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32 波乱の体力テスト


 そして、体力テスト当日。


 その日は朝のHRの時点で、すでにみんなが体操着姿に着替えていた。今日はお日様もしっかり出ているからか、気温も高めである。真夏のような灼熱の暑さではないが、しかし運動したら確実に汗をかくくらいの陽気であるため、ジャージ姿の人間はほとんどいない。


「それじゃ、例年通り──二年生はグラウンドでの測定からだ。50m走やハンドボール投げなんかだったかな? あと……測定の順番は完全に自由だし、一応はこっちも黙認しているが、高校生らしい模範的な行動をするように」


 担任の先生は、きっちりと釘を刺していく。本来ならば余計なことをせずに速やかに測定を済ませ、終わった後は各自教室で自習をするということになっているが、そんなのを守っている人間なんて一人もいないことを、学校側もよくわかっているのだ。


 担任からのこの言葉は、【遊ぶのは構わないが、羽目を外しすぎないように】というのをスタンスを崩さないように伝えているだけに過ぎない。だからこそみんな、それに明るく返事をしていた。


「それじゃあユーリちゃん、行こうか!」


「あ……」


 上村ほか、数人の女子がユーリの元へ集う。ユーリがアイドルだからと言うのはもちろん、上村は姉御肌(?)な気質があり、アレで意外と面倒見が良い。純粋に、初めて体験するイベントに戸惑う転校生を助けてやろうという気持ちもあったのだろう。


 そんな上村の提案に、ユリは軽く首を横に振った。


「あの……その、ちょっと条件が合って……」


「え……あ、まさか顔出しNGとかそういう……?」


 男子も女子も、必死に聞き耳を立てている。それもそのはず、ユーリの返答次第では、彼らの今日のスケジュールと言うものも大幅に変わってしまうのだから。


「目立たないように、なるべく少人数がいいなーって……」


「あ……」


「い、一応眼鏡かけてるけどね? それでも、あんまりに人が多いとどうしても……」


「そっか……そうだよね」


 この段階で、上村は覚悟を決めたらしい。自分がどうにかする覚悟ではなく、男子に一切の慈悲を見せないという修羅の覚悟だ。


「そんなわけだから、男子はついてこないでね。ストーカー禁止。わかった?」


 横暴だ、理不尽だ、独占法違反だ──などと、男子から口々に批判の声が上がる。そのすべてを、上村は聞こえなかったことにしていた。


「うーん、女子はどうしよう? 少人数って言っても……」


「あ、あの……」


「どしたの、ユーリちゃん?」


 ふう、とユウはため息をついた。あらかじめ決めてあったこととはいえ、やはりなかなか覚悟がいるというか、気まずいというか。生まれてこの方一度も体験したことのない経験を、どう処理すればいいのか……と、ある種の戸惑いのようなものがあったのかもしれない。


「その、咲島くんと一緒が良いなって」


「……え゛」


「あ、別に二人っきりってわけじゃなくてね!? 女子だけって言うのも不安と言うか……男子も一緒にいれば避けられるトラブルだってあるでしょ?」


「あ、う、うん……」


「男子の中で一番喋ったことがあるのは咲島くんだし……それに、咲島くんってこういうの、大体一人で回っているんでしょう? そんな咲島くんが女子と一緒だったら、そっちの方が目立って私は目立たなくなるから……!」


 この前、事務所内にて決められた折衷案。ユウがユリのことを陰ながら見守ることもダメで、ユリがユウの傍から離れないのもダメならば、ユウを女子グループに入れてしまえと言う画期的なアイディア。これならばユウがユリに付きっきりになるという問題を解決しつつ、そしてユウの方が目立つから相対的にユリが目立たないというメリットもある。


 女子の中に一人だけぽつねんと佇むユウの尊厳については、一切考えられていない。それはもう、ユウとしては仕事として割り切るほかなかった。


「そんなわけなんだけど……お願いできるかな、咲島くん(・・・・)


 わかりきっているのに、ユリは誰もが見とれる笑顔をユウに向けてきた。


「ご指名頂き光栄です、一色さん(・・・・)


 ──この野郎、役者だな。


 そんなことを思いながら、薄っぺらい笑みを張り付けてユウはそれを了承する。周りの男子の凄まじい怨嗟の視線については完全に無視。自分から立候補したのではなく、こうして向こうから指名してきたというその事実こそが、ユウの無罪(?)の証明に他ならない。


「さっ咲島……! お前、いつの間にユーリちゃんと……! ずるい、ずるいぞ……!」


「お前、アイドルなんて興味ないって顔しておきながら……!」


「マジにアイドルとかに興味ないって、お前ら知ってんだろうが。悔しかったらアイドルへの煩悩を捨ててから出直して来いっての」


「くそがァ……! そんなの無理に決まってんだろう……!」


「ユーリちゃんを前にして何も感じないだなんて、そんなの人間じゃねえぞ……!」


 ともあれ、これでユウとユーリが一緒に行動することに対する不自然さは消えた。相も変わらず口をあんぐり開けていた女子たちは、それでもなおハッと我に返り、てきぱきと人員を決めていく。


 男子と違い、意外とこの手の割り切りが早いのが女子だった。この貴重な体験ができない分については、他で存分に取り戻す約定らしい。無論、その中に男子の都合なんて一切考慮されていない。


「じゃ……女子五人と男子一人ってメンツだけど……」


「うん! ありがとね、優香ちゃん!」


 にっこりと笑ってユリはそれに了承する。未だに信じられないような目で、上村はユウに語り掛けた。


「咲島……私、あんたがなんなのか……あんたの何がユーリちゃんの琴線に触れたのか、マジでわかんないよ……」


 それに対するユウの答えは、実にシンプルなものだった。


「安心しろ、俺もだ」



 ──こうして、波乱の体力テストは始まった。



▲▽▲▽▲▽▲▽



 ユウたちの高校では、体力テストは男女混合で行われることになっている。例えば通常の体育のように、男女別に分かれて何かをしたり……といったことはない。測定待ちの行列には、これからの結果を出そうと燃えている男子も、測定に興味なんて欠片も示さずおしゃべりに興じている女子もいる。


 とはいえもちろん、必ずしも測定が男女同じ基準で行われるわけではない。同じ結果を出そうとも、女子だったら十段階評価のうち八になる記録が、男子基準で言えば四にしかならないものだってある。


 だから、純粋な記録そのものだけでは勝負ができない。短距離走において女子と一緒に測定した場合、女子より早くゴールしたとしても、体力テストの評価としては女子の方がはるかに上という事態は普通に起こり得る。


 故に、男子は男子、女子は女子で行動するものが比較的多かった。互いにペアを組んで、結果を記録しあう……という暗黙のルールがあることもあって、そのように行動しているものは多い。良い結果であれ悪い結果であれ、異性に自分の身体能力を見られるのが恥ずかしいと思う人だってそれなりにはいる。


 何が言いたいかって、つまり。


「……ふう。結構いい記録だったと思うけど、どんなもんよ?」


 いい汗かいたとばかりに、わざとらしく額を拭ってユウは上村に問いかける。記録係から聞いたそれをユウの記録用紙に記載した上村は、自分が書いたものが──ユウのその自信ありげな顔が信じられないとばかりに、半眼になって言った。


「ハンドボール投げ……18mなんですけど……」


「ん……おっ、8点もあるじゃん」


「バカ! こっちは女子の基準! 男子だったら3点のミソッカスだよ!」


「酷い言われようだなオイ……」


「そこぉ、イチャついてないでさっさと掃けてくれよ。次が閊えてんだから」


「イチャついてねーし!」


 記録係の生徒に窘められ、そしてユウと上村はユリたちが待つ女子グループへと戻った。すでに他のメンツはハンドボール投げの測定を終わらせていて、各々がおつかれさまと二人を労ってくる。


「いやー、上村の投げはすごかったねー! 咲島、上村の記録はいくつだったの? もしかしてまさかの20m超えた?」


「ちょいと惜しい、19mだな。でも得点にして8点の、文句なしの高評価だ」


「やっぱり! 投げた時すごい歓声あがったもんね! ……で、咲島は?」


「おう、18mだ」


「……」


「……」


「……男子基準だと3点じゃん」


「しかも女子の上村に負けるって……」


「そうだよ、もっと言ってやって! しかもこいつ、終わった直後すごく自信満々だったからね!」


「んだよ、1mしか変わらないのに……」


「──他の男子はみんな20m超えているのにこれじゃあねえ? 咲島くん、もっと頑張ってほしいなあ?」


「……」


 ほかの人より人一倍じとっとした瞳で、ユリがユウをにらむ。もはやすっかり慣れてしまったユウは、その詰まらなさそうにも意地悪そうにも見える表情から、「本気出せば軽く40m超えてたでしょ」……という、音にならない詰問を感じ取ってしまっている。


「いやいや、一色さんは俺のことを買い被りすぎだよ」


「ふーん……そぉ……」


「あの、ユー……じゃない、一色さん? 咲島はマジで運動はできないからね? この前のドッジボールが奇跡的だっただけで、普段は全然だから」


「そっかぁ、そうだよねー?」


 女子の一人が、周りに人がいることを気遣ってユリのことを名字で呼ぶ。そのことに気づいているのかいないのか、ユリは未だにユウのことを訝しそうな瞳で見続けていた。


「咲島くんもぉ、せーっかく女子が応援しているんだから、もっと頑張ってもいいんじゃない?」


 ユリが不機嫌な理由は、ユウが本気を出さないから……以外にも、もう一つあった。


「……ったく。ゆ……じゃない、一色さんが一緒にいて応援までしてくれるのに、必死にならない男子なんて咲島くらいだよ……。ホントに、良いことなんだか悪いことなんだか……」


「……」


「わかる? あんたのペアとしてあんたの記録を取ってる私の気持ちが? 毎回毎回情けない記録を書かせられる私の気持ちが……」


「女子基準だったら高評価だろ?」


「あんた男子だろ!?」


 上村は、ユリのお願いを素直に受け取りなるべくユリが目立たなくなるように行動している。そして、ユウを一緒に連れて行きたいというユリの意志を汲み取り、それでなおユウがぽつねんと孤立しないよう、自ら積極的にユウに喋りかけ、関わろうとしている。


 それは、上村自身がユウの記録のためのペアとして動いてくれていることからも明らかだ。そうでなければユウは測定のたびに地べたに記録用紙を置く羽目となっていたし、女子の中にユウを紛れ込ませることでそちらに注目させる……という当初の目的も完遂できなくなっていたことだろう。


 もしかしたら、上村は上村なりにこの明らかに男子にとっては気まずいだろう環境を何とかしてあげようと思っていたのかもしれない。ちょっと口が悪いながらも普通に会話しているところに、その兆候が見て取れた。


  問題なのは、まさにその行動そのものであった。


「えーと……次は立ち幅跳びかな」


「ん……じゃ、次は柚とユーリちゃんでペアで」


「りょ。上村は?」


「ま、咲島とやるよ」


「すみませんねえ、お手数おかけしまして」


 それなりに長い列を、適当なおしゃべりをしてやり過ごす。やはり周りは男子グループ、女子グループだけで回っているものが多い。ごくごくまれに男女混合で巡っているグループもあるが、その男女比のバランスは取れているし、記録のペアはやはり男同士、女同士となっている。


「はーい、次の測定の人はこっちで準備して」


「ん。……咲島、これ持ってて」


「うぇーい」


 上村から記録用紙を渡され、ユウはぼんやりと彼女が構えるところを見る。えいや、と跳んだ彼女の足元から踏切のラインまでが測定され、記録係の生徒より187cmという立派な数字が告げられた。


 続く二回目の測定。ぴょん、と上村が跳んだ瞬間にユウは記録用紙に「187」の数値を記載する。悔しげな声と共に聞こえてきたのは、175cmという、先ほどよりも10cm近く短い記録で会った。


「ちっくしょう! なんか上手くいかなかった!」


「まぁまぁ。悪い数字じゃないって」


「あんたに慰められても……ま、いいや。次あんたの番だから。これくらいは頑張ってよね」


 上村に記録用紙を渡し、ユウはスタートラインにつく。後ろの方から感じる刺し殺されるかのような視線は考えないようにした。


 準備OKの合図とともにユウは跳ぶ。一回目が165cm、二回目が173cmであった。


「ううむ……あまり振るわなかったか。でもまあ、170超えてるんだからそこそこいったか?」


 上村さんだって二回目はそんなもんだったしな……と、ユウは記録用紙に鉛筆を走らせる上村に問いかける。


 返ってきたのは、もはやおなじみとなってしまった答えであった。


「男子基準なら3点なんですけど?」


「……」


「もっと言うと、4寄りの3じゃなくて限りなく2に近い3だからね? 一回目と二回目の平均取ったらあんた文句なしで2だからね?」


 つくづく男子と女子とでどうしてこうも評価が違うのだとユウは不思議に思う。この男女平等が謡われる社会において、全く男女平等ではないじゃないかと声を大にして言いたいくらいだ。こういう学校と言った身近なところからその根本的意識を変えていかないでどうするんだと、隣に天野が入ればそう語りかけていたことだろう。


「うっわこいつぁひでぇ……お前、彼女の前なんだからもうちょっと頑張れよ……」


「そうだよ、せめてもっと悔しそうにするとかさぁ」



 ──ぎりりっ!



 何かが擦れるような音。それと同時に、さっきからずっと背中に刺さり続けていた射殺すような殺気にも近いそれがぐんと強くなった。


「ばっ!? ちげーし、付き合ってるわけないでしょ!?」


「ほーぉ? 体力テストで男女ペアで記録取っていて、仲良くないとは言わないだろ? 今度の、元カレとずいぶん違うタイプじゃん?」


 上村は基本的に明るくて社交性が高い。だから、ユウからしてみれば信じられないことに隣のクラス……というか、学年中に友人や喋り相手がいる。


 いきなり上村の肩口からユウの記録用紙を覗き込んできた彼らも、おそらくその類の友人なのだろう。よく言えば気さくで誰とでも打ち解けられる明るい性格のやつだが、悪く言えば人との距離感を考えずに土足でずかずか入ってくるようなタイプと言っていい。


 そして──繰り返すようだが、この体力テストで男女ペアで記録を取り合っている人間は相当珍しい。ありていに言ってめっちゃ目立っているし、傍から見ればああ、そういう関係なのね──と、色んな意味で邪推されるというのが現実だ。


 つまり、そんな連中が今のユウと上村を見れば、どう反応するかなんて火を見るよりも明らかだった。


「ヒューヒュー! なに、お前ら付き合ってんの?」


「おー、そうそう。実はそうなんだよ」


 だからこそ、ユウはその手の冷やかしにあえて乗っかる。とても普段一人ぼっちを好む人間とは思えないような気さくさで、相手の雰囲気に馴染んで溶け込み、同じような明るさで笑って見せた。


「適当なこと言うな咲島ぁ!」


 本気か、それとも演技か。上村が真っ赤になって言い返し、そしてユウの肩をパンパンと叩く。


 珍しい男女ペア。積極的にユウに関わろうとする上村に、冷やかしにあえて乗って見せるユウ。運動のできる女子と、運動のほとんどできないとぼけた男子。


 当初の目論見通り、ユウと上村はいろんな意味で目立っていた。周りの注目を引き付けていたと表現したほうがより正しいだろう。それは、二人と一緒に行動している女子グループの中に、見覚えのない……ある意味では見覚えがありすぎてしまう少女が混じっていることに、誰も気づかないくらいのものである。


「この前ドッジボールで借りができたから、ぼっちのこいつに一日だけ良い思いさせてるだけっ! 嘘だと思うってんなら、ウチのクラスの誰かに聞いてみな!」


「ま、残念ながらそういうことだ。もらえるもんは病気と借金以外もらっとけってのが家訓なんでね」


「お? でも【残念ながら】ってことは、もしかして~?」


「あわよくば、ワンチャンあるんじゃねって思ってる」


「「うぇぇぇい!」」


「咲島ァァァ!」


 まさに完璧の、思っていた通りの状況。バカみたいに笑いながらろくに知りもしない相手とハイタッチするユウは、今この場で誰よりも目立っている。そんなユウを真っ赤になって怒鳴りつけている上村もまた、男女双方の注目を──ユウとセットで引き付けていた。


 それが、ユリにとってはたまらなく、たまらなく悔しくて許しがたいものであったのだ。


「えーと、次の人……ひっ!?」


「い、一色さん……? な、なんかすごくやる気が……やる気じゃなくて殺る気が……!?」


「んー? なんのことー?」


 アホどもがアホみたいに騒いでいる傍らで、ユリはひっそりと目立たずに立ち幅跳びの構えに入る。すでに次の人の測定が始まろうとしていたことに気づいていたのは、当の本人たち以外には誰もいない。


「ふんッ!!」


「う、わぁ……!?」


「……に、225cm!」


 ユウの出した記録よりも50cmも大きいそれは、女子基準で言えば文句なしの最高得点となるものである。さらに言えば、男子の記録として見てみても平均よりもちょっぴり上だ。わずかな時間とはいえ、ユウと共に鍛え上げられた脚力は伊達じゃない。


「すご……! さっきからずっと、ほぼ満点に近い記録ばかり……!」


「んー? 実はねえ、実家が田舎の方で……昔から、野山を駆けるくらいしか遊ぶ手段がなかったから」


「ええ……それだけでこんなにいくものなの……!?」


 たぶん、そんなことはない。ユリの身体能力がいろいろあって高いのは間違いないが、それだってせいぜいは「学年の中でのトップクラス」程度のもので、こんな鬼のような記録を連発できるほどじゃない。


「いやぁ、さすがは一色さんだなー。俺もあやかりたいもんだぜ」


「な・ら! もうちょっと頑張ってよね!」


 どん、といつものノリでユリはユウに体当たりをかまそうとする。心の中の焦りを心の中だけに封じ込めたユウは、幾許かの非難の色を目に混じらせながらも、ゆったりと──されど素早い動きで上村の後ろに隠れることで、その一撃を躱して見せた。


「助けてくれ、上村さん。一色さんが怖い」


 ”なんか機嫌悪くないか?”……そう、ユウはユリに視線だけで問いかけた。


「べっつにー? 私はいつも、こんな感じだけどー?」


 ”またそうやって、他所の女とベタベタしちゃって!”……と、ユリはユウに視線だけで問いかけたつもりだが、悲しいことに伝わっていない。


「咲島……」


 はぁ、と上村はわざとらしくため息をついた。


「あんた、情けなくならないの……? いや、運動ができないのはしょうがないにしても、私にあれだけ言われて、一色さんにもこんだけ言われてるのに悔しがることのひとつもないなんてさ」


「とはいっても……マジで悔しくはないからなぁ」


「……ユーリちゃんが、あのユーリちゃんがここまで応援してくれているのに? あんただけに、ここまで構ってくれているのに?」


「どのユーリちゃんかは存じませんが、俺がたかだか女子の応援の一つでやる気を出すとでも?」


「威張って言うな咲島ァ!」


 スパァン、と上村の渾身の肩パンがユウに決まる。ユウは瞬間的に僅かに体を引くことで、肩から伝わる衝撃を大きく削いだ。別に食らったところで痛くもかゆくもなんともないが、まっとうに受けると上村の手首を痛めそうだった故だ。素人が迂闊に拳を振るうと、逆に自身の手首を痛めてしまうことをユウはよく知っている。


 ぎりり、と大きな歯ぎしりみたいな音が聞こえたのは、気づかなかったことにした。


「はぁ……本当に私はもうわかんないよ……。運動はへっぽこ、言い返す度胸も無い、そして挙句の果てに女子を盾にするとか……」


「上村さんの肩パンは甘んじて受け入れたじゃんか」


「……逃げ場がないって思っただけじゃないの?」


「いやいや……上村さんからの愛の鉄拳を躱すなんて、もったいないだろう?」


「ふざけるな咲島ァ!」


「ちょっ──それってどういうことだぁ!?」


「あっはっは」


 決してそういう意味ではない理由で顔を真っ赤にした上村と、たぶんそういう意味で顔を真っ赤にしたユリがユウに詰め寄る。ユウは薄っぺらい笑みを浮かべなら、とても普段は一人ぼっちで過ごすタイプとは思えないほどに中身のない高笑いをした。まるでさも、自分がこの手の女子と過ごすのが当たり前であるタイプかのように……陽気で明るい、クラスのムードメーカーであるかのように。


「な、なんか……さっきからずっと思ってたんだけど」


「うん……咲島って意外と普通に喋れて、ぼっちって感じのタイプじゃないよね……」


 少なくとも、クラスにここまで上村の感情を揺さぶれる人間は良くも悪くもいない。面倒見が良くて姉御肌な上村だからこそ、一人にここまで入れ込むことは無い。男を自然にあしらうのが上手いから、こうして逆にからかわれたりおちょくられたりすることなんてめったにない。


 そして言わずもがな、ユリにここまで気に入られているのも、男子の中では……下手をしたら、女子の中にもいなかった。



「あれ、優香じゃん?」



 だからだろうか。


 ユリだけに注意を向けていたユウは、上村に対して近づいてきた男に対するそれがいくらか散漫になってしまっていた。あるいは、別に近づけたところで危険でも何でもないと無意識に思ってしまっていたのだろう。


「げっ……」


「なんだよ、久しぶりだってのに酷いなあ」


 あからさまに上村の顔が曇る。いや、より正確に言えば台所でゴキブリを見つけてしまったかのような顔だ。恐怖でも憎しみでもない、例えるなら純粋な嫌悪感。結構整った顔立ちで、かつ見てくれを気にしている上村がこうも露骨に眉間にしわを寄せたことに、ユウはいくらかの警戒心を抱いた。


「おん? ……上村さん、男友達いっぱいいるんだな」


 さりげなく、本当にさりげなく、ユウはそいつとユリの間に体を挟むように移動する。偶然か必然か、それは奇しくも無意識的にそいつから距離を取っていた女子グループを背中にかばう形にもなっていた。


「……いいや、ただの知り合い」


「ほーん……」


 ただの知り合いってことは無いだろう……と、ユウはあたりを着ける。少なくともあまり会いたくないほうの知り合いであることは確かだ。


 目の前のそいつは、まぁ疑うまでもなくユウたちと同じ学年なのだろう。ジャージも同じ色だし、この場にいて馴れ馴れしく声をかけてきているのだからそれは間違いない。


 ただ、ユウたちとは決定的に違う点がある。


「酷くね? ただの知り合いじゃないだろうよ」


「うっさい」


「照れるなって……俺はお前の」


「うっさい!!」


「──元カレだろ?」


 元カレと名乗ったそいつは、ありていに言ってかなりチャラかった。髪は明るい茶髪……というよりかは金髪で、どうやったのか毛先だけ真っ白になっているうえに青いメッシュも入っている。首元にはゴツゴツしたシルバーのアクセサリーがあるうえ、手首にはこれまたジャラジャラとした大きめの玉の数珠──おそらくオシャレアイテムなのだろうが、ユウには数珠にしか見えない──を着けている。そして当然のように、耳にはピアス穴がそれぞれ二つずつ空いていた。


「ほほぉ……元カレねえ」


「そうそう、元カレ。一年の時の夏の頃に──」


「一瞬だけ付き合って、すぐ別れた。……三日間だけで、デートも一回しかしていない。ぶっちゃけ付き合ったうちにも入らない。すでにとっくに終わったことで、ノーカンだとすら思っている」


 ユウの後ろの気配──ユリも含めた女子たちが、そいつからできるだけ距離を取ろうとユウの後ろに固まっているのがユウにはわかった。一方で、そいつと対峙している上村の方からも、できることならさっさとこいつと離れたいという気配がありありと伝わってくる。そうしないのはきっと、上村のプライドのためだろう。


 一応、上村はクラスメイトで、そして多分ユリの次に友好度を上げた女子である。だから、ユウは自分から動くことにした。


「で……その元カレさんが、いったい何の用だよ?」


「さっきコウタたちから聞いたんだよ。優香が新しい彼氏連れているって。そしたらもう、気になるのは当然だろ?」


「気安く名前で呼ぶな」


 一触即発。ピリリとした空気。周りはこんなにもガヤガヤしていて賑やかだというのに、ユウたちの周りにだけ静かで剣呑なそれが漂っている。


 不機嫌さを隠そうともしない上村。そんな上村にまるで気づいていないかのように、そいつは続けた。


「でも……酷いな、本当に」


「何が、って聞いておいた方がいいのか?」


 はん、とそいつは鼻で笑った。小ばかにしたように……ではなく、まさしく馬鹿にしきったそれでユウを見下した。


「お前、運動ダメ過ぎじゃね? ちょっと見てたけど、まぁ酷いのなんの。こんなのと一緒にいるとか、神経を疑うぜ」


「「あァ?」」


 重なる声。ちなみに、ユウが発したものではない。


「優香、お前ずいぶん趣味変わっちまったんだな? 運動もできない、こんな根暗っぽい奴が彼氏なんて」


「あんたにゃ関係ない」


「俺も謝るからさぁ? 今からでも、よりを戻そうぜ?」


「うっさい。あんたと話すことなんて何もない。……行こう、咲島」


「まぁ待てよ──」


「きゃっ!?」


 後ろを振り向き、その場から立ち去ろうとする上村。そんな上村の腕を、そいつは強引につかみ取ろう……として。


「おっと」


 捻り上げるように、ユウがそいつの腕を掴んだ。


「……なんだよ」


 性格の悪そうなツラしてんなぁ、とユウはそいつの顔を見て改めて思った。さっきのチャラチャラした連中はそういう性格だというだけで、目には悪意も何もなかったというのに、こいつには明らかに悪意と敵意がごちゃ混ぜになったそれがある。そいつの性格は顔つきと目つきに出るというのがユウの持論だが、まさしくそれを悪い意味で体現するお手本のようであった。


「嫌がってるのに、無理やりってのはよくないんじゃあないか?」


「うるせえ。俺に指図するな。俺が優香に何をしようと、俺と優香の問題だろうが」


「俺が上村さんの意図を汲むのも、俺と上村さんの問題だよな?」


 すでに上村にいつもの勢いはない。一瞬とはいえ腕を取られたのが相当に堪えたのだろう。ほんの少し体を震わせながら、言葉もなくユウの背中に引っ込んでしまっている。


「お前……俺のこと、舐めてんの?」


「まさかぁ。俺は暴力大嫌いだし、正直今こうしてるのもかなりビビッて足に来てるんだぜ?」


 ホレみろ、とユウはわざとらしく足をプラプラと動かす。ついでに、周囲に似たような輩がいないか気配を探った。


 ──どうやら、本当にこいつ一人しかそれらしい(・・・・・)のはいない。ユリの正体に気づいて近づいてきたというよりかは、純粋に上村との痴情のもつれ(?)のそれなのだろう。


 そのことにひとまずほっとしたユウは、そして考える。残念なことに、この場ではユウの最も得意な解決手段……ぶん殴って終わらせる、が使えない。


「ムカつくんだよ、お前」


「あらま。嫉妬されるなんて初めての経験だな」


 ユウに捕まれた腕を解こうとそいつは試みる。当然、ちょっと激しく腕を動かした程度で、ユウの握力から逃れられるはずがない。


「さっきから見てれば……優香と楽しそうにしていやがって。俺へのあてつけか?」


「ごめんなあ。そういうつもりはないんだが……」


 どうしようか、とユウは視線で後ろにいる上村に問いかけた。


 が、上村には意図が伝わらなかったばかりか、必死に見つめ返してきた上村の意図もユウには読めなかった。


「放せや。ボコすぞコラ」


「そんなのできないくーせーにー」


 ──むしろそうしてくれた方が楽でいいんだよなァ、とユウは心の底から思った。相手から手を出してもらい、適当に殴られたフリをして、良い感じのタイミングで自滅を装い一撃を入れる。絡んできたのは向こうなのだから、ユウの身の潔白は十二分に証明されるだろう。


「……チッ」


「わかってくれたようで、なによりだよ」


 とりあえず、ユウはそいつの腕を離した。殴られるにしても腕を掴んだままじゃできないし、あまりにこっちが優位に立っているように見えては、正当防衛の主張も通りにくくなる。ユウはあくまで、必死に抵抗したか弱き一般人でなくてはならないのだから。


「ムカつく……本当にムカつく……運動もできない、根暗なお前がなんで……」


「ごめんなあ、運動音痴で根暗で」


「……クソが。誰も見てなきゃボコったのに」


「こわーい」


「こんなやつが……女子に囲まれて……しかも、結構可愛い……」


 例えるなら、ヘビが獲物を見定めるような。そんな目つきでそいつはユウの後ろに隠れる女子たちを見た。上村を見て、さらにその隣を見て、そして……


「──あ?」


「ひっ」


 ユリを見て、そいつの動きはぴたりと止まった。呆然としたように、よろよろと手を伸ばそうとして……。




「おう」




 上村は、その場の空気が数度冷え込んだかと思った。ユリは、そこだけ重力が三割増しになったかと思った。そんな錯覚をしてしまうほど、ユウが発した声は冷たく、重苦しく、迫力と言葉にできない気迫に満ち溢れたものだった。


それ(・・)に手ェ出したら」


 脅しでも何でもない、ただの事実を告げる。


「お前、ただじゃ済まねェぞ」


 生き物の本能がヤバいと告げたのだろう。そいつはぴたりと動きを止め、恐る恐るユウの方を見た。いったいどうして、自分がこんなやつを恐れているのかわかっていないのだろう。もしそれを理解しているのなら、この状況になった段階で逃げ出しているはずだ。


 ユウにとっても、そいつにとっても不幸だったのは……まさにその一点だった。


「……俺は、お前をボコれない」


「おう」


「だが……このまま引き下がるつもりもない。俺の方がお前よりもイケてるのは間違いない。今のこの状態は、何かの間違いなんだ」


「はぁ」


「だから」


 言葉は通じても話が通じない人間がいることを、ユウは初めて知った。





「優香たちを賭けて──勝負だ」


「なんでそうなるの?」

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