25 事務所にて
「一週間、お疲れさま。私の奢りだから、好きなもの頼んでいいわよ」
「ど、どうも……」
金曜日の放課後。ユウは、ユーリが所属する例の事務所のとあるスペース──喫茶店のようになったそこで、姫野と対面していた。
別に、ここに来た経緯はそんな特別なものではない。いつも通りユリを姫野の待つ駐車場へと送り届けたところ、せっかくなので乗って……と、誘われたってだけである。
当然、行く先はユーリの事務所。しかし、アイドルのレッスンに参加するわけじゃないユウは、建物内でユリと別れ、こうして姫野と相対することになったのだ。
「ここ、事務所の中ですよね。こんな本格的な喫茶店があるなんて……」
「……あら、もしかしなくても咲島くんは喫茶店初めて?」
「……まぁ、そうです」
男子高校生の大半は喫茶店なんて入ったことないんじゃないか──なんてユウは心の中だけで呟くが、しかし程度の差こそあれ、今時の高校生なら男女問わず喫茶店の一つや二つ、当たり前のように経験している。駅前に行けばいくらでも見つかるし、友達と待ち合わせをするのにだってぴったりだ。無論、個人経営のそれを利用したことがある人間は少ないかもしれないが、逆にチェーン店だったら利用したことが無い人のほうが珍しいかもしれない。
ユウが喫茶店を利用したことが無いのは、単純にユウの生活にそれが必要なかったというだけであり、同時にまた、それがユウの興味の琴線にまるで触れることができなかったというだけである。
「ホントの喫茶店を知っていたならね、ここを喫茶店だなんて思わないはずよ」
「……えっ?」
なんかお洒落な内装。ジャズだかなんだかわからないが、それっぽい音楽もかかっている。コーヒーの深く香ばしい香りもしていて、全体として落ち着いた雰囲気が満ちている。
ユウの知っている限り、これ以上に喫茶店らしい場所はない。
「喫茶店じゃないなら、ここはいったい?」
「ちょっとした休憩スペース。あるいは、こうしてある程度知っている人との打ち合わせスペースって言ったところかしら。ふふ、けっこうおシャレでしょ?」
言われてみれば入り口にも店の名前はなかったし、メニューにもそれらしいロゴの類はない。ウェイターやウェイトレスもいなければ、支払いを済ませるレジもない。本当に、喫茶店のような見た目というだけで、最低限のものしかそろっていなかった。
「まぁ、喫茶店としていろんなものを頼めるのは間違いないんだけど……利用できるのは、この事務所の関係者だけ。利益を求めて営業しているわけじゃない。そうねえ、一応は社食……高校生で言うところの学食になるのかしら」
「ああ、それならなんとなくわかりますけど……でも、じゃあなんでこんな本格的な内装なんですか」
ユウの高校の学食なら、もっとそっけない感じだ。大きな机にたくさんの椅子──とにかく人を捌くためにスペースが使われ、返却台やごみ箱、券売機なんかの必要なものだけが置かれている。お洒落のおの字も感じられないような、そんな利便性だけを追求したような空間だ。
「ウチのアイドルはみんな年頃の女の子だからね。こういうのが好きなんだけど……いろんな意味で、迂闊にそういうところに行けないの。だから、いっそのこと休憩スペースをこういうふうにしてしまって……レッスン後のご褒美にもしてしまっているというわけ」
「はぁ……いろいろ考えているんですね」
「打ち合わせスペースとしても評判がよかったのは、嬉しい誤算だったわ……注文は決まったかしら?」
メニューを見てもなんだかよくわからなかったので、ユウは一番安いエスプレッソを頼むことにした。もちろん、エスプレッソがなんなのかも全然わかっていない。名前こそ聞いたことがあるものの、コーヒーの一種である……以上のことは知らなかったりする。
でも、コーヒーならどれも大して変わらない。なら、一番安いので十分だ──というのがユウの戦略だった。サイドにあるいかにもお子様なジュースを選ばないのは、ちょっとした気恥ずかしさと男としてのプライドのためである。
「俺、これで」
「あら、ちょっと意外なチョイスね……おやつはいいのかしら? ケーキでもパフェでも、経費で落ちるからホントに気にしなくていいのよ」
「……」
メニューに描かれているそれは、なるほど確かに、女の子に人気がありそうなかわいらしいケーキだった。いかにも甘そうで、いかにもふわふわしていて、見ているだけでワクワクしてくるような──写真映えしそうな逸品だ。
でも、小さい。ほんの一口か二口で終わるんじゃないかってユウには思えてしまう。しかも、そんなちっぽけな量なのに、購買のボリュームたっぷり焼きそばパンの五倍近いお値段である。
──あいつ、いつもいいモン食ってるんだな。
「や、そんなに腹は空いてないので……」
「ユリから聞いたわ。ユウくん、よく食べるって」
「……」
「こっちのサンドイッチ、いろんな味が楽しめてお得よ。ちょっぴり時間がかかるけど、カツサンドはボリュームたっぷりで人気ね」
「…………カツサンドで」
「やっぱり、男の子ね」
ちなみに、ユウの高校のボリュームたっぷり焼きそばパンは一つ八十円である。高校生のお財布にもおなかにも嬉しい逸品であった。
「ねぇ、ちょっと──」
「はいはい、ただいま!」
注文を取りに来た優しそうなおねえさん──受付のあの人だ──に、姫野はエスプレッソとカツサンド、カプチーノとショートケーキを注文した。支払いはその場で、社員証を使ってピッとやるやつである。何気に結構なハイテクであった。
「さて、それじゃ──本題だけれど」
来たか、とユウは背筋を伸ばして身構える。
ユウとて馬鹿じゃない。いろいろと忙しいのであろうアイドルのプロデューサーが、本当の意味で一男子高校生に過ぎない自分を事務所に遊びに誘うわけなんてない。それはあくまで建前で、本当の要件は別にある。それくらい、察することができた。
「一週間、あの子の送り迎えとボディガードをやってもらって……なにか、変わったこととかあったかしら? あなたの口から、聞いてみたいの」
姫野から紡がれた言葉は、ほとんど予想していたものだった。
「良くも悪くも、いつも通りであいつらしいって感じでしたね……」
「言いたいこと、なんとなくわかるわ……」
「まぁ、変にしつこい奴だとかは今のところいません。噂も全然広がってなくて、せいぜいが可愛い転校生が来たぞ、ちょっと気になるから見てみよう……程度かと」
「顔でバレたりしなかったかしら?」
「不思議なことに、“そっくりさん”みたいなノリでほかのクラスには通っています。いや、もしかしたらうすうす気づいているのかもしれないけど、信じられないってほうが強いのかも」
「……まぁ、普通はアイドルがいきなり転校してくるとは思わないわよね」
良くも悪くも、ユリの学校での振る舞いはいつも通りすぎた。自ら致命的なことは言わないものの、ところどころでボロが出ているし、そんなあからさまにガチガチに隠しているわけでもない。ユウのクラスは全員ユリが本物のアイドルだと気づいているが、他のクラスは逆にそのせいで自分からその可能性は否定しているのではないか──と、ユウは睨んでいる。
もちろん、ユリのささやかな変装と、ユウのクラスの全員が謎の一体感を持って不文律(?)を順守しているというのもあるだろう。
ただ、ユーリとしての人気を客観的に考えるならば、今の展開は実に理想的なものだと判ずることができた。
「男子はどう? こう、明らかに近づけちゃまずそうなチャラチャラしてるのとかはいる?」
「いやぁ……ウチのクラスには、そんな露骨なのはいませんね。良くも悪くもバカばかりで、鼻の下伸ばしていいところを見せようとするやつがほとんどです」
「女子は?」
「そんな男子を軽蔑して、あいつを男子に近づけさせないようにしていますね」
もうずいぶんと仲良くやってますよ──とユウが告げると、姫野は心の底から安心したようにホッと息をついた。やはり、なんだかんだで上手く馴染めるのか心配だったのだろう。アイドルとマネージャーがどんな関係で、どんな距離感を持つものなのかはわからないが、姫野がユリに抱くそれは、人として見習うべきもののようにユウには感じられた。
「おまたせしましたー……って、まずはお飲み物だけですけれども」
「ありがと」
「あ、あざっす」
受付のおねえさんが洒落たお盆を持ってやってきて、ユウの左後からすっとそれを目の前に置いた。微かに揺れた空気と共にふわっと甘い香りが漂って、すぐさま儚く消え去っていく。
「ケーキもカツサンドも、もう少しお待ちくださいね。……美味しい作り立てのをご用意しますから、どうぞお楽しみに!」
おまけにアイドル顔負けににっこりと笑いかけてくるものだから侮れない。アイドル事務所ってのは受付の人までレベルが高いんだなと、そんなことを思いながらユウはエスプレッソを口にした。
「──熱っ!」
めちゃくちゃ熱い。
「にっが……!」
「……」
ついでにめちゃくちゃ苦い。エスプレッソだなんて女受けのよさそうな洒落た名前をしているのに、甘さなんて全然感じない。苦さと熱さが舌のすべてを蹂躙して、美味しさなんて全然わからない。
おまけに、カップそのものがめっちゃ小さい。一口か、せいぜいが二口で全部飲み干してしまいそうなくらいだ。
──やっぱアコギな商売してやがんな。
ひりつく舌を巻き、涙目を隠すようにユウはそのお洒落な小さいカップを恨めしそうに睨んだ。
「……男の子ね、いろんな意味で」
「どういう意味ですか」
「別に?」
上品に、そして意外なことにかわいらしく、姫野はカップに口を付けた。
姫野が頼んだカプチーノとやらは、なんか泡でいっぱいのよくわからない飲み物だった。コーヒー色をしているけれども、一切の誇張なくカップからは泡しか見えないため、ちゃんとした飲み物のようにはとても思えない。
「もしかしなくても、エスプレッソもよくわかってなかったのね……言ってくれたら、説明したのに」
「や、まぁ、その……コーヒーなら味なんてどれも似たようなものかと」
「全然違うわよ。まず……エスプレッソはそもそもが苦いから、砂糖を多めに入れる人が多いわ。それでようやく飲めるって人もいるくらい。こっちのカプチーノは……甘さと苦さのバランスが取れている感じかしら。カフェラテは甘いほうって言われてるわね。あと、コーヒーとミルクを合わせたものを──」
「コーヒーとミルク? 俺、それなら割とよく飲みます」
「……カフェオレって言うんだけど、ユウくんが想像しているのはたぶんジュースの方ね」
「えっ」
ユウが知っている「コーヒー」は、自販機やスーパーで売られているコーヒー牛乳であった。だから、高級な「コーヒー」であるエスプレッソも、似たような感じであると思っていた。しかし、その「コーヒー」が「コーヒー」でないならば、今自分が飲んでいるそれはいったい何なのか。
「猫舌で、苦いのがダメで……普段、何飲んでるの?」
「何って……」
水。お茶。たまの贅沢でオレンジジュースと、コーヒー牛乳。めでたいことがあったら日本で一番有名であろう、濃淡の精密なバランスが求められる乳酸菌飲料。それこそが、ユウが普段飲んでいる飲み物だ。
「……まぁ、普通ですよ」
「……ふぅん。せっかくだし、コーラかメロンソーダでも頼もうか?」
「……いえ、炭酸はあんまり。なんか、慣れなくて」
そう、と呟いて姫野はメニューに伸ばしかけた手を引っ込めた。
「まさかとは思うけど、結構な偏食だったりするの?」
「いや、食べ物はよほどの毒でもなければなんでも」
一般的に食べ物とされているものだったら、ユウは生まれて一度も残したことが無い。どんなものでも食らい、己が血肉に変えてきている。ニンジンやピーマンはもちろん、納豆だろうとイナゴの佃煮だろうとへっちゃらだ。
「そこらに生ってる木の実をつまんだり、花の蜜を吸ったりもしてましたね」
「あなた……極端すぎない?」
「今は普通の物しか食べてないですよ」
「ふぅん……なんかお弁当も昔ながらのドカ弁とか食べてそう」
「ドカ弁て……」
そのたとえを年頃の女の人がするのはどうなんだ、とユウは心の中だけで思った……はずなのに、思わずチビりそうになる冷たい怒気が姫野から一瞬刺しこまれた。どうやら、あまり年齢のことに触れてはいけないらしい。
「そういえば、お昼はどうしているのかしら? あの子、あなたと一緒に食べてたりするわよね?」
「……まぁ」
「ああ、別に隠さなくてもいいわよ。あの子の性格は十分に知っているし、むしろ、ユウくんと一緒のほうがこっちとしても安心できるから」
「……俺が知っている限りでは、この一週間のうち二回は男女ごちゃまぜで十数人のグループの真ん中で食べていました。一回が女子のグループです。残り二回が……俺と、俺の友人と一緒に」
「あら? 私、ユウくんとは三回お昼が一緒になったって聞いたけれど」
「男女ごちゃまぜの時、一回だけ俺も端っこの方にいたのでそれもカウントしたんじゃないかと。……というか、知ってたんじゃないですか」
「あら、どの業界でもそうだけど、こういう情報は裏をとって初めて信用できるものなのよ?」
あの子の話だけを信じるわけにはいかないじゃない──と、悪びれることも無く姫野は言ってのけた。
「言うまでもないだろうけど、もしあの子が男子ばかりの中に行くことになりそうだったら……」
「その時は、必ず傍についてますよ」
「頼もしいわね」
「仕事なので」
「……ちょっと不安に思ったんだけど。ユウくん、学校でちゃんとあの子と会話してるわよね?」
「……まぁ、それなりには」
「それなりじゃなくて、普通に会話してほしいのだけれど」
意外なことに、姫野としてはユウを積極的にユリと関わらせたいようであった。
「普段から仲良くしていれば、常に傍にいても違和感ないじゃない?」
「でも……そんな露骨に仲良くしていたら、ボディガードしてるってバレるじゃないですか」
「だから、『普通に』会話して普通に仲良くしてほしいのよ。……一応、あの子はあれでもアイドルだからね? そんなアイドルに対して、必要最低限の関りしか持とうとしないってのも、逆に違和感があるわよ」
「む……」
言われてみれば、思い当たる節がユウにはあった。クラスの全員がユリのことを気にかけ、大なり小なり興味関心を抱いて行動しているのに対し、ユウは逆になるべくユリに関わらないように普段の行動を意識している。他から見れば浮いて見えることは間違いない。
「でも、俺は元々アイドルとか興味ないタイプだったので……そんな違和感ないんじゃないかと」
「だとしたら、『普通の転校生』に対して接するようにしてほしいわね。……隣の席に可愛い女の子がやってきて、そんなあからさまに避けようとなんてするかしら? 向こうから積極的に話しかけてくるのなら、そのまま流れでそれなりに仲良くなる……のが、自然じゃない?」
「……」
姫野の指摘は間違っていない。ユリがアイドルであるとかそういうことに関係なく、ユウの行動はあまりにも露骨すぎた。関りがあることを他の人に悟られまいと、ユリとの接触を極力避けるようにし、接触があったとしても他人行儀にするようにしてきた。一転校生に対する態度としては、不自然極まりないだろう。
「仲良くしてた人が急にそんな風になっちゃったら……誰だって、寂しくなるわよ」
「……」
「難しいかもだけど、頑張ってくれると嬉しいわ。……そうね、まずはお弁当の時に普通に会話するくらいから」
「……うっす」
いくらか冷めてきたエスプレッソに、ユウは砂糖を入れてみた。机に備え付けてあったスティック状のやつを、贅沢に三本もである。さらさらとそいつを投入した後は、カチャカチャとスプーンでそれを混ぜる。
「……」
いくらかマシになったものの、やっぱり苦いものは苦い。口が裂けても甘いだなんて言えるはずがない。
「でも、そうね……逆に、前のお弁当の時はどんな話したの? ユウくんとあの子の普通の会話って、ちょっと想像がつかないんだけど」
「いや、普通に学校のこととか……あと、それこそ弁当の話ですよ。手の込んだ弁当を作ってもらってるんだから、ちゃんと感謝しろって。簡単そうに見えて、作るのは大変なんだぞって言われました」
「……ホント、全くその通りよ。お弁当を作ってもらえることがどれだけありがたいか、子供のうちはわからないものなのよね」
「そんなものですか?」
「たまに……あの子が私のお弁当を作ってくれることがあるんだけど、本当にうれしくて胸がいっぱいになるわよ。始めてもらえた時は、冗談抜きに泣きそうになったわ」
しみじみとした様子で姫野はカプチーノを口にした。懐かしむような、泣きそうにも見えるような、そんな表情。大人ってきっと色々大変なんだろうな──と、ユウはそう思うことにしておいた。
「ああ、あとその流れで……ウィンナーと卵焼きを交換しましたね」
「タコさんウィンナー? あの子が作るやつ、美味しいのよね。なんだろ、こう……懐かしの味っていうの? お母さんがお弁当に入れてくれるウィンナーの味っていうのかしら?」
妙齢の、クールな綺麗系の女性の口から「タコさん」という言葉が出てくるなんて、いったい誰が想像したことだろう。いちいち「さん」付けするあたり、意外と姫野も女の子っぽい部分があるのかもしれないと、ユウは認識を改める。
「確かに、いつも食べるウィンナーとは味が違ってましたね……そうか、あれがお袋の味ってやつなのか」
「……それ、本人には言っちゃだめよ?」
「え? どうして?」
「……これだから、男の子は」
ふと気づけば、ユウの鋭敏な嗅覚が少し離れたところから漂う香ばしい香りを感じ取っていた。いかにも肉らしい肉の匂いに、揚げられたパンの香り。普段はなかなか楽しむことのできない、熱の通ったそれだが──だがしかし、人の気配は近づいてくる様子はない。
「ウィンナーといえば」
「なにかしら?」
「いや……弁当だけじゃ足りないんで、コンビニでウィンナーパンも買って食ってるんですけど、弁当を作ってる妹が可哀想だからやめろってめっちゃ怒られましたね」
「……そりゃあ、怒るわよ。あの子は作る側の人間だもの。せっかく一生懸命作ったのに、それじゃ満足できないとばかりに別の物まで食べられたら……こう、カチンとこない?」
「そうですか? 作ったのに食べずにそっちにするってのならわかりますけど、きっちり完食したうえで追加を食べるくらいなら……」
「……これだから男子高校生は」
姫野はわざとらしく眉間をもんだ。ユウからしてみれば、納得のいかないことである。
「いや……こればっかりはあいつが口うるさすぎるだけのような。それにあいつ、それ以外にも結構いろんなことに文句言ってきますからね」
「……参考までに、聞いてもいいかしら?」
別に聞かれたことで困ることでも何でもない。ユウは当たり前のように、ごくごく自然に語りだす。
「体育で俺がちょっと活躍できなかったりすると、そのあとすごく不機嫌になるんですよ」
「あのユウくんが、活躍できない? そんなことあるの?」
皮肉っぽく、姫野は驚いて見せた。おそらく、未だにかつての尾行で無駄に走りまわされたことを根に持っているのだろう。
「誰だって得意不得意くらいありますよ。足が速い人がみんなサッカー上手いわけじゃないし、背が高いからと言ってバスケが得意なわけじゃない。眼鏡をかけている奴はみんな勉強が得意だ……って言ってるくらいの暴論なのに、運動になるとそれがわからない人が結構いるんですよね」
「……あなたの学んだそれは、たしかにスポーツとはかけ離れているわよね」
「そういうことっす」
気まずい沈黙。互いに飲み物に口をつけて、そして姫野の方から沈黙を破った。
「まぁ、ユウくんがスポーツ苦手なのはわかったわ……それなのに、そこに不満を言うのはひどいわね」
「そうなんですよ。あいつ、俺がどれだけそういっても納得してくれないんです。おかげでまだ数回とはいえ、体育の後はいっつも機嫌が悪いし、最近じゃ軽く脅迫じみたことまで言われ……」
「あの子の気持ちはわかるけどね……」
「えっ」
「応援している人がうまく活躍できなかったら、当然悔しく思うわよ。ましてや知らない仲じゃあるまいし」
──きっと、それだけじゃないんだろうけど。
ユウにすら悟らせず、姫野は心の中で呟く。現状として大きな問題になっていないのであれば、別に無理につつく必要もないというのが姫野の考えだった。
「でも、そうね……脅迫じみたことっていうのはちょっと聞き捨てならないわ。仮にもアイドルがそんな真似をするなんて……」
「でしょう? 姫野さんからもよく言っといてくださいよ」
「状況を具体的に教えてくれるかしら?」
「──準備運動のランニングではいっつも最下位。ディフェンダーで全然動いていないのに、文化部女子と同じくらいのタイミングでバテバテを装ってる。走れば絶対に追いつくボールなのに見過ごして、単純なかけっこの勝負でも絶対に勝とうとしない」
「あ」
唐突に割り込んできた、甘い声。ほんのちょっぴり息が上がっているのは、レッスン後だからか──それとも、慌ててやってきたからか。
いずれにせよ、はっきりしていることは。
「私が怒るの、わかるよね?」
ユリだ。ユリがいる。レッスン後と思しきラフなシャツ姿で、ユリがすぐ隣に立っている。
「……詐欺もいいところじゃない。あれだけの速さでずっと走り回れる人が、たかだがクラスの人にかけっこで負ける? スタミナが文化部女子並み? そもそもそれ、スポーツ関係ないところよね?」
「そうでしょ!? だから私、もっと頑張ってって言ってるだけだもん! 頑張ってくれなきゃ応援できないから、せめて普通にやってって……!」
「スポーツが苦手というなら話はわかるけど、手を抜くっていうのは擁護できないわね」
一対二。戦闘状況的に圧倒的な不利。しかもフィールドは舌戦という自身にとって限りなく苦手な分野であるうえ、相手はその道のエキスパートである。口喧嘩時に結託した女ほど恐ろしいものはないと、ユウは男としての本能で理解している。
だから、咲島流師範代としてのユウは、戦う場所を変えようとした。
「ユリ、おまえなんでここにいるんだよ?」
「カツサンドとショートケーキ、お届けに上がりました?」
お盆。その上に、出来立てでボリュームたっぷりなカツサンドと、可愛らしいショートケーキが乗っている。ちょっと不思議なのは、ユウも姫野も頼んでいない、オレンジジュースとバニラアイスも一緒にあるところだろうか。
「あの受付の人じゃ……」
「……ふーん? 私じゃなくて桜木さんのほうがよかったの? ユウくんのばか! えっち!」
「いやいやいやいや」
完全にいわれなき誹謗である。しかし、下手に言い返したところで、火に油を注ぐことになるのは明らかだ。結果として、最善な選択は適当にはぐらかすというその一択しかなかった。
ユリは少し強めにユウの前にカツサンドを置き、自身は当然のように姫野の隣へと座った。当然、自身の前にはオレンジジュースとバニラアイスを置いている。
「あら、あなたが私の隣に来るなんて珍しい……甘えたい気分なのかしら?」
「ちち、違うからっ!」
何が違うのかはよくわからないが、ユウにとっても都合がいいことには変わりない。ジョギングの時はグラサンマスクジャージという完全不審者スタイルだったからよかったが、さすがに今の状態のユリがすぐ隣にいるのはいろいろと落ち着かない。全力を出さないと、顔に、態度に出てしまいかねない。
「レッスンはちゃんとやったの? いつもより少し早いけれど」
「やったもんっ! 姫野さんがユウくんと話すって言うから、ちょっぱやで、でもしっかりと!」
「何をそんなに慌てていたのかしら……話されたら困るようなことでもあるのかしら?」
「あることないこと言われそうだから早く来たの! それに……どう考えても、これって一週間の報告でしょ? その、自分のいないところで自分のことをいろいろ言われるのって落ち着かないっていうか……」
「そうか?」
「ユウくん。個人面談」
「……そりゃ落ち着かねえな」
中学の時も、高校の時も。ユウの周りのクラスメイトは個人面談や三者面談の季節が来るたびに頭を抱えていた。何を言われるかわかったものじゃない、そもそも親が学校に来ること自体が恥ずかしくてたまらない……など、まるでこの世の終わりが到来するかのように嘆いているものがほとんどだったのだ。
ユリからしてみれば、まさにそれに等しいものがあるのだろう。実際、こうして腰を落ち着けた今も、妙に顔を赤らめ、そしてそわそわして姫野の顔色を窺っていた。
「へ、変なこと言ったり……言われたり、してないよね……?」
「概ね予想通り、上手くやってるって話を聞いただけよ。あと……あなたがユウくんの活躍に不満を漏らしているって聞いて、そこは叱らなきゃって思ってたけど」
「思ってたけど?」
「それについては、ユウくんが問題だったから別にいいわ」
「ひっでえなおい……」
「あと、ユウくんが猫舌で苦いのがダメって話も」
「え……? でも、そのコーヒーってエスプレッソだよ?」
「エスプレッソ、コーヒー牛乳か何かだと思っていたみたい」
「ユウくん……」
微笑ましい子供を見る母親のような慈愛の笑みを浮かべ、ユリはそっと自らのオレンジジュースをユウの前に置いた。ご丁寧にも、ストローまでつけてくれている。
「交換しても、いいんだよ?」
「うっせ」
小さなカップをがしっと掴み、ユウはエスプレッソを一気飲みした。苦く、ぬるくなったそれが舌の上を通り、喉を抜けていく。
ユウだって男だ。それなりにプライドってものがある。飲めなかったからといって交換してもらうだなんて、そんな子供みたいな真似ができるはずもない。
「う……」
苦い。なんというか、舌がそれを受け付けない。ほんのわずかに酸味が混じっているのも気にかかる。味覚というよりかは舌の痛覚を刺激されているようで、飲み物を飲んだという気がしない。いったいどうして大人はこんなものを好んで飲むのか、ユウは本気でわからない。
あまりにも苦くて我慢できなかったので、ユウは出来立てほやほやのカツサンドにかじりついた。
「ユウくん……まさか、こんな弱点があっただなんてねぇ?」
「言っとくけど、飲めないわけじゃないからな。好んで選ばないってだけで」
「うんうん、わかってるって! ……そっかぁ、苦くて熱いのが苦手なんだあ!」
「おい……変なこととか考えてないだろうな?」
「べっつにー? ただ、ちょーっとおすすめのお店にユウくんを連れて行きたくなっただけだよー?」
「この野郎……!」
「……心配すること、なかったかしら?」
軽口をたたきあうユウとユリを見て、姫野はぽつりとそんなことをつぶやく。少々仲が良すぎると思えなくもないが、このくらいなら十分あり得る範囲だろう。むしろ、いきなりこのノリを学校に持ち込ませないというユウの判断こそが、正しいように思えてきてしまう。
「……気心の知れた相手って、大事だものね」
きゃあきゃあわめきながらおやつを食べる二人を見て、姫野はぬるくなったカプチーノを飲み干した。




