39 最高で最悪な一日の結末
「……ふざけんなよ」
気づけば、再び腕を掴まれていて。
「さっきからさぁ……人が下手に出てるからって調子乗りやがって」
「きゃっ!?」
ぐっと腕ごと引っ張られて。思わずよろけて縋ったその先にあった顔は……その瞳には、明らかに見て取れるほどのヤバい光が輝いている。およそ真っ当でないというか、犯罪者の目つきというか。もちろんさっきからずっとヤバい奴であることに変わりはないのだが、ある種のスイッチが入ったのは間違いない。
「おい! 上村さん放せよ!」
「場合によっちゃ、力づくでも──!」
「──やってみれば?」
ぴた、と男子たちの動きが止まった。
「先に手を上げたのはそっちのほう。俺たちはただおしゃべりしていただけ」
「そーそー。こっちはいきなり顔面殴られたのに、その上さらに暴力に訴えるの? 捕まるのはそっちだし、むしろこっちは慰謝料貰う立場なんだけど?」
ついでに、警察沙汰になったら部活も出場停止になるだろうね、高校も退学かな──だなんて、取ってつけたようにその二人は語りだす。
「何言ってんの……っ! どう考えても悪いのはそっちでしょ!? 正当防衛に決まってるじゃん!」
「……うるせえなあ」
「いっ……!?」
思わず声が漏れるほど、腕を強く握られた。
「黙って言うこと聞けやコラ。俺達はバックに篤人さん……族のヘッドがついているんだぜ? それもただの族じゃねえ、この前まで院に入っていたほどの……既に裏での地位を持ってるほどの族だ」
「大人しく言うこと聞いておいた方がよかったのにねー? 案外マジにただ遊ぶだけだったかもしれないのに……こうなったらもう、ね」
いったい何のことだか、考えたくなかった。頭の中にあるのは一刻も早くこの場から離れたいというそれだけで、上村にはもう考える余地が無かったと言っていい。
とてもじゃないけど放してもらえそうにない腕。明らかに関わりたくない顔つきとなったそいつ。悔しいことにたったそれだけで上村の心の中にはどうしようもない不安と恐怖が湧いてきて、いつもだったらいくらでもあげられる大きな声を出すことができない。
「ぞ……族なんて嘘だろ。そんな出来た話があるもんか。ま、マジで警察呼びますよ?」
「あっそ。好きにすれば?」
「こっちも篤人さん呼ぼうっと……はい、呼んじゃった」
わざとらしくスマホをタップして。チャラい男の片割れは、わざとらしくその画面を掲げて見せた。
「どーする、警察も呼ぶ? そしたらキミたち、連帯責任で退学確定だけど」
「だからそんな馬鹿な話は──!」
「──たしかに、警察は困るな」
──ぐェ、と奇妙な音。例えるなら、カエルを踏みつぶしたような。生憎上村にはカエルを踏みつぶした経験は無いし、なんなら踏みつぶされたカエルを見たことすらなかったが、思わずそれを連想してしまうほどの特徴的な音が、すぐ傍らから聞こえてきて……そして。
「あ、れ?」
いつのまにやら、腕の自由が利くようになっている。
「上村さん、ずいぶんとその……交友の幅が広いんだな」
「咲島ぁ!?」
さっきまではいなかったはずなのに。どう考えてもこの場には似つかわしくない存在なのに。
まるで当たり前、それが当然だと言わんばかりにユウがそこにいて……その傍らでは、さっきまで自分の腕を掴んでいたはずの男が、膝をついて腹を抱えている。
「い、いったいいつの間に……? ていうか、なにしたの……?」
「いや、来たのはついさっき。俺の影が薄いのは上村さんもよく知ってるだろ? それでもって……」
ちら、とユウは蹲る男を見た。
「──こっちのほうは、よくわからん。この時期エアコンが効きすぎている所もあったりするし、ぽんぽん痛めたんじゃね?」
「な、な……」
絶対嘘だ、とその場にいる全員がそう思った。腹を冷やしたくらいでこうも蹲る人間がいるはずがないし、タイミングが出来過ぎている。そもそもとして、この痛がり方はもっとこう──例えるなら、腹部に強烈な衝撃を加わったかのような、そんな痛がり方だ。
そう、ユウが何かをしたのは間違いない。間違いないのだが──。
「な……何したんだよお前っ!」
「何かしたの、見えたんですか?」
「ぐ……!」
問題なのは、誰もその瞬間をとらえられなかったというところだ。
「ぉ、げェ……! ふざ、ェやが……ッ!」
「んー? どうしましたー?」
ギリギリと──横たわりながらも射殺すかのように睨みつけてくるそいつに対して、ユウはわざとらしく耳を向けた。
「……ふむ、気分が悪いと。なに、吐きそうだって? これは困った、路地裏に行かないと」
「あ……? 上等、だコラ……! ……がっ!?」
「ささ、遠慮せずに掴まって」
「なん……っ!? こいつ、バカ力……ッ!?」
腕一本で、引きずるように。言葉の気楽さとは裏腹に、有無を言わせない圧倒的な実力を持って、ユウは軽々とそいつを路地裏に引き込んでいく。
そして、ものの十秒もしないうちにひょっこりと戻ってきた。
「うーん、困ったなあ」
「……おい!?」
──その片腕に、ぐったりとした男を抱えている。
「背中をさすって介抱したら、眠っちゃったみたいで。ちゃんと家まで帰してあげてくださいね」
ぽん、と引き渡されたそいつ。完全に意識が落ちているのだろう。ぐったりとしていてピクリとも動かない。口の端が少しばかり煌めいているのは、おねむのために垂れてしまったヨダレ……だと、言葉通りに受け取る人間はここにはいない。
「おい、恭介!? 返事しろよっ!! ……重っ!?」
「完全に脱力しているから、体重そのまま全部が負荷になってますね。……いやー、よく寝てる証拠だ」
寝ていると言っているのは。言い張っているのは、この場ではユウ一人しかいない。客観的に見れば、そいつは寝ているのではなく気絶しているというべきだ。口元に見えるのは腹を殴打されたときに吹いた泡だろうし、なによりその顔は苦痛にうめいて……いや、そんなの感じることも無く、白目をむいているのだから。
「な……なんなんだよお前っ! いったい何をしたんだよっ!?」
「何って、そりゃあ……」
ユウはちらりと、赤くなっている上村の腕を見た。
「──先にそれを使ったのはそっちだろうが。ラインを超えたんだ、覚悟してないとは言わせない」
普通の高校生なら、暴力沙汰は起こさない。起こせないというのもそうだが、そもそもとして人に暴力を振るうことに本能的な、あるいは理性的なブレーキがかかる。もし好きに誰かを殴る権利を貰えたとしても、そうしたとしても誰にも咎められないとしても、どうしたってその直前で思いとどまってしまう。
だけど、ユウは違う。
必要であれば、一切の遠慮も無く見ず知らずの人間の腹を強打することができる。理由があれば、見ず知らずの人間を路地裏に連れ込んで意識を刈り取ることができる。悲鳴を上げさせる間もなく、誰にもバレることなく……絶妙な力加減で顎を打ち抜いて、そして何食わぬ顔でしれっとクラスメイト達の元へ戻ることができる。
そう、別にユウは暴力を忌避する人間じゃない。むしろ、常に身の回りに何らかの形で暴力は存在していた。
ただ、警察を呼ばれるのは困る。意見が合致しているのは、その一点のみだ。
「なんなんだよ……! なんなんだよお前……ッ!!」
彼らは単純に、読み違えていた。高校生なんてちょっと脅せばいくらでも言うことを聞く存在だと──ビビッて何もできなくなる存在だと思い込んでしまっていた。ごく普通の高校生の中に、同じ穴の狢……いや、もっとヤバいやつなんているはずがないと、決めつけてしまっていたのだ。
「いいのか……!? お前、部活はクビだぞ! 学校だってクビになるんだ!」
「この手の不良って、どうして退学のことをクビって表現するんだろうな……どうも、学生の本分である学業に対する捉え方が根本的に違うというか、クビって表現することに妙な誇らしさすら覚えている節があるというか……なんかこう、よくわからんけどムカつくんだよなあ……」
「な、な……!?」
「おっと。ええと……生憎、帰宅部なので部活については問題ないっすよ。でも、学校は困るなあ。最終学歴が中卒なのはちょっと避けたい。……ここは一つ穏便に、お互いじっくりコミュニケーション取りませんか?」
「え……」
「そんなわけだから、関係のないみんなは先に帰っててくれ。説得に時間がかかるかもしれないし」
話し合いではない。ユウは、コミュニケーションと言ったのだ。それすなわち、言語以外の何かを使って気持ちを伝えあう……否、わからせるということを指している。先に帰っててくれという言葉の裏に隠された意味を、その場の誰もが理解してしまった。
「咲島……ホントに、咲島なの……?」
「い、いや! ていうかお前、何バカなこと言ってんだよ! そんなことできるわけ……! いいからとっととみんなで帰るぞ!」
「──ずいぶんと騒がしいじゃねえか」
聞いたことの無い、低くおどろおどろしい声。はっきりとわかるほどに空間に満ちる、緊張感。
「……あ、篤人さん!」
いったい何なんだ、頼むからこれ以上情報量を増やさないでくれ──なんて、半ばパニックになりながら上村が声の方向に顔を向けてみれば。
「ちっ……クソくだらねえことで呼んだんじゃねえだろうな」
「ひっ……」
一言で言えば、ピアスのヤバい奴。耳たぶが引きちぎれそうなほどにジャラジャラとたくさんのごついピアスを付けているヤクザ。不良とかチンピラじゃなくて、本当にそのスジで警察のお世話になっているような、ガチの反社会勢力の人。
まず、眼力が違う。普通に犯罪者の目だ。顔には明らかにそれとわかる生傷がたくさんあるし、きっとその服の下には刺青だってたくさんあるのだろう。もしかしたら、ナイフか銃か、とにかくそんなヤバいものを懐には隠し持っているかもしれない。
その証拠に──さっきまではこの騒ぎを遠巻きながらも見ていた通行人が、文字通り蜘蛛の子を散らしたかのようにさっと距離を取りだしている。
「修司ィ……てめェ、まさかこんなガキどもに舐められたから呼んだってわけじゃねえよな……?」
「ち、違います! そうじゃなくて──!」
「じゃあ、なんで恭介が倒れてる? おお? お前が抱えているそいつはどうした?」
「う……」
「──情けねェ醜態晒してんじゃねえよ。お前ら二人とも、このあと『根性教育』だ」
「そんな……ッ!?」
気絶したそいつを抱えたまま、修司とよばれたチンピラはがくがくと震えている。この篤人さんのことをよほど恐れているのか、それとも『根性教育』のことがよほど恐ろしいのか。おそらくはその両方だろう。
ただ、ヤバい人だけどボスは案外まともなのかも──という上村の淡い期待は、やっぱり淡い期待のまま終わってしまった。
「──だが、それはそれとして舐められたのは気にくわねェ」
震えるそいつのことなんて見向きもしないで。
「この業界、舐められたらやっていけねえんだよ。末端のカスとはいえ、曲がりなりにもウチの人員の一人だ。……それ相応の覚悟はしてもらおうか」
絵にかいたようなヤクザみたいなそいつは、ユウの肩をぐいっとひっぱった。
「──あれ、あっくん? なんだよオイ、久しぶりじゃんか」
その場の空気が、確かに凍った。
「なんだよあっくん、この時間に遊びに出歩いてることあったんだな……というか、もう遊びに歩けるんだな? なんだっけあいつら……腹筋のあいつとオシャレなあいつは元気?」
まるでクラスメイトと会話するかのような気軽さで、ユウはその明らかにヤバいヤクザの背中をパンパンと叩いていた。
一方で、叩かれている方はと言えば。
「ひ……ッ!?」
見ていて気の毒になるほどに、怯えている。たかだか高校生でしかないはずのユウを見て、がくがくと膝を笑わせている。
「え……篤人さん、そいつ知ってるんですか……? いったいどういう関係なんです……?」
誰もが思った、その疑問。その姿があまりに衝撃的だったからだろうか、状況のことなんて忘れたかのようにそいつが口に出した言葉。
「んー? どういう関係ってそりゃあ……」
わざとらしく、無理矢理に肩を組んで。尋常ならざる体の震え──もちろんユウのではない──を腕力をもって抑え込んだユウは、真顔のままその耳元で呟いた。
「俺達……どういう関係なんだろうな? 言ってみろよ、あっくん」
「う……」
「──余計な手間暇かけさせんじゃねえよ。境界は守れって教わらなかったのか?」
「い、え……」
「だよな? 古くからこのあたりのシマにいるやつはみんな知ってるはずだ。……どうするべきかも、わかってるよな?」
「……ぁ、い。います、ぐ、あいつにけじめを……」
「人目を考えろ、バカ。……そういうのは帰ってからにしろ」
──体力測定での謎の決闘に、アイドルとのカラオケ。いろんなことがあり過ぎた上村の最悪で最高なその一日は。
「……こいつには、よく言っておきます。本当にすみませんでした」
「あ、篤人さん!? いったいどうして謝って……ぎゃっ!?」
「バカ野郎ォ! 詫びの一つも入れられねえのかてめえはよォ! そのアホの分まで頭下げるのがスジだろうが!」
「な、なんなのこれ……」
「さ、さぁ……」
音痴で運痴(?)なクラスのぼっち気質の冴えない男子に深々と頭を下げるヤクザと、そんなヤクザに頭を無理やりに押さえつけられるチンピラという──想像すらしなかった光景で、終わろうとしていた。




