36 打ち上げ!
「え……いま、何て言った?」
葛西連合軍との決闘──体力測定後の謎のイベント(?)も無事に終了し、なんだかんだでピンチを乗り切ったユウたち。午後のホームルームも恙なく終わり、後はもう帰るだけとなったところで、ユウは天野たちに声を掛けられた。
「そうか……お前にはあまりにも縁が無さ過ぎる言葉だったか……」
にんまりと笑った天野は、ポンとユウの左肩を叩いた。
「まぁ、今日のMVPは間違いなく咲島だから……ねえ?」
すっかり泣き顔も元に戻った上村が、ポンとユウの右肩を叩いた。
放課後。あとはもう、いつも通りにユリを姫野に届けて思う存分にゲームを楽しんでやろう……そんなユウの目論見は、この二人──より正確に言えば、クラス全体の意志によって打ち砕かれようとしていた。
「だぁから、打ち上げやろうって言ってるんだよ。あれだけ盛り上がったってのに、むしろやらないなんて選択肢があるわけないだろ?」
「今日一番活躍したのは咲島じゃん。その本人が参加しないなんてありえないでしょ?」
「えええ……」
打ち上げ。青春まっさりの高校生ならば経験して当然のイベント。例えばどこかのレストラン、例えばどこかのアミューズメントパーク、あるいはあえての教室などに激闘を共にしたみんなで集い、その衰えない熱い気持ちを開放して語り合う……という、そんなイベントだ。
当然、ユウは一度たりともそんなイベントに参加したことはない。体育祭の時も文化祭の時も、ほどほどに喋った後はタイミングを見計らってさっさと家に帰っている。だから、社交儀礼的に誘われたことはあっても、こうして本当の意味で打ち上げに誘われたのは初めての経験であった。
「俺、さっさと家に帰りたいんだけど……」
「やることなくてゲームしてばかりだろうよ、お前。今日という一日くらいは付き合ってくれてもいいんじゃないか? こういう経験は結構大事だぞ」
「そーそー。別に、嫌いな人がいるとかどうしても行きたくない理由があるってわけじゃない……よね? できれば、私達みんな咲島には来てもらいたいって思ってるんだけど……」
「うーん……」
天野と上村の、純然たる善意。普段ぼっち気質なユウのことを気遣ってくれた、これ以上に無いくらいに優しさで溢れたお誘い。実際、いくら誘っても暖簾に腕押しな奴にあえてわざわざこうもしっかり誘いをかけてくれることなんて、普通はあり得ないだろう。
「あ……もしかしてお小遣いとか心配してる? MVPだし、咲島の分はうちらで割り勘するつもりだけど」
「それともあれか、門限とかか?」
「いや……金は普通にある。門限もまぁ……連絡すれば済む話だ」
ろくに使わないから、たまに行う臨時バイトで稼いだ金は十分にある。そして高校生男子であるユウは、女子と違って門限を決められているわけではない。そもそも、とある理由から門限という概念自体がユウにはないのだが、今ここではどちらにしろ同じことだ。
問題があるとすれば。
「へぇ……! 打ち上げかぁ……! ねえねえ、それってどこに行くの!?」
「駅前からちょっと離れたところにあるカラオケ! 広くて安いのに人が少ない穴場をこの前見つけたんだ!」
目をキラキラと輝かせたユリが、さも当然のように上村に問いかける。不自然なほどに自然に会話に紛れ込み、ユウ本人をそっちのけでワクワクした表情をしていた。
「もちろん、ユーリちゃんにも来てほしいんだけど……その、大丈夫?」
「行きたい……! 私も、すっごく行きたい……!」
最近ようやく少しずつ慣れては来ているが、ユリは超大物のアイドルだ。こんなごく普通の高校でクラスメイトとして喋れるような相手ではない。しかも今は、諸々の事情により活動を一時的に休止し、一切の行方をくらませている最中である。
上村の不安そうな言葉や祈り縋るような天野の表情は、そんな渦中のアイドルが普通に打ち上げのカラオケに参加できるのか……という、そこに対するものである。
「すっごく、すっごく行きたいんだけど……! でも、お家の人に聞かなきゃダメかも……! うん、すっごく行きたいんだけどね……!」
わかってるよね──と言わんばかりに、ユリはユウにアイコンタクトを送る。アイドルとしてのユーリしか知らない人から見れば、「私も行くから、あなたも来てね!」というサインに見えたことだろう。実際、そう勘違いした天野は本人の目の前にもかかわらず、ユウを嫉妬に狂った表情でにらみつけていた。
しかし、その本当の意味は。
「……ちょっと、家に電話かけてみる」
「あっ、私も電話!」
めったに使わない携帯を取り出し、ユウは人気のない教室の片隅に行く。そして、最近になって追加された……ユウの電話帳にたった三人しかいない異性の一人に電話を掛けた。
──ちらりと気配を探ってみれば、同じように反対側の教室の片隅で電話をかけるユリのことが確認できた。
「もしもし、姫野さん?」
『はい、ユウくん。あなたからかけてくるなんてずいぶん珍しい……まって、大体察したわ』
ゴソゴソと物音が聞こえ、そしてぴっと電子音が携帯の向こうより聞こえた。
『姫野さぁん! 今ね、打ち上げでカラオケに行こうって誘われてるの!』
電話の向こうから聞こえてくる、やや電子的になったユリの声。どうやら姫野は複数の携帯を持っているらしい。おそらくはユリとのプライベートに使っているのであろうそれをハンズフリーとし、疑似的に三人での会話を可能なようにしているらしかった。
『打ち上げ? あなたたち、今日は身体測定じゃなかった? 体育祭だったの?』
「いえ、身体測定だったんですけど……なんか変なのに絡まれて変な決闘することになっちゃって。で、その流れで打ち上げしようぜって話になりました」
『聞いて聞いて! ユウくんがね、本気で走ってくれたの! 本当にもう、すごかったんだから!』
『ああ、だからあなたそんなにご機嫌なのね……ふぅん、ユウくんもやるじゃない』
「成り行き上、仕方なかったってだけです。それが一番仕事を果たすうえで最善だと判断したってだけなので……まぁ、これは別途報告するつもりですが」
ごほん、とユウはわざとらしく咳払いをした。
「打ち上げの参加、どうします?」
『そうねえ……』
正味な話、ユウとしては消極的なノーといったところである。どちらかと言えば行きたくないが、あんなにも熱心に誘われているのだから、礼儀的にも一回くらいは顔を出しておくべきだろうという程度の考えだ。
無論、これはあくまでユウ個人においての話である。ユウがわざわざ姫野に電話をかけたのはもちろん、仕事としてどうなのかという判断を仰ぐためだ。
『確認だけど。ユーリ、あなたはどうしたいの?』
『行きたいっ!』
即答。何のためらいもなくユリは答えた。
『そう。……ユウくん、あなたは?』
「俺は……」
『言い繕う必要はないわよ。あなたとの約束は、あくまで登校から下校までの間でこの子を守ってほしいってものだもの。この件については仕事とは何にも関係ないから、あなたがわざわざこの子に付き合う義務はない』
だから、断ろうと思えば断れる。ユリの意志に関わらず、そこはユウの好きにしても問題ない。
ただし、普通に考えれば。
「俺が行かないって言った場合は、どうなるんです?」
『そりゃあ……そこから先は、ユウくんには関係ないことになるわね。マネージャーとして、私がこの子に判断を下すわ』
姫野は明言しなかった。が、それはもう答えを言っているようなものだった。
「──行きますよ、俺は。せっかく誘われたんだし、高校生なんだから一回くらいはこういう場に出ておくべきだって思いました」
『あなた、今まで一回もこういうイベントに出ていなかったのね……』
電話越しに姫野の呆れたような声が聞こえて、そして。
返ってきたのは、事務的とすら思えるほどに流麗な言葉だった。
『必ずユウくんの傍にいること。どんなに遅くとも19時までにいつもの場所に戻ってくること。ユウくんの指示には絶対に従うこと。この三つを守れるなら、打ち上げに行ってもいいわよ』
『やったぁ!』
『ユウくん。依頼主として、ユウくんの判断を信じ、任せます。あなたがこの子を守るために必要だと判断したなら、何をしてもいいしどんな後始末もして見せます』
「りょーかいっす。……姫野さんがどう考えてるかは知りませんが、俺としてはいつもと同じように役目を果たすだけですよ」
『ホント、助かるわ……あまり良くないけれど、こういう息抜きも大事だから。ありがとうって何度言っても足りないし、私から言うのもおかしいけれど……ユウくんも、楽しんできなさいな』
「うぃっす」
それだけ聞いて、ユウは電話を切った。ちらりと反対側を見れば、ユリもまた携帯をポケットにしまってにこにことほほ笑んでいる。だいたいいつも笑顔なユリだが、今のそれはユウもあまり見たことが無い類のそれであった。
「19時までには上がらせてもらうが、行けるぜ」
「私も19時までだけど、それまでならOKでた!」
「そうこなくっちゃ!」
「誘っておいてなんだけど、明日は雨が降るかもな!」
ユリと上村がハイタッチし、なんとなくノリに合わせてユウは天野と拳を突き合わせる。思えば二人そろって19時上がりというのは少々不自然か──とユウは一瞬訝しむものの、どうやら幸いなことにそこに疑問を抱く人間はいなかったらしい。
「やべぇよ……! あのユーリちゃんとカラオケだよ……!」
「うわぁ……! 夢でさえも見られなかった光景が、あと数時間で……!」
「……だよな」
ユウが打ち上げに参加するサプライズよりも、大物アイドルが打ち上げに参加するインパクトの方がよほど大きいらしい。ユウ自身、そっちの方がはるかに大ごとだということが理解できるだけに、苦笑を隠すことが出来なかった。
「ま、誘ってもらえるだけありがたいんだろうな」
「そうそう! それに……私は本当に楽しみだよ? ユウくんとカラオケに行けるだなんて、この先何度チャンスがあることやら……!」
「おいおい、いくらなんでもさすがに……」
「……誘ったら、来てくれるの?」
軽い上目遣いで問い質してきたユリ。さすがにアイドルは仕草があざといなと思いながら、ユウははっきり言った。
「いや。こんな機会でもなければ行かねえな」
「だよね!」
▲▽▲▽▲▽▲▽
そのカラオケは、駅から十分程度歩いたところにあるお店だった。
若干駅から離れているからか、やはりそこまで人気ではないらしい。高校生しか利用者がいない放課後の時間だということを差し引いても、実は明かりが点いているだけで開いてはいないんじゃないか──と思えてしまうほどに閑散としている。
が、立地が悪い代わりに値段は安い。そして、室内もユウたちクラスメイト──部活の都合を死ぬ気で付けることのできた十五名ほど──が全員ゆったり座れるほどに広かった。
「お、おお……?」
「ほら! 咲島はMVPなんだから真ん中で! あと、ここは部屋の時間貸しだけど必ず全員ドリンク頼むのと、サイドメニューを一つは取らなきゃダメだから!」
「とりあえずポテト二皿取っとこう。あとは様子見で」
「みんな飲み物何が良い? あたしらまとめて取ってくるから!」
何が何やらわからぬまま、ユウはその大部屋の真ん中へと押し込まれた。いつのまにやら数人がコップを持って外に出ていき、上村は備え付けの電話で何やらフロントと話をしている。カラオケ初心者であるユウは何をしていいのかさっぱりわからず、置いてけぼりを食らっている気分だ……というか、まさに置いてけぼりの状態であった。
「なんか……なんだ、声が変に響くな」
「……? そりゃ、カラオケルームだし当然でしょ」
いかにも雰囲気のあるライトに、外や教室とは全く異なる感じで響く声。遠くか近くかどこかわからないところで漏れている大きな音に、古い油と煙草、そして人の汗が混じったような特徴的な匂い。今まで感じたことのない刺激のオンパレードに、ユウは少しばかり面食らう。
そして、そんなカラオケに面食らう……否、はしゃいで興奮しているのはユウだけじゃない。
「へええ……! すごいなあ、こんなふうになっているんだ……!」
「……」
当たり前のようにユウの隣にいるユリ。言わずもがな、本来ならこんなところにいるはずのない超大物アイドル。少し通りを歩けばあっという間に人だかりができてしまうほどの人気を持つユリだが、今この場に限って言えば放課後に友達と一緒に遊びに来た女子高生でしかない。
実際、だからこそ──眼鏡で印象を変え、制服を着ていたとしても隠し切れないアイドルオーラに店の人間も気づかなかったのだろう。カラオケに遊びに来た高校生の集団にアイドルが混じっているだなんて、普通は誰も思わない。
そんなユリは、物珍しそうにあたりを見渡しては目をキラキラと輝かせていた。
「お前、なんでそんな物珍しそうにしてるんだ? こういうの、むしろ常連っぽいイメージがあったんだが」
ユウの中の漠然としたイメージ。アイドルはこういう設備のしっかり整ったところで、マイクを片手に曲の収録をしている……という、あまりにもざっくりすぎるそれ。カラオケだろうと曲の収録だろうと機材にそう大した違いは無かろう、だとすればどうして慣れているはずのユリがこうもお上りさんみたいになっているのかという、そんなユウの純粋な疑問。
答えは、実に意外なものだった。
「えっ……だって、私もカラオケ初めてだもん」
「「えっ……」」
ユウだけでなく、その場の全員が固まった。
まさか、今を時めくアイドルがカラオケに行ったことが無いだなんて、いったい誰が信じるというのか。
「言わなかったっけ? 私、けっこーな田舎の出身だから身近にカラオケなかったんだよね。こっちに来てから一度は来てみたいと思ったんだけど、その……ねえ?」
一人でフラフラ出歩くことはできない。というかそもそも、仕事が忙しくてカラオケなんて行っている暇がない。だいたい、その仕事というのがここ数か月で一気にカラオケのランキングトップに躍り出た歌を歌うことである。
「な、なんか意外……ユーリちゃん、こういうの慣れてると思ってた……」
「というか、むしろ自主練とかでよく使うものだと……」
「あはは! 歌うだけなら、もっと広くて設備が整ったところでいつもやってるから……あっ、ナイショだよ?」
ぱちん、とウィンク。それだけでこの場にいる人間全員を黙らせられるというからすごい──と、ユウは改めて思った。
「じゃ、じゃあ……さっそくだけど、誰から曲入れる?」
ドリンクもそろって、全員が一息つき。ここまでくればあとはもう歌い出すだけとなれば、問題になってくるのは最初のトップバッターとその選曲である。
存外、最初の一人の選択というのは大事だ。まさかいきなりしんみりした曲を入れては気分も下がるし、ディープでマニアックな曲を入れるのも当然ダメだ。ネタ曲はそれはそれで盛り上がるかもしれないが、しかし一番初めに入れるのはなんか違う……ありていに言って悪手である。
誰もが知っている曲。そのうえで、テンポが良くてノリノリになれる曲。その後の選曲の傾向を定めてしまうというリスクもあるが、下手に外すよりかは定番のアニソンなんかのほうが意外と良い……そんな深い考察すらできてしまうほどに重要な、最初の一曲目。
「えっと……いつものノリなら、MVPに一発決めてもらう所なんだけど」
じ、っとその場にいる全員の視線がユウに集う。
もちろん、ユウの答えは。
「カラオケデビューの俺には、荷が重すぎるな」
「だよね……」
さすがに、この空気のまま初心者に歌わせるのはあまりにもよろしくない。万が一が合ったら楽しいはずの打ち上げが大惨事になってしまう。それだけは避けなくてはならないところだ。
普通、こういう場合はリーダーシップのある人間か、ムードメーカーやお調子者が先陣を切る場合が多い。歌が上手でないものは場の盛り上がったころに歌ったほうがお互いにとって幸せで、そして歌がうますぎる人が最初に歌うと二番手が辛くなる。
そうなると、条件的にはリーダシップの上村か、お調子者の天野のどちらか。今この場にいるユウ以外の人間たちの中では、瞬時にその回答が弾き出されている。
ただし、この場にはもう一人。
そんな定石を覆す……いいや、そんな理屈や理論を抜きにして、彼らの求めているものがあった。
「あっ! じゃあ私歌いたい! いいよね、ユウくん!」
「おう、プロの実力見せてくれよ」
「「……っしゃあ!」」
ユウとユリを除く全員が、こっそりとガッツポーズをとった。
「えっと……この小さなタブレットで選ぶのか」
「ほああ……! すごいねえ、ハイテクだねえ……!」
「選ぶ曲は……」
「もちろん、【O'ast Kitten!】で! 持ち歌だからね!」
天野も上村も。クラスメイト達全員のテンションは最高潮に達しつつあった。
あの超大物アイドルが今目の前にいる。あの憧れのアイドルが、自分たちと同じカラオケボックスにいる。その上さらに、あの日本中を魅了した歌をこれから生でお披露目してくれるという。通常のチケットですら入手は困難を極め、特別なS席は予約フォームに辿り着くことでさえ奇跡と呼ばれるライブなんて目じゃない、超至近距離でその歌を聴くことが出来る。
わが人生最高の日だ、と天野は心の底から思った。
あした死んでも悔いはない、と上村は心の底から思った。
ほかの人間も、概ね同じようなことを思っている。というか、興奮と緊張のあまり何も考えることが出来なくなって、何とか見せかけの平静を保って口を閉ざすのが精いっぱいの状態であった。
「なあ、あの曲なんて調べれば出てくるんだ? アルファベットのOか? ひらがなでの”お”か?」
「どっちでもいいと思うよ! あ、でもそっちよりも歌手名で調べたほうが早いかも!」
「おー。い、し、き……出てこないぞ?」
「あう……ユウくん、それ、本名だから……ユーリ、で調べて」
「ゆ、ー、り……おっ、出てきた」
「……なんか、恥ずかしいっ!」
あの現役アイドルが、自分の歌を歌おうとデンモクを覗き込んでいる。それだけでもう信じがたい値千金の光景だというのに、その隣にいるのがアイドルに欠片も興味なんてないそこらの男子高校生だというのが、驚きを通り越して皮肉ですらあった。
「すごいね……まさか、アイドル本人が自分の歌を選ぶ光景が見られるなんて」
「しかも、本名じゃなくて芸名で調べ直して……って、そんなセリフ聞けるなんて思わなかったよ」
「なんだろ……やべえ、なんかすげえ生々しいというか、マジで目の前にユーリちゃんがいるんだなって……」
「つくづく、咲島ってやべえな……いや、ある意味じゃ咲島でよかったんだろうけど……」
そうこうしている間に、曲の設定は終わる。今回はオプション(?)として採点機能もついたやつだ。モニターにその旨を告げる通知がパッと現れた後、聞き覚えのあるイントロが流れ出し、部屋の中が薄暗く──そして、イルミネーションによって彩られた。
『えー、それでは一番手として、ユーリが歌わせていただきまーす♪』
カラオケ特有の、大きな響く声。ある意味では非常に馴染み深い、マイク越しの声。モニターに海岸と意味ありげにそこを走る女性の映像が映り、そしてそれは始まった。
▲▽▲▽▲▽▲▽
遅刻しそうな霧の朝
イケナイ道のT字路
飛び出した猫に驚いて
トースト ぽとりと落ちた
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すげえな、とユウは思った。
あの時、遠目で見た時と全く変わらない姿でユリは歌っている。よく通る甘い声はマイクを通じで部屋全体に響き、一種独特の雰囲気を形作っている。聞いているだけで耳から元気になってくるような、そんな優しく明るいムード。
▲▽▲▽▲▽▲▽
マーマレードのその向こう
黒猫を抱きしめて
優しげに笑うキミを見て
心臓 ドキリと跳ねた
▲▽▲▽▲▽▲▽
聞き惚れる、というのはこういうことを言うのだろうか。気づけばユウは、すっかりそれに聞き入ってしまっていた。自然と他のことが頭から抜けて、もうその歌のことしか感じ取ることが出来ない。
「──!」
Aメロが終わる、Bメロ直前。
ユウは、ユリと目が合った気がした。
▲▽▲▽▲▽▲▽
かわいいエプロン ぐつぐつお鍋
甘く熱い炎をくべて
私の心 溶かして固め──
▲▽▲▽▲▽▲▽
気づけば、ユウはユリを目で追っていた。さすがにここはステージほどの広さはないから、ユリの振り付けもごくごく簡単なちょっとしたアレンジ程度のものだ。だけれども、ユウはそれから目が離せなくなって、すっかりそれに見入ってしまっていた。
『──チェックのリボンを巻いて 渡したいな♪』
「……っ!?」
ユウに差し出された手。ばっちりとあった目。
一点の疑いようもなく、ユリはユウだけにその視線を向けて、ぱっちりとウィンクした。
──モニターでは、海岸で男と女が抱きしめあっていた。
▲▽▲▽▲▽▲▽
うわのそら O'ast Kitten!
キミだけを みつめてる
指鉄砲に ときめきこめて
キミに届け この気持ち
▲▽▲▽▲▽▲▽
差し出された手は、すぐに──名残惜しそうに、悪戯っぽく見えるように引っ込んでしまった。甘い歌声は滔々と紡がれていき、サビの盛り上がりはこれでもかとこの場の空気を温めていく。
ふと、ユウはユリが持っているマイクを壊したくなる衝動にかられた。マイクを通して劣化した音なんかよりもよっぽど素晴らしい歌声を、ユウはしっている。ほんの一瞬とはいえ、自分だけのために歌ってくれたあの歌声を、ユウはしっている。だから、どうしても今ここで、あの時と同じ歌声を聞きたくて堪らなくなってしまったのだ。
▲▽▲▽▲▽▲▽
勇気を出して O'ast Kitten!
ウィンク飛ばし 投げキッス
鏡の前で はなまるつけて──
▲▽▲▽▲▽▲▽
『──私だけ見て O'ast Kitten!』
「──ッ!?」
ユウの瞳の中に、ユイのまっすぐな笑顔が飛び込んできた。ぴしっと伸ばされた人指し指に撃ち抜かれて、ユウは言葉を失う。
自分の知らないユイが、自分の知っている顔で、自分だけにそれを向けている。今度は本当に、気のせいなんかじゃない。
「……私だけ、見て」
この狭い部屋の中で、この十数人の中で。ユリはたしかに、ユウだけを見ていた。




