31 事前打ち合わせ
「……ってわけなんですが」
「なるほどね……」
翌日。いつも通りユリを姫野の元へと送り届けたユウは、そのまま一緒に車に乗って、いつぞやと同じ──例の事務所へとやってきていた。
ユウとしては別段、車の中でいくらか話せればそれでよかったのだが、もし万が一誰かに見られたら困るでしょ、また喫茶店で御馳走してあげるわよ──なんて言葉にホイホイ惹かれた結果である。
当然、ユリはレッスン中だ。したがって、やっぱりいつぞやと同じように、ユウは姫野と対面するように座っている。以前と違うところなんて、目の前に置かれているそれがオレンジジュースであることくらいでしかない。
「体力テスト……ね。そういえばそんなイベントもあったかしら」
「姫野さんのところがどうだったかは知りませんが……ウチは学校全体で一日かけて一気に終わらせます。午前中は一年生と二年生がグラウンド、三年生が体育館での測定をして、午後は入れ替わって……みたいな感じで」
「きっちり指揮が取れた行動をするってわけじゃ……」
「ないんですよね、これが」
測定項目はいくつかあるが、どれからめぐるかなんて完全に自由だ。時間が来るまでにすべて終わらせてさえしまえばいいのだから、さっさと並んでさっさと終わらせるものもいれば、時間ぎりぎりまでおしゃべりに興じ、人がいなくなってからゆっくり測定するものもいる。
問題なのは、その高すぎる自由度だ。
「測定していない間は基本的に自由……もう、ほとんど全部自由時間みたいなものじゃない」
「結構多めに時間は取ってますから。去年ですけど、ジャージ姿のまま図書館で本を読む奴もいれば、教室でみんなでゲームしたりトランプしたり……すでに全員測定が終わったところで、腕試しとしてふざけて再測定するやつも……」
「……最近の高校生って、ホントに自由なのね」
ふう、と一息ついて姫野はカップに口をつける。姫野が頼んだそれは、今日もなんだかやたらと長ったらしい名前をしたコーヒーの一種だ。すでにユウは、女の人が頼むお洒落なコーヒーの名を覚えることはとっくに諦めている。
「……あの子が測定に出たら」
「目立つでしょうね、すごく」
「……」
「今でこそ、他の学年やクラスの連中に見られる機会なんて、それこそ移動教室の時くらいですが……。学校の敷地全体にいろんな奴がうろついている中で、同じようにふらふらしていたら……」
「さすがにバレかねない。いいえ、バレること自体は良いとして……歯止めが効かなくなる。大騒ぎになっちゃうわね」
ユウのクラスでさえ、しばらく経った今でも毎日が大騒ぎに等しいのだ。むしろ今まで、曲がりなりにも何事もなく平穏無事に過ごせてきたのは奇跡と言っていい。
四十人の集団でギリギリなのだ。約九百人も人がいればどうなるかだなんて、考えたくも無かった。
「その日だけ、欠席するって考えは?」
「……できれば、したくない。あの子には、普通の学校生活を体験させたいんだもの。そういうイベントだけ参加できないって言うのは……ちょっと、寂しいわ」
「……」
「逆に……ボディガードとしてのユウくんの意見も、聞いてみたいのだけれど」
姫野の理想は、体力テストに参加したうえで何事もなく平穏無事にそれを終わらせること。だとすれば、それが達成できるか否かは、ユウ自身の実力にもかかわってくることだった。
「言い方が、ちょっとよくないですね」
ユウは、一気にオレンジジュースを飲み干した。
「やれと言えばやります。その一言があれば、俺はそのために全力を尽くします。……元より、そういう覚悟で引き受けてますから」
「つくづく、高校生とは……現代人とは思ない覚悟の決まり方よね」
「そういう奴だって、わかってて話を持ち掛けたのはそっちでしょう……」
「ま、確かに」
姫野はユウの背景を洗ったうえで、その実力を見込んでユリのボディガードを依頼したのだ。もちろん、ただ実力だけを見てそれを決めたわけでは決してないが、十分に任せられるという実力自体は確実にあるのである。
「ユウくん、お願い。あの子のために……なんとか、あの子が笑って過ごせるようにしてあげて」
「了解っす」
姫野の頼みを、ユウは快く引き受けた。
それでもう、この話はおしまいだ。
「ちなみにユウくん、この後予定は?」
「特にないっすね。カツサンド食ったら家帰ってゲームです……あ、宿題はやらないと」
「まじめなんだか不健全なんだか……ねぇ、ちょっとアイドルの事務所の見学とか興味ない?」
「む?」
姫野からの意外過ぎる提案。ちょっとした冗談か……と思ってみれば、その顔からはそんな様子はまるで見受けられない。何かを企んでいるわけでもなく、かといって世間話をしているようでもなく……ユウには、どうにもその意図が読めなかった。
「や、別に……俺、そんなにアイドルとか興味ないんで……」
「もう、そんなこと言わずに。こう言っちゃなんだけど、うちには可愛い子がいっぱい所属してるわよ? そんなアイドルたちの秘密のレッスン姿……みたくない?」
「えー……」
「お金を払っても見られない、ファンやマニアだったら全財産を投げうってでも体験したいくらいにすっごく特別なことなんだけど……」
「……それ、興味の欠片も無いどこぞの男子高校生が体験したってバレたら、命を狙われそうな」
「バレなきゃいいのよ」
とはいえ、いくらそんなに素晴らしくて普通じゃ体験できないものだとしても、ユウには興味が無いのは純然たる事実だ。口に出したらいろんなところから怒られそうだが、そんなことをするよりも家に帰ってゲームをすることの方がよっぽど楽しいだろう。
何より、それがバレたら若干一名にすごくすごく怒られるような気がする。怒られるだけならまだしも、拗ねられたり不機嫌になられたり……それどころか、ユウにはとても想像できないようなとんでもないことをしでかしかねないという奇妙な確信がある。
頭に浮かんだその顔を、ユウは必死にかき消した。
「なんで、そんなに勧めてくるんですか」
「単純に、ご褒美のつもりだったのよ。それに、いくらか興味を持ってもらえたら嬉しいじゃない? あと、あわよくば……」
「あわよくば?」
「ほかの子のボディガードとかも頼めたらいいかなって。……ユーリにとても拗ねられそうだけどね」
「姫野さん、あんたって人は……」
「ストレスにならない程度に焚きつけたら、なんか意外といい方向に成長しそうじゃない? ユウくんだっていろんな可愛い子と知り合えて……ほら、ウィンウィンってやつじゃない」
「アイドルに男の影がある方がマズいんじゃないっすかね? いいんすか、そういうの。たとえ誤解だとしても熱愛発覚……とか、そういうのってヤバいんでしょう」
そういう知識はあるのね、と姫野は小さく驚き、そして続けた。
「別にうち、恋愛禁止を謡っていないもの。アイドルだからって女の子の特権を奪われてたまるものですか。それに……ウチの大半のアイドルの近くに同じ男がいるのなら、それは事務所の関係者ってことじゃない」
いったいどこまで本気かはわからないが、少なくともそれなりに真っ当な理由があった。確かに言われてみれば、可愛いアイドルとお近づきになれるうえ、万が一のときの保険にもなる。さらにさらに、ユウからしてみれば報酬アップ……新しいお仕事への一歩に他ならない。
でも。
でも、やっぱり。
「いや……お誘いは嬉しいっすけど、今は止めときます」
脳裏に浮かぶ顔が、なんか怖かった。
「あら……まぁ、『今は』ってことなら、そのうちチャンスはあるってことね」
「そりゃあ、俺だって男ですし。女の子の一人や二人、興味はありますよ」
「ホタルにマリナに、ミチル……いろんなタイプの子がいるわよ~?」
ユウには知る由もないが、ホタルもマリナもミチルも、知らない人はいないくらいに有名なアイドルである。CDも何枚も出しているし、握手会だって何度も行ってテレビにも出ている、スーパースターであった。
「……あ、でもユウくんは栞子のほうが好みなんだっけ」
「しおりこ?」
「ほら、受付の」
ぴく、と姫野の眉の片方が動く。ほんのわずかな違和感に、ユウは無意識のうちに──ほぼ反射的に周囲の状況を探ってしまった。
「──男は誰でも、落ち着きのある大人のおねーさんに憧れるもんだぞ」
後ろを見ずに、ユウは呟く。
──目の前に、カツサンドを乗せた大きなお皿が静かに置かれた。
「ユ・ウ・く・ん……!」
「よっ」
いつぞやと同じく、ユリが少し息を荒くしながら後ろに立っていた。片手にはレストランでよく見るタイプのお盆を持っていて、そして恰好はウェイトレスとは思えないくらいにラフなものである。
「ユウくんってば、また桜木さんのこと話してたでしょ! ユウくんの年上好き!」
別に年上が好きだろうとそれの何が問題なのか──とユウは思うが、あえてそこで口答えする無謀さは持ち合わせていない。一瞬早く背後に迫る気配に気づけていなかったら、もっといろんなことを言われていただろうな……なんて、未然に防げた未曽有の危機に安堵していたくらいである。
姫野の目の前にお洒落なショートケーキを置いてから、やっぱりユリは姫野の隣に腰を下ろした。今日もまた、ちゃっかり(?)自分の分のバニラアイスを用意している。
「……あなた、また私の隣なのね。今日も甘えたい気分なの?」
からかうように、姫野がユリの脇腹を小突く。アイスをぱくっとほおばった格好のまま、不意を突かれたユリは真っ赤になって抗議した。
「ち、違うもんっ! だ、だいたい私がホームシックに罹ったことなんて今までに一回も無いでしょう!?」
「やぁねえ。無いから心配しているのよ。親御さんから預かっているんだもの、気にかけるのは当然のことでしょう?」
「うー……! そうだけど、そうだけどぉ……!」
相も変わらず、プロデューサーとアイドルと言う関係の割にはずいぶんと親密なものだとユウは思う。世間一般のそれがどの程度なのかはわからないが、少なくともこの場では、非常に仲が良さげで、ともすれば姉妹のようにさえみえる。
初めて会った時からまだそんなに経っていないが、ユウの中で姫野の印象は変わりつつある。最初はちょっと冷たくて厳しい感じのおねーさまだったのに、今や多少おちゃめで優しげな大人のおねーさんだ。
「姫野さん、今日のレッスン知ってるでしょ……? そ、その、ちょっと今汗臭いかもで……それに結構派手に動いて髪とかもぐしゃぐしゃ……」
「……アイドルにここまで言わせるなんて、ユウくんは大物よね」
「あざっす。……あと、そんな気にするようなもんでもないと思うぞ。互いに汗だくなんてジョギングの時は毎回そうだったろ」
「や、そうだけど……そうだけど、ね?」
なにが「ね?」なのかはわからないが、女の子ってやつはいろいろ難しいもんだとユウは一人で納得する。男連中だったら、体育のあとも汗でダラダラのままワイシャツをパタパタとしているものがほとんどで、周りのことなんてまるで気にしちゃいない。下手をすれば、授業が始まるまで半裸で過ごす奴さえいる。
ちなみに恥ずかしくて口に出すことは絶対にできないが、ユウはユリから汗臭さを感じたことは一切ない。むしろ、なんか甘くて妙にドキドキする匂いがすると思っている。
ただ、それが何の匂いかまでの判別はついていない。きっとおそらく、お高い化粧品か何かなんだろうな……という、その程度の認識であった。
「それに、髪だって……」
「髪だって?」
「あのグラサンマスクの不審者スタイルに比べれば、どうってことないだろうよ」
「今ここでそれ言う!?」
ひっどーい、と口を大きく膨らませて、ユリは抗議の声を上げる。その姿だけを見ると、そこにいるのは世間に大人気のスーパーアイドルではなく、ただの……クラスによくいる明るい人気者の少女にしか見えなかった。
やがて、アイスをぺろりと平らげたユリは、ちょっぴり上目遣いでユウに問いかけてきた。
「ね、ね。今日は何のお話していたの? さすがにもう、抜き打ち報告ってわけじゃないだろうし……」
「ん? ああ……」
ちら、とユウは姫野を見る。別にいいわよ、と姫野は目だけで語って見せた。
「今度、ウチの学校で体力テストがあるだろう? その話だよ」
「え……まさか、私は参加しちゃいけないとか……」
見るからに絶望しきった表情になるユリ。たかだかこれくらいでどうしてそんな顔ができるんだ……と思いつつ、ユウは安心させるように語り掛ける。
「逆だよ、逆。なんとか参加できるようにって話してたんだ」
「……ほ、本当!? わ、私も出て良いの?」
「ええ。……でも、ちゃんと周囲への警戒は怠らないでよね。騒ぎになるようなことも自重すること。それに、どれだけあなたが注意していても……そういうのは周りの方からやってくるんだから」
「わかってるもん! ……要は、ずっとユウくんの傍から離れないでってことだよね?」
「……ん?」
はて、なんだか妙なことが聞こえたぞ。どうやら自分の耳は、突発的にバグってしまったらしい。
ユウはどうしても自分の耳が信じられなくて、普段ならほとんど使わない言葉を発した。
「ごめん、今なんて言った?」
「え……ユウくんの傍から離れないでってことじゃないの?」
その目を見る限り、冗談を言ったりユウをからかったりしている様子はない。ユリは、心の底からそう思っている……むしろ、あえてわざわざ確認を取ったユウのことが不思議でならないという表情をしている。
「……私も、そのつもりだったんだけど。だからユウくんに、ちゃんと確認を取ったんだけど」
姫野もまた、ユリを同じ表情をしている。むしろ、それ以外にどんな意味があったと思ったのか……なんて、目だけで訴えてきていた。
「いや……普通に、離れたところから見守って……。なんかヤバそうなことが起きそうになったら、大事に至る前になんとかしようかなって……」
「結構な人混みになるんじゃ……いえ、それでも何とか出来るのがユウくんよね」
「そういうことっす」
「でも、それも多分難しいと思うわ。だって……」
「だって?」
「まるでストーカーじゃない」
「…………」
体操服姿の女子の周りに常にいて、常に向こうに気づかれないようにしながらその一挙手一投足に目を光らせる。そのうえで、彼女に近づくものを見かけたら、率先してそれを排除しようと行動する。
相手がアイドルならば……いや、相手がアイドルじゃなくても、普通にヤバい奴の行動であった。
「……あっ! じゃあ逆に、私の方がユウくんについていけばいいのかな?」
「いや、それはそれで割と困る」
「……なんで?」
「なんでって、そりゃあ……」
相手がアイドルじゃなかったとしても、特定の女子が特定の男子に常に付きっ切りで行動したとなれば、そりゃもうしっかり噂になるだろう。周りからの冷やかしだってすごいはずだ。しかも、その特定の男子はそう言ったことにまるで縁がないはずの人間だ。話題にならないはずがない。
「……私がいると困ることでもあるの? ほかの女子にカッコいいところ見せられないから? それとも別に気になる娘がいるとか? ……やっぱり、ユウくんのえっち!」
「お前本当にマジに面倒くさい性格してるな!?」
「あら、それならユウくんに頼むのも気が引けるわね……」
「姫野さんまで!?」
「……でも、ホントの所どうなの?」
純粋に、疑問をそのまま口にした姫野。隣にいるユリは、キラキラした瞳でユウを見つめてきた。その段階でもう、何を聞かれるのか、どういう答えを求められているのかユウにはなんとなくわかってしまった。
「体育では本気を出さないって話だけど……今も昔も、かけっこが得意な男子がモテるのは変わらないでしょう? 普通の授業ならともかく、体力テストくらい普通に受けたり……」
その顔に若干の罪悪感を覚えながらも、ユウが返す言葉は一つだけである。
「いつも通りですよ。適当にやって、適当に終わらせます」
「ユウくん……」
「だから、ユリ……お前はこっちのことなんて気にせず、普通に過ごしていいんだ。むしろ、そっちの方が俺にとってもやりやすい」
「……」
少しばかり冷めてしまったカツサンドに、ユウは大きくかじりついた。




