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49 邂逅


「……なぁ、アイ」


「どしたの、おにーちゃん……って、なんか昨日も同じやりとりをしたような」


 休日の──日曜日の朝。やっぱり惰眠を貪ることなくいつも通り朝の時間に起きたユウは、これまたやっぱり昨日と全く同じように朝の修練を終え、そして朝餉の支度を整えている妹に向かってぽつりとつぶやいた。


「──今日、友達が(うち)に遊びに来ることになってるんだが」


 ガタン、と盛大な音。どうやらアイが、運ぼうとしていた木製のお椀を手から滑らせて落としたらしい。というか、手から滑らせてなお反応できていない──ユウの言葉が衝撃的すぎて、呆然としてしまっている。


「えっ……えっ? ウチに? 友達が? ……おにーちゃんの?」


「おう」


「な、何の目的で……? ま、まさかとは思うけど怪しい壺とか絵とかそっち系のアレじゃないよね……?」


「お前は俺のことを何だと思ってるんだよ……」


 妹からのあまりの信頼の無さに、ユウはちょっぴり泣きそうになった。友達を家に呼ぶなんてそんなの小学生ですらやってることだろ……なんて思い当たって、そして自分自身今まで一度もそういうことをしていなかったことに気付く。


 どう考えても悪いのは自分だという結論にしかならなかったので、偉大なる兄の権限を持ってスルーすることにした。


「普通にクラスメイトだよ。隣の席のやつ」


「お、おお……! ほ、ホントのホントにマジの友達じゃん……! ええと……アイドルに詳しい天野さんって人!?」


「いや、天野じゃないな」


 ──天野じゃなくて、アイドル本人。


 今の段階で言ってしまえば、きっと少しはマシな結果というか、ワンクッションがある分実際に対面した時の驚きも少なくなることだろう。だけどユウは、気まずさやら気恥ずかしさばかりが胸の中にも頭の中にもいっぱいに湧いてきて、どうしてもその事実を告げることができなかった。


「えと、えっと……!? ど、どうすればいい? あたし、おにーちゃんが友達連れてきたことないからどうすればいいかわかんないよ……!?」


「普通にしてればいいと思う、ぞ?」


「そ、そう? ……あっ、お昼ご飯は? ピザとか高校生らしいものを取って……ううん、お、お寿司とかの方がいいのかなあ……?」


「俺が言えた義理じゃないけど、お前もこういう状況に慣れてないよな」


「だって、だってぇ……!」


 それもこれも、ユウの人づきあいが悪いのがいけない。アイがここまであたふたして落ち着きが無いのは、ユウのせいで経験をまるで積めなかったからだ。


 無論、アイに友達がいないわけではない。むしろ、ユウとは違って女子高生らしく放課後や休日に友達と遊ぶことは結構多い方である。単純に、友達を家に招いた経験がゼロであるというだけだ。


「で、昼飯なんだが……簡単でいいから作ってくれないか?」


「え?」


「いやさ、実はそいつ、お前の卵焼きを食べたいって」


「え……えっ?」


「昼飯の時、卵焼き一切れやったらさ。なんかすっげー気に入ったらしいんだよ」


「お、おおう……!? なんか、変なところで飛び火してきたというか、マジで予想外の展開が来たぞ……!?」


 人付き合いがまるで皆無な兄が、友人を連れてきた。友人を連れてきたばかりか、そんな兄と付き合いがある聖人みたいなその友人は、自分の卵焼きを気に入って、また食べたいと言っているという。


 まるで漫画か小説かのような驚きの展開。だから、アイが抱いた疑問……というか希望も、ごくごく当然の物であった。


「ねね、おにーちゃん……!」


「なんだ?」


「そのお友達って、イケメンだったりする……!?」


 ああ、盛大に勘違いしてるな──と他人事のように思いながら、ユウは事実を告げた。


「間違っても、イケメンでは無いな」


 ──美少女、だったら間違いないけど。


 いろんな意味で口に出せないその言葉。幸いにして、アイはユウの言葉の裏に隠されたそれに気づくことは無かった。


「あっ、だよね。うん、さすがにそこまで都合よくはないか」


 おにーちゃんを気にかけてくれるほどの良い人なら、ワンチャン可能性あると思ったんだけどな──なんて、アイは実の兄に投げかけるにしてはあまりにもあんまりな言葉を笑いながら告げる。一方でユウは、本当のことを知っているだけに──そして、今まで隠していたことの後ろめたさがあるだけに、その言葉をなんとも言えない表情で受け流すしかない。


 いろんな意味で気まずい。この後のことを考えると、マジに胃が痛い。


 それがユウの本音ではあるが、もうすでに事態は動いている。だからユウは、覚悟を決めるほかなかった。


「……で、どうなんだ? 予定があるなら、断るけど」


「ううん、大丈夫! せっかく遊びに来てくれるんだもん、あたしの卵焼きでよければいくらでも作ってあげるよ! おにーちゃんのために、一肌脱いであげるんだから!」


 本当に、心の底からの嬉しそうな顔。兄が齢十七にしてようやく真っ当な高校生としての生活を送り始めたことに対する、心からの歓喜。アイの今の心境は、文字通り──息子が初めて友達を家に連れてくると告げるのを聞いた母のそれと同じものであった。


「……そっか、ありがとな」


 そんな顔を見てしまえば、ユウはもう、ただ感謝の言葉を告げるだけしかできなかった。


「ううう……! なんかもぉ、あたしの方が変に緊張してきたなあ……! ちょっと、心を鎮めるために修行してくるから……お友達来たら、呼んでくれる?」


「えっ」


「最初に挨拶くらいはしておいた方が良いでしょ? 安心して、その後は道場に引っ込んでるからさ。修行の途中だって言えば、向こうもあたしに変に絡んだりはしないだろうし」


 ──いや、むしろ絡んでくるぞ。

 ──というかお前の方が絡もうとするはずだぞ。

 ──それとたぶん、出来る限り余所行きの恰好した方がいいんじゃねえかなあ。


 相手が誰だかわかっているこそ浮かんだ至極真っ当なその考えを、ユウは終ぞ妹に告げることができなかった。



▲▽▲▽▲▽▲▽



「ね、ねえ……姫野さん、私、変じゃない……よね?」


「大丈夫、ちゃんとかわいいわよ……って、もう五回くらい言ってると思うんだけれど」


 バックミラー越しに映るユリは、先ほどからずっと身嗜みのチェックを行っている。ああでもない、こうでもないと前髪を直し続け、ほんのわずかでも隙などあってはならないとばかりに、あらゆるところを確認していた。


 そんなことをしなくても、すでに十分かわいいのに……と姫野は思う。トップアイドルが精いっぱいのオシャレをしているというだけで値千金というか、それ以上の物はこの世には存在しない。かなり傲慢な言い方かもしれないが、例えユリが寝ぐせを放置したままであったとしても、そこらの女の子が最高にばっちり決めてきた姿よりも可愛いという確信が姫野にはあった。


 とはいえ。


「まぁ、気になるのもわからないわけじゃないんだけどね」


 気になる男の子の家に遊びに行くのだ。例え百万回チェックしたとしても、気になるものは気になるのだろう。トップアイドルという今の日本で一番かわいい女の子であったとしても──こればっかりは、等身大の乙女としての習性なのだからしょうがない。


「あと五分くらいで着くから、いい加減覚悟を決めなさい」


「うー……!」


 もし、立場が逆だったとして。果たして十七歳の自分は、落ち着いて冷静に事に当たれるのかな……なんて思って、きっと絶対無理だろうなと姫野は心の中だけで苦笑いをした。


「でも姫野さん……本当にいいの?」


「良いのって……何が?」


「その……お休みのことと、ユウくんの家に遊びに行くこと……」


「何よ、今更」


 高校生が友達の家に遊びに行くことの何が悪いのだと、姫野は本気で思っている。アイドルだからと言ってその権利を剥奪される謂れは無いし、この事務所はそもそもとして恋愛禁止を謳っていない。無暗に吹聴する気はもちろんないが、だからと言って「当たり前」のことを殊更に疚しく思うこともないと、心の底から断言することができた。


「いいのよ。あなた最近、ろくに休んでないでしょう? ……昨日、急にあれだけ料理をしたのもその表れよ。無意識に心の休息を求めてるってこと」


「そうなの……かなあ」


「ええ。それに、友達の家に遊びに行くだけよ?」


「アイドル的に、それってちょーっと問題なんじゃないかと思わないことも無かったり……」


「その自覚があるのならばよろしい。そして、今日は仕事じゃなくてプライベート。何の問題もない……もちろん、節度は守ってよね」


「せ、節度? その、具体的には?」


「あらやだ、私の口からそんなこと言わせるの?」


「え」


「あなたの考える『節度』、ぜひとも聞いてみたいわね」


「もおっ!」


 バッグミラー越しに映るそのかわいい顔が、みるみる真っ赤に染まっていく。果たしていったいどこまで考えたのか、案外この娘って耳年増なのよね──なんて思いながら、姫野はくすりと小さく笑った。


「ユリ……すごいこと、教えてあげよっか?」


 鏡の中のユリは、頬を赤くしたままじとっとこちらを睨んでいる。その様子がなんだか堪らなく愛おしくて、姫野は返事を聞かずに言葉を紡いだ。


「大丈夫よ、自信持ちなさい。男の子はね……一切の例外なく、女の子が遊びに来てくれると嬉しいものなのよ」


「──あ!」


 まだ約束の時間の十五分前。しかしながら、その喜色に満ちた声を聞けば……姫野の視力じゃまだその顔を識別することはできないものの、その妙に落ち着かない様子で立っているその少年が、約束の相手であると確信することができた。


「さ、ユリ……存分に、羽を伸ばしてきなさいな」


「……はいっ!」


 バッグミラーに映る、その最高に素敵な笑顔を見て。


 姫野は、その鏡を永遠に自分だけのものにしてしまいたくなった。



▲▽▲▽▲▽▲▽



「それじゃ、ユウくん──よろしくね」


 窓から顔を出してにこりと笑った姫野は、それだけ言って車を走らせていく。あとに残されたのは、いつもよりほんのちょっぴり「ちゃんとした」部屋着であるユウと、誰がどう見てもしっかりばっちり……されど、主張しすぎない程度にオシャレを決め込んだ少女の二人だけ。


「じゃあ、その、なんだ……行くか?」


「う、うん……」


 もどかしいような気まずいような、だけど決して不快ではないそんな沈黙。


「あー、えーと……今日はいつもの眼鏡と違うんだな?」


「そ、そうなのっ! サングラスだと不審すぎるし、普通の眼鏡だと万が一があるかもだから……この、色付きのやつっ!」


 ユリがかけているオシャレな眼鏡。もちろん、度が入っていない伊達眼鏡だ。サングラスほどでは無いもののレンズには色が入っていて、ハリウッド女優がおしのびのプライベートで着けているそれと似たような雰囲気を放っている。


「ねえ、ユウくん」


「……なんだ?」


「……他には?」


 くるり、とわざとらしくユリはその場で回る。可愛らしいスカートがひらりと翻って、ぱしゃりとシャッターを切ればどんな素人でも雑誌の表紙に飾れるような光景がそこに生まれた。


 さすがにここまでされたのなら。いくらユウでも、言わんとしていることはわかる。


「いつもと違う服だな。初めて見るやつだ」


「むぅ……まぁ、良しとしよう」


 ──できればちゃんとかわいいって言ってほしかったんだけどなあ。


 そんな小さな小さなつぶやきを、ユウの鋭敏な耳はしっかり聞き取ってしまった。


 ──それが出来たら苦労はしねえよ。


 いくらファッションや流行に疎いユウでもわかる。今日のユリは、間違いなくかなり気合を入れてオシャレをしている。ユウのなけなしの知識が合っているなら、それはおそらくブラウスとワンピースと呼ばれるやつのはずで、ブラウスの首元にはいわゆる紐リボンがあり、ワンピースは緑色っぽい感じのタータンチェックとなっている。


 なんかこう、よくわからんけどオシャレな雰囲気。都会で見かけてもおかしくなくて、そしてシンプルかつ上品で可愛らしくありながらも、きっとお値段の方は全然可愛くないんだろうなって思えてしまうような感じ。


 つまるところ──ユウの知識じゃさっぱり太刀打ちできないほど、ユリはおめかししているということだ。


「ところで、その手提げは?」


 持ってやるよ──と言葉にはしない。口にせずともユリにはしっかり伝わって、まるで示し合わせたかのようにさりげなく、ユリはユウにそれを手渡した。


「えっとね、スーパーで食材をいくつか買ってきたの。さすがにただでご相伴にあずかるわけにはいかないし」


「……その恰好で?」


「う、うん……へ、変だったかなあ?」


 変ではない。むしろ、十分にオシャレでしっかり可愛い。


 ただ、そのいかにも都会の女の子って感じの娘がスーパーで買い物をしている姿が、ユウには想像できなかっただけだ。


 ──だってこの手提げ、否、エコバッグはすごく重い。持ち歩く意味なんてまるで見いだせない、ペットボトルの一つも入れられないような小さなオシャレバッグとは対照的な、主婦の皆様が愛用する重量に耐えられる実用的なそれだった。


「ふー……この前は降りるだけだったから気にならなかったけど、この石段、けっこー長いねえ……!」


「足、大丈夫か? その……運動靴じゃないと歩きづらいだろ?」


「ん、へーき! 今日のはぺたんこ靴だから!」


 そうか、としかユウには言えなかった。服装に合わせて靴も相応にオシャレだったから──お嬢様学校の生徒が履いているようなちゃんとしたやつだったから、さぞかし歩きにくいだろうと思ったのに、どうもそういうわけじゃないらしい。


「オシャレな靴だから、踵の所がとんがってて歩きにくいものだとばかり」


「……もしかして、ハイヒールのことを言ってる?」


「や、さすがにハイヒールはわかるさ。そうじゃなくて、ハイヒールほどじゃないけど踵がこう……ゴツくなってる奴ってあるだろ?」


「んー……ヒールローファーかなあ。確かに知らない人から見れば、こーゆー靴はどれも同じに見えちゃうかあ……ちなみに」


「うん?」


「もし、私が『踵の靴』を履いてたらどうしたの?」


 からかうように紡がれた、そんな質問。ちょっとだけ考えてから、ユウは思った通りのことを言った。


「どうって……そりゃ、手を貸すだろ」


「う、嘘……!? ほ、ホントに……!?」


「何をそんな驚いてるんだよ……ここでコケたらマジで冗談じゃ済まないだろ?」


「……ユウくん、私、なんか足が痛くなっちゃった」


「頑張れ、あと五段の辛抱だ」


「五段でもいいからっ!」


 す、と伸ばされてきた手を、ユウはがっしりと掴んだ。ここで変に身を引いたら危ない、商品(アイドル)に傷をつけるのは事務所的にNGだ、そうでなくともこいつは護衛対象なんだし──といろんな言い訳が頭に浮かぶが、そんな全ては。


「えへへー……!」


 心の底から嬉しそうに笑うユリを見て、はるか彼方へ吹っ飛んでいった。


「ご機嫌そうだな」


「そりゃあね! ついに念願のユウくんのお家だし……! エスコートしてもらって嬉しくない女の子はいないって!」


「階段、終わったけど」


「えすこーと!」


「……玄関の前までな。それ以上はマジにヤバい」


 ぎゅっとしっかり手を握って。


 出来ることなら、ずっとこの時間が続けばいいのに……と、心の中ではそう思って。


「おっ……な、なんかちょっと今日はサービス良くない……!?」


「エスコート、だからな」


 しかし悲しいかな、現実というのはあまりにも無常だ。ユウがどれだけ真剣に願ったところで、数十歩の距離を歩くのなんてあっという間に終わってしまう。


「ふー……」


 玄関の前に来てしまったのなら。


 あとはもう──覚悟を決めて、その瞬間を迎えるほかない。


「アイ! 例の客人が来たぞ!」


 右手は荷物を持っているから、戸を開けたのは──左手の方だ。名残惜しい気持ちと安心する気持ちをごまかすように、ユウは家の中にいるであろう妹に向かって声を上げた。


「なーんか言い回しが道場って感じするね!」


「そんなこと言われたのは初めてだな……いや、そもそも人を呼んだのも初めてか」


「えっ……」


 何かを察してしまったユリが言葉を紡ぐ前に。


 家の奥から──はっきりとわかるほどに賑やかで明るい気配を持ったその姿がやってきた。


「いらっしゃいま──女の子ぉ!?」


 開口一番。


 アイは、兄が連れてきたその人が──とんでもないお洒落さんであることに心の底からビビった。


「ど、ど、どーゆーことなのおにーちゃん!? お、女の子来るだなんて聞いてないよ!? 隣の席のアイドルに詳しい男子って言ってたじゃん!」


「隣の席のクラスメイトとは言ったが、男子とは言ってねえぞ」


「しかも! このパッと見ただけでわかるほどのめっちゃ可愛い、びじ、ん、さ……」


 アイは、気付いてしまった。


 否、気付かないはずがない。


「こ、こんにちはー……?」


 アイは、固まってしまった。


 この、目の前でひらひらと手を振っているオシャレで可愛い美人さん。流行に疎いどころか真っ当な学校生活を送れているかすら怪しい兄とは対極にいるような、雑誌モデルでもしていそうなこの人のことを……アイは、知っている。


「え……っ?」


 知っているというか、毎日見ている。見ているし、その声を聞いている。


 だけどそれは決して直接対面して話しているというわけじゃない。そういう意味では、アイは一度たりともこの人と会ったことは無いし、未来永劫、話す機会はないとすら思っていた。文字通り、雲の上の人で……同じ国に住んでいるだけの、夢の中の住人とさえ思っていた。


「あなたが、アイちゃんだね。……はじめまして!」


 だから。


 画面越しでしか見たことの無い、そのにこっと笑った顔が目の前にあることが。


 ”みんな”に等しく向けられていたはずの笑顔が、自分だけに向けられていることが。


 夢にまで見たその人が、笑いながら自分の手をぎゅっと握っていることが。


 本当に、本当に──信じられなかったのだ。


「自己紹介、した方が良いかな? それとも……おにーちゃんから、何か聞いている?」


「う、ううん……」


「そっかあ……やっぱり、ユウくんってば何にも言ってなかったんだね?」


 自分のゴツゴツとして節くれだった手とは全く違う、あったかくて柔らかい女の子の手。


 伊達眼鏡越しに向けられた、からかうような悪戯っぽい視線。


 情報が一つ、また一つと増えていく度に……アイの脳ミソはそれが現実であると認め始め、同時にまた、その人が兄と親し気に話しているその様子がますます信じられなくなっていく。


 だって。


 こんなの……どれだけお金があったとしても、実現できないことなのだから。


「あ……ど、どうしよおにーちゃん……」


 残酷な現実に気づいてしまって、アイは泣きそうになった。だから、ほぼ無意識に頼れる兄に縋ってしまった。


「あ、あたし……! すっごく汗臭い……! 修行して、そのまんま……!」


 目の前にいるこの人は、きっとその人なのだろう。


 なのに今の自分は──よく言えば着慣れている、悪く言えば着古した汗臭い道着姿だ。そんな人間が近くにいたら、この純粋で輝く可愛さがくすんでしまう。そんな奴、絶対に近くにいて良いはずがない。


「んー……?」


 そんな、アイの思いは。


「──えい!」


「──ッ!?」


 憧れのトップアイドルにぎゅっと抱き着かれたことで、はるか彼方に吹っ飛んでいった。


「全然そんなことないよ? レッスン後の私なんて比べ物にならないくらい酷いんだから」


「う、あ……!?」


「ふふ……それに、なんだかこうしてぎゅってしていると……落ち着くね」


「ひゃ、う……!」


「あったかいなあ、アイちゃんは。がっしりしていて、抱きしめがいがあって。なんだかすっごく、安心する感じ」


 ほら、とユリはにっこり笑って──上目遣いで、アイを促す。


 アイは促されるまま、そのたくましい腕をユリの背中に回した。


「細っ……! やわらか……! そしてあったかくていい匂いするぅ……!?」


「うふふ、ありがと」


「い、いいのかなあ? あたし、こんなに幸せでいいのかなあ……?」


「もう、大袈裟なんだから。女の子同士がふざけて抱き合うなんて、よくあることだよ?」


「いい、の……? あたし、ユーリちゃんを抱きしめて……いいの?」


「ふふっ……やっと名前を呼んでくれたね、アイちゃん?」


「──!」


 やべェな、とユウは心の底から思った。今の笑顔で妹が──咲島流の継承者の一人が完全に篭絡されたことがはっきりと分かったのはもちろん、人間一人をこうも簡単に、それもほぼ無意識でオトして見せたユーリに心の底から戦慄した。


「いいんだよ……好きなだけ、ぎゅーってしても」


「好きなだけ、はマジでやめてくれ。アイ、分かってるとは思うが壊すんじゃねーぞ」


「もうっ! ユウくんったら妹に向かってその言い方はないでしょ!」


「う、ううん……! おにーちゃんの言うことは正しい……! あ、あたし、抑えられる自信が、ない……ッ!」


「えっ」


 必死の、文字通り断腸の思いでトップアイドルとの抱擁から身を引いたアイ──ユウの妹は。


 咲島流継承者の一人であり……見た目だけならユウよりもはるかに屈強な、プロレスラーもかくやと言うほどのマッスルボディの持ち主であった。

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[一言] ユウがへt……口べたすぐる
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