。さすがにこんなセリフ、恥ずかしすぎて言えるわけがない。
「……妹がラジオの特番聞き逃してあんだけ悔しがってたの、ちょっとわかった気がする」
「えっ、全部聞いてたんじゃないの?」
「時間間違えて、最後のサビのフレーズだけしか聞けなかったんだよ」
「そっか、だから……」
「ガキみたいに騒ぐわ俺のせいにされるわで大変だったんだぜ」
ガキみたいに騒いでいたのは事実だし、ユウのせいにされたのも事実だが、言うほど大変だったわけではない。あえて内容を盛って話したのは、ちょっとした照れ隠しからだ。
「……私、昨日の収録の音声データ、持ってるけど。……よかったら、あげようか?」
「おっ、いいのか? というか、録音してたのか」
「ま、まぁね」
ユウを顔を合わせず、ユイは答えた。そのままくるりと踵を返し、思い出したように声をあげる。
「私、用事思い出しちゃった! 今日はこの辺で帰るね、咲島くん!」
「お? もうちょい歩いてゆっくりしてからじゃダメなのか?」
「だーめ! あ、データは明日持ってくるから、遅刻しないように!」
「おい……?」
最後ににこっと微笑んで、ユイは走り去る。ユウがちょっとだけ伸ばした腕は、虚しく空を切った。
「なんだあいつ……」
いつもとちょっと違うその様子に、ユウは首をかしげるほかない。やがて、考えても無駄だと悟ったユウは、いつも通りゲームの電源を入れ、ピコピコとゲームの世界に没頭しだす。
が、今日に限ってやたらと敵の攻撃を喰らってしまい、結局すぐに電源を切る羽目になったという。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「気付くかなぁ……気付いちゃうかなぁ……」
カタカタカタ、と自室でパソコンに向かう少女。額の汗をぬぐうこともせず、シャワーを浴びることすら忘れて、とある音声データをUSBメモリに移していた。
ちら、と彼女は机の上のスケジュール帳に目を向ける。出発まではあと四十五分、その後はずっと、夜の九時まで予定がびっしりだ。クタクタになって帰ってくることを考えると、この作業ができるのは今しかない。
「でも……ユウくん、歌ってる人には興味無さそうだったし……曲名も何も知らなかったみたいだし……たぶんテレビも何も見てないよねぇ……」
【データ移行中】の文字をもどかしく感じながら、少女はマフラーとマスク、そしてサングラスとサンバイザーを取り外す。明るいぱっちりとした目と、可愛らしいくちびるがあらわになり、まさにアイドルとして通用しそうな美少女が現れた。
「うー……妹さんは絶対に知ってるだろうからなぁ……」
知られたくないのなら、気付かれたくないのなら、そのメモリを渡さなければいい。彼女はそんなこと、言われるまでもなくわかっている。
わかっている。
わかっているのだが──
「……なんで私、自分からこんなことしてるんだろ?」
どうして自分がそんな行動をしようとしているのか、彼女は自分自身でわかっていなかった。
「……」
彼女はふと、考える。
もし気づかれてしまったら、彼はいったいどういう態度を取るのだろうか──と。
「もし、もしも気づいちゃっても」
無意識のうちに漏れた声。その声を聴く者は、ここには誰もいない。
「ずっと、変わらないで一緒にいてね……ユウくん」