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4 憩いのベンチ


「おはよう、咲島くん!」


「おーっす、おはよう。これなら三日坊主は避けられそうか?」


 ユウとユイが一緒に走るようになって三日目の朝。今日もまた、二人はいつもの運動公園の前で落ち合った。ユウはいつもどおりのラフ過ぎる格好にウェストポーチといった出で立ちで、ユイはどこの田舎娘かと言いたくなるような芋ジャージ姿だ。


「にしても、相変わらずどう見ても不審者な姿だよなぁ」


 サングラス、サンバイザー、マフラーにマスク。ユイは今日もがっつりと顔を隠してこの公園にやってきた。さすがにマフラーを着けるような寒さじゃないし、そもそもジョギングするのにマフラーをする人間なんて聞いたことも無いが、ユイは頑なにそのスタイルを崩さない。


「どうせ外すんだし、着けてこなきゃいいのに」


「いいの!」


 ただ、走るときだけ、ユイはマスクとマフラーを外すようになった。それもご丁寧に、人のいない上級者コースに入り込んでから、である。初日に倒れかけたことが心に残っているのか、はたまた少しは心を開いてくれたのか。その判断はユウにはつかない。


「んじゃ、そろそろ走るべや」


「ん、おっけー」


 軽く準備運動をしてから二人は走り出した。たったった、と小気味よいリズムが静かな林へと響いていく。ユイは自分のペースをつかむように、ユウはそんなユイのペースに合わせるように。


 もう三日目だからか、ユイのペースは初日のそれと比べて幾分か早い。息が上がってくるまでの時間もだいぶ伸びた。素質があったのか、それとも何か運動でもしていたのか。ちょっとびっくりするくらいの成長速度だな、とユウは思う。


「はっ……! ふっ……!」


「ジョギングの時は速度よりも時間を重視な。まずは一時間走りきることを目指して、そこから適宜距離を伸ばすなり負荷を増やすなりしていけばいい」


「咲島くんはっ……! 余裕そうだねっ……!」


「まぁ、実際これくらいなら余裕だし? 年季が違うぜ」


「んもぉ……っ!」


 こうして軽口を叩く余裕があることからも、ユイの成長をうかがい知ることができる。二十分、三十分と走った後でもそれは変わることなく、この日、とうとうユイはいくらかの余裕を持って上級者コースを走りきることに成功した。


「は、走れたぁ……っ!」


「おつかれさん。すぐに足は止めないで、そのままゆっくり歩いて」


 ひぃひぃ、はぁはぁとユイは肩で息をしているが、ユウはいたっていつも通り、息を乱した様子を見せない。軽く汗ばんではいるものの、結局はそれだけ。まだまだかなり余裕はあるようで、あともう一周このコースを回れと言われたとしても、楽勝で走ってしまうだろうと思わせるほどだ。


「とりあえずあのベンチのところまで歩いて、そこでちょっと休憩するか」


「……ホント、すっごく余裕そうだよね。私だって普通の人よりかは体力ある方だと思ってたのに」


「年季が違うんだ、年季が。それに、今日はけっこうきつかったぞ」


「そうなの?」


「ああ。実は腰に重りを巻いている」


「うそぉ!?」


 ほれ、と歩きながらユウは運動着をぺろりと捲った。その下から程よく汗ばんだバキバキの腹筋と、いかにもそれらしい、六つほど連なったウェイトが姿を見せる。背中にも同じだけあると考えると、都合十二個ほどのウェイトをつけてユウは走っていたことになる。


「面倒くせぇからそのまま付けてきたけど、いやはや、意外とばかになんねえな」


「……」


「……おい、ユイ?」


「わっひゃい!?」


 なぜだかユイは顔を真っ赤にしていた。視線こそわからないものの、顔の下半分だけでそうだとわかってしまうくらいに恥ずかしがっている。これで耳まで真っ赤と来れば、いくらユウでも気づかないはずがない。


「……えっ、もしかして見とれてたの?」


「ちちち、ちがうもんっ! これ、疲れて息が上がってるだけっ!」


「言い訳にしたってあからさま過ぎるだろ……というか、男の腹筋がそんなに珍しいかね?」


「バッキバキだよ!? カッチコチだよ!? 珍しくないわけないでしょ!?」


「うーん、わからん」


 そんなこんなと話しているうちには例のベンチへとたどり着く。今日も二人は仲良くそこへと腰を下ろし、各々持ってきていた水筒からごくりとお茶を飲んだ。


 涼やかな風が、端って熱くなった二人の体を冷やしていく。朝の爽やかな空気が、二人の荒い息を沈めていく。この心が現れるかのような自然の静寂がユウは好きであり、ユイもまた、好きであった。


「よっしゃ、今日も絶好のゲーム日和だな!」


 そして、ユウは隣にユイがいるのにもかかわらずポーチからゲーム機を取り出し、その電源を入れた。ピロリロリンと小気味よい電子音が響き、ユウはゲームの世界へと没頭する。


「前から思ってたんだけどさ……」


「ん、どした?」


「咲島くん、どうして走り終わった後にゲームをするの?」


「……」


 ユイは画面をのぞき込みながら、何気なく思ったことを口にする。画面の中のキャラクターの動きが一瞬止まり、敵の攻撃に被弾した。運悪くクリティカルヒットしてしまったらしく、キャラクターのHPは一瞬でゼロになり、大きくコンティニュー画面が現れる。


「……ゲーム、好きなんだよ」


「そりゃまあ、こんな古いゲームをやってるわけだし、好きなのはわかるけど……」


「走った後の清々しい気分、そしてこの朝の爽やかな空気。誰にも邪魔されない静寂の中で好きなゲームをする……最高だと思わないか?」


「お家でゴロゴロしながらやるのもよくない?」


「……よし、こう考えてみよう。ほら、秋とかになると公園で本を読む人がいるだろ?」


「うんうん、お日様もいい感じに柔らかいし、結構気持ちよさそうだよね」


「それと一緒だ。本がゲームに変わっただけ。空想の世界に飛び立つという意味ではどっちも同じ」


「うーん……言われてみるとそうなの……かも?」


 上手くごまかされてくれたユイをみて、ユウはほっと息をつく。別段話したことに嘘はないが、かといって本当のことを言ったわけでもない。


 あまりにも純真過ぎるユイに嘘をつくのはなぜだか酷く心が痛む。不思議なものだと、ユウは心の中だけで首をひねった。


「でもね……こう、せっかく隣にいるのにさ。ガン無視されてゲームをされると、それはそれで女の子としてのプライドが傷つくというか……」


「何言ってやがる。そんなセリフはすっぴん見せてから言えっての」


「それはダメ! 絶対!」


 ユウは未だにユイの完全な素顔を見たことが無い。襲われていたのを助けたときに目元を少しだけ見て、そして一緒に走るようになってから口元だけが見られるようになったが、顔についているオプションパーツがすべて除けられたところを、ユイは決して見せないのである。


「何をそんなに恥ずかしがっているのか知らねえけどさ。顔くらい見せても問題なくね? 普通に可愛い方だと思うけど」


「か、かわっ!? も、もう一回言って!」


「……その食いつき具合に若干ビビった。どんだけ顔にコンプレックスもってるんだか。……あっ、もしかしてマジもんのニートとか引きこもり系? あんま触れちゃいけない感じ?」


「ちーがーいーまーすぅー!」


「めんどくせえなオイ……」


 いつのまにやらユウの手は止まり、ゲームは再開することなくコンティニュー画面を示し続けている。今日はもうそんな気分じゃないなと悟ったユウは、そのまま電源を切ってそいつをポーチへとしまい込んだ。


「あっ、じゃあこうしよう。さっき俺の腹筋見ただろ? だからその対価として顔見せてよ」


「うぐ……っ! わ、私の顔はそんなに安くないもん!」


「……見放題にしてやるぜ? それに、ちょっとくらいなら触ってもいいんだぞ?」


 ユウは運動着の裾をつかみ、チラチラと挑発的にめくる。ユイの視線がしっかり釘付けになっているのがなんとも面白く、ついつい遊んでしまう。こいつ絶対周りからからかわれるタイプだなと、心の中でケラケラと笑っておいた。


「う……抗いがたい魅力……じゃなくて! 普通、そのセリフって女の子が言うものじゃないの?」


「なんだよ、言ってくれるのか?」


「い、言わないけど!」


「自分で言っておいてそれかよ……で、どうなんだ?」


「……私に触ってもらうって、咲島くんの方がお願いするべき案件じゃない?」


「すげえ自信だなオイ」


「……お、女の子に触ってもらえるって、それだけすごいことなの! ……って、教えてもらった」


「その人、顔を隠したまま人と話すのは失礼ってのは教えてくれなかった?」


「ふふん! 教わらなかったもーん!」


「うぉぁっ!?」


 えいや、とユイはその細く白い指をユウの腹筋につうっと沿わせた。いきなりの奇襲に思わず変な声が漏れ、ユウはちょっとだけ赤くなる。


「お? 思った以上に硬い……!」


「くっそ、マジで触りやがったよこいつ……!」


 やべえやべえ、とユウの心の中でアラートが鳴り響く。想像した以上に腹のあたりがこそばゆい。くすぐったさもあるのだが、なんというかこう、妙に恥ずかしくて照れくさい。


 かといって、払いのけるのもなんか違う。結果として、ユウはなされるがままになるほかなかった。


「おお……すっごく硬くてバッキバキ……! こんなのホントにあるんだねぇ……!」


「あの、その、なるべく手短に済ませてほしいといいますか……」


「咲島くん、パッと見はそんなでもないけど、こうして近くで見るとすごく筋肉質……! 腕もすっごくガッチガチ……! 細マッチョの究極系ってかんじ?」


「おほめにあずかりこうえいでございます。じゅうぶんたんのういただけたのなら、そろそろしゅうりょうしていただけるとさいわいです」


「あとあと、この浮き出たぷにぷにの太い血管……! なんなのこれ、こんなの見たことない……!」


 ぷにぷに、ぷにぷに。


 ユイはその太く逞しいユウの血管を思う存分にぷにぷにと突く。両手で握ってやるものだから、傍から見ればユウの手をマッサージしている様に見えなくもない。


 十分に手の甲の血管を楽しんだユイは、そのままつっとなぞるようにして手首へ、腕へと白い指を這わせていく。


「ええい、ここから先は有料だ! これ以上やったらマジでそのグラサン分捕るぞ!」


「ああっ……! そんな、あとちょっとだったのに……!」


 ユイの手をつかみ上げ、ユウはさっと拳二つ分ほど彼女と距離を取る。絶望の表情を浮かべるユイを見て心が痛まなくもないが、理性が崩壊しそうだったので仕方がない。


 彼女は全く気付いていないが、さりげなく体が密着していたせいでイロイロと危なかったのだ。あの柔らかさと温かさ、そして甘い香りは極悪兵器だと、ユウは認識を改める。


「おねがい……もうちょっとだけ……! 特に胸筋とか……!」


「ぐ……っ!」


 わざとらしい、あざといとも言える上目遣い。ご丁寧にも、ユイは胸の前で手を組んでいわゆる【お願いのポーズ】を取っている。さらにはほんの少しだけ目を潤ませており、その魅力、ひいては庇護欲を何倍にも上昇させていた。


 ──いや、グラサンをかけているから、その下の瞳が潤んでいるかどうかなんてわかるはずがない。だというのに、ユウにはそれがはっきりわかってしまった。動作の一つ、ほんのわずかな表情の違いで、ユイははっきりとそれをユウに認識させているのだ。


 こんなことをされてしまえば、ユウもたまったものではない。こいつはどんだけ演技力あるんだと頭の片隅で冷静な自分が声を上げるが、本能の自分がそれに見とれてしまっている。


「マジで声だけは良いのな……! 今、すっごくグラついたぞ……っ!」


「ひっどーい! 声だけって何さ! だいたい、そんな服着てそんな体している咲島くんがいけないでしょ!?」


「言いがかりが痴漢親父と同レベルって相当だぞ?」


「ち、痴漢親父!? よ、よりにもよってそんなこと言う!?」


「だいたい、そんなこと言ったらお前だって……」


「……えっ」


 ぎょっとした顔をして、ユイの動きがピタッと止まる。ええいままよと、ユウは覚悟を決めて言い放った。


「お前さ」


「はい」


「『あっつーい……!』って言いながら胸のところパタパタやるじゃん。それも結構がっつりファスナー下げて」


「え゛っ……」


「いや、わかるよ? 俺も似たようなことしょっちゅうやってるよ? でも、俺とお前とじゃさ……」


「も、もしかして見えてたり……」


「走り終わった直後、屈みながらやった時はけっこうヤバかった」


 あえて何がとは触れないが、ユイのそれは十段階評価で七か八くらいはある。これが三とかだったらいろんな意味で激しくアウトだが、この場合においても迫力があるというか、別の意味でものっすごくアウトだ。


「う、嘘でしょ……」


「……セクハラかもだけどさ、マジでその辺気を付けとけよ。お前、そういうの緩すぎるって言われない?」


「う……言われる……」


「……俺が紳士でよかったな」


「……やっぱり、見たの?」


「……………………」


「なんとか言ってよぉ!」


 顔を真っ赤にして詰め寄ってくるユイ。言うべきか言わざるべきか、それが問題だ。言えば変態あるいはむっつりの烙印がユウに押され、言わなければ疑惑が付き纏ったまま。ついでに言えば、はっきりしない分余計な被害妄想に発展しかねない。


 ならば、反省促すためにもはっきり言うべきだと、ユウは決断した。


「……色気のないスポブラでも、装備キャラが違うとあんなにも威力が高くなるんだな」


「──えっち!!」


「あっぶね!?」


 ビンタのフルスイングを紙一重で避け、ユウはすたこらさっさとその場から逃げ出す。先程までとは別の意味で息を荒げたユイが、ジョギングの時とは比べ物にならない速さでユウを追いかけだした。


「逃げるなぁっ!」


「体力有り余ってるじゃねーか!」


 追いかけっこはしばし続く。もちろん、ユウがユイに後れを取るはずもなく、三分もしないうちにユイは力尽き、その場でぺたりと座り込んでしまった。


「うぇぇ……キツい……」


「ほーら、言わんこっちゃない。いきなり全力で走りだすから……」


 しょうがないな、とユイに近づき手を差し伸べるユウ。


 されど、それこそユイのねらいであった。


「──隙ありっ!」


「うおぁっ!?」


 軽いビンタが一発。お腹をペロンと捲られて、腹筋をぺたぺた。そして手の甲から肩にかけての血管をひたすらにぷにぷにと。


「……」


「咲島くん、案外騙されやすいよね? まぁ、私も演技力にはちょっと自信があるんだけど」


 ──こいつ、へばったふりをしていただけだったのか。


 女の演技力ってマジ怖い。体のあちこちをまさぐられながら、ユウは改めてそう思った。

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