13 『待たせたな』:明かされた力 【Idle×Crossing】
ユウは悩んでいた。とってもとっても悩んでいた。
ユーリのライブは終わり、今まさに目の前──と言うか、見下ろす先で交流会が行われている。交流会の始まりを告げる放送が入った瞬間には砂糖の山に群がるアリの様にファンが集まったため、ユウが密かに危惧していたような閑古鳥が鳴くような事態にはなっていない……というか、これ以上は無いってくらいの大盛況であった。
「……アレに交じるの? 俺が?」
ユーリの歌声は、今もユウの耳に残っている。聴き慣れたユイの甘い声が、聴き慣れぬアイドルとしてのユーリの旋律で届き、少なくない動揺を受けたのは事実だ。
だから、たった一言──『すっげぇよかった』の一言だけは、伝えてもいいと思っていた。否、しっかりこの口から伝えたいと思っていた。
そのためなら、ガラガラ閑古鳥で寒風が吹く中堂々と、胸を張ってユイに会いに行くことも全然苦にはならなかった。
実際この会場に着くまでは、ユウはそのことを覚悟していた。ほとんど観客がいない中、ぽつねんと寂しそうに佇むユイの元へ行き、『悪くなかったぞ』……なんて、照れ隠ししながら元気づけるつもりであったのだ。
──きゃああ!
──うぉぉぉ!
「……すげーな」
ところが、現実はどうだ。
ユイの──ユーリの周りには、たくさんのファンがいる。その大半がミーハーそうないかにもそれらしい人種とは言え、みんながみんな、ユーリとの交流を心の底から楽しみにしているのは疑いようがない。中には歓喜のあまり泣いているものもいて、正直ユウにはまるで理解が出来なかったりする。
「……マジでやるの? 俺が?」
そんな人たちに交じり、今更どのツラ下げて握手なんて出来るというのだろう。
もうすでに、ユイとは握手なんて何回もしている。握手以上のことだってしている。さらにさらに、この場で口にしたが最後、会場にいる全てのファンから袋叩きにされてもおかしくないことをしたし、された。
そんな自分が特別チケットなんてたいそうなものを使って、しれっとあの中に交じる。
「……いや。いやいやいや……」
チンピラ三人に突っかかっていくことは簡単にできるくせに、ユウにはたったそれだけのことがどうしてもできそうになかった。
別に、行きたくないわけじゃあないのだ。これがほどほどの人入りだったら、ユウは別に躊躇うことなく特別チケットを使っていたことだろうし、もっとこう、一般人(?)でも参加しやすい空気だったら、やっぱり特に何も気にすることなく、あの列に並んでいたはずである。
せっかくユイが特別チケットをくれたのだ。使ってやらないのは義理人情に反する……だなんて、ユウは自分の頭の中だけで、誰に対してやっているのか、結局何をしたいのかまるで分らない言い訳を繰り返す。
──キャーッ!?
そんなもやもやしたユウの思考を、絹を裂くような悲鳴が断ち切った。
「なんだ、ありゃ……?」
佃煮にしてなお余りそうなくらいの人の海に、ぽっかりと大きな穴が開いている。その中心にはなにやら尋常じゃない様子の男がいて、内容こそ聞こえないものの、ブツブツと何事かを呟いているのが見て取れた。
その視線の先には──女の子を抱きしめた、ユイがいた。
──!
「あンのクソ野郎……!」
一段と大きく上がった悲鳴が、ユウのつぶやきをかき消した。
その男は──どこからか、鉞を取り出したのだ。
ユウがまばたきを二回するくらいの間には、パニックになった人々が逃げ惑い、転び、倒され、もつれあっていく。群衆が文字通り人の波となって、悪意の中心地から逃れようと蠢いていく。
「クソっ!」
いくら自分でも、今から下に降りてあの人混みを突っ切るのは無理だ──と、ユウは判断した。一人一人ぶん殴っていけばいつかは強行突破できるだろうが、そのころにはきっと無残なアイドルの死体が出来上がっているだろう。
とにもかくにも、時間が無さすぎる。そして何がどうしてそうなったのか──頼りになるはずであろう警備員は、人の波に飲まれてかなり離れた位置にいた。
一切の誇張無く、あそこにはユイと女の子と、クソが一匹しかいない。
「舐めんなよコラァ……!」
ユウの決断は、早かった。
【危険ですので、手すりから身を乗り出さないでください】──そんな注意書きをガン無視し、手すりに足をかけ、その上に立つ。
「おい、キミ……!? 何を……!?」
「ちょっくらヒーローに……いいや、【悪い子】になってくる」
四階の立見席。吹き抜けのようになったそこ。爽やかな風がユウを撫でている。
頭上には青い空。
足元には──人の海。
あとほんの少し重心を前に持っていったら、ユウの体は十数メートル下の地面へと叩きつけられるだろう。
「な、なにやってんだよ! 早まるなよ!」
「危ない、落ちるぞ!」
「落ちるんじゃなくて、飛び込むんだよ」
尋常じゃない力を足に込め、ユウは中空へと飛び込んだ。
──きゃああああ!
悲鳴が上がる。
自分が飛び込んだからか──それとも、男がユイに鉞を振るったからか。
風を切り裂くごうごうとした音を耳に受けながら、ユウはぎりっと歯を食いしばる。
ここからユイの元まで、高さにして十数メートル、距離にしたら三十メートルはあると言っていい。階段を下りる手間は省けるが、結局このままじゃユイの元まで行けないし、受け身を取るのにも少々不安が残る速度が出てしまっている。
ならば。
「ふんッ!」
会場を飾り付けていた──大きな横断幕。もしかしたら懸垂幕なのかもしれないし、豪華な三角連続旗かもしれない……あるいはもっとふさわしい名前が別にあるのかもしれないが、ともかくユウは薄く、煌びやかな装飾が施されたそいつを驚異的な握力でむんずと掴んだ。
シィィ、と何かが痛烈に擦れる音がして、ユウの手のひらが熱くなる。
べきべき、めりめりと嫌な音がして、掴んだそれが根元からはがれ始めた。
「っ!」
がくん、と体に大きな力がかかるのを感じた瞬間、ユウの体は中空で一瞬止まった。傍から見れば、ダイナミックな飛び降り自殺をした人間が、たまたま吹き抜けに使われていた飾りにひっかかって一命をとりとめた──なんて、そんな風景に見えたかもしれない。
だけど、ユウはここで止まるわけにはいかなかった。
「ざっけんな!」
全身の筋肉のばねをフル動員し、サーカスの人間もびっくりするような勢いでユウは次の飾りへと飛び移る。落下の勢いと飛び移った勢いが相乗していた割には動きは軽やかで、その運動量は余すことなくミリオン突破を祝福する文言の書かれた垂れ幕に伝わった。
物理法則の当然の帰結として、それはゆったりと、されど大きな振り子運動を行っていく。
「オラァ!」
高さ方向の速度を殺し、横方向の距離を稼げたところ──より正確に言えば、その飾りがユウの体重を支えられる限界すれすれまで来たところで、ユウはジャングルの野生児の如き身軽さで次の飾りに飛び移った。あるいは、外国の摩天楼を縦横無尽に駆ける蜘蛛男と言った方が伝わりやすいかもしれない。
もちろん、強い風と、手のひらの熱さを感じているユウにはそれなりに長く思えたが、ここまでわずかほんの数秒のことである。
「──!」
とうとうユウは、その場所へとたどり着いた。
もう用済みだと言わんばかりにそれからパッと手を離し、遠心力をそのままに飛び込むようにして床を転がる。手、腕、肩、背中、腰──と、転がりながら勢いを伝え、受け身を取ることも忘れない。
受け身なんて、もう何千回とやったことだ。それこそ、目をつぶっていても、あくびをしながらも──無意識のうちにだって出来ることである。
「──っ!」
転がりながら飛び起きて、声にならない声をあげる。
男が鉞を振り回しながら、ユイに突っ込むところが見えた。
──間に合え!
駆ける。
いや、跳んだ。
無駄な動きは出来ないとばかりに、ユウはその驚異的な脚力を持って、男とユイの間に割り込んだ。
そして。
「……っ!」
ぽたり、と自分の足元に赤いものが滴る。
「──待たせたな」
ユウは、心底ほっとしながら、ユイに言葉をかけることが出来た。
▲▽▲▽▲▽▲▽
ユーリは、悲鳴を飲み込むことしかできなかった。
今、自分の目の前にはユウがいる。会いたくて会いたくてたまらなかった──本当にこの会場に来ているかどうかも怪しかった、自分にとっていろんな意味で特別な存在であるユウだ。
そんなユウが、イカれた男と自分の間に立っている。
そして、その足元には赤い何かが滴り落ちていた。
「ユウ、くん……っ!」
「おーう、ケガはないみたいだな」
正面を見据えたまま、ユウは背中で語ってくれた。
いつぞやと似たようなシチュエーション。されど、あの時とは決定的に違うところがある。
「それ、血、じゃ……!」
「血だなぁ。見るからに真っ赤っか。健康な証拠だ」
腹を切り裂かれたとは思えないくらいに、軽い声。ユウが呑気に話している間にも、ぽたぽた、ぽたぽたとその赤色は増えていき、アイドルの汗と涙が染み込んだステージを深紅に染め上げていく。
「なんで、どうして……!」
「──話はあとだ」
泣き縋ろうとしたユイを押さえつけるような、物理的圧迫感を持った低い声。
それはユーリが……いや、ユイが今まで一度たりとも見たことが無い、ユウのもう一つの顔だった。
「誰だよお前ッ! ユーリちゃんとの新世界トラベルを邪魔するんじゃあないぞッ!」
もはや完全に正気を失っている男が、血の滴る鉞を振り回してユウに襲い掛かる。どうやら標的をユーリからユウに変えたらしい。それほどまでに邪魔されたことに腹を立てたのか、単純に近くにいるやつからやっちまおうと思ったのか。
いずれにせよ、それは純然たる事実であり。
何よりとして──最も選んではいけない選択であった。
「ユイ」
「は、はいっ!」
「──その子の目と耳、ふさいどけ」
訳も分からぬまま、ユーリは言われたとおりに、震える女の子を抱きしめるようにして目と耳をふさいだ。
男が大ぶりに得物を振りかぶり──がん、と大きな音がする。
「ひょへ?」
「──え?」
次の瞬間に聞こえた、戸惑いの声。
閃く銀の光は見えなくなっていて、滴る赤も増えていない。
「よぉ、クソ野郎……」
ユウは、純然たる体捌きのみで──それも最小限の動きだ──で、男の一撃を躱していた。
いや、よく見れば、躱しているわけじゃあない。
しっかり躱せる位置取りにいるのに、あえてわざわざその鉞を左手で受け止めていた。
もちろん、素手である。
「好きじゃあないが、あえて名乗ってやる。──こいつも、教えてくれたことだしな」
たまたま偶然、それがしっかりばっちり見えてしまったのは、果たしてユーリにとって良いことなのか悪いことなのか。
「覚悟、出来てないとは言わせねェぞ」
後にユーリは、『女の子の目と耳をふさいでおけ』というユウの指示がいかに的確であったことを実感することになる。
「夢現流無手派十三代目──【咲島流】師範代、咲島ユウ」
少なくとも、子供に見せられる光景じゃなかったのだけは、確かだった。
「咲島流【流】の型──凪渦」
「ぎっ──!?」
ユーリの目の前で、鉞を掴んでいた男の右手首が折れた。万力のような力で刃を握っていたユウの左手が、ヘビのような素早さで男の手首につかみかかったからだ。
握り砕かれた本人も、外野で見ていたユーリでさえもその動きがまるでわらなかった──気付いた瞬間には手首が変な方向に向いていたから、例え鉞を握っていなくても、避けようがなかったかもしれない。
そして男が悲鳴を上げる間もなく、ユウは無言で、流れるような動作で男の喉を突いていた。
右の拳による、何の変哲もないただの突きだ。少なくとも、ユーリにはそう見えた。
もちろん、喰らった方はたまったものじゃない。悲鳴をあげようとしたまさにその瞬間に、喉を潰されたのだ。悲鳴をあげたくともあげられないし、息をしたくてもできない。あまりの早業に、何が起こったのかもわかっていないことだろう。
からん、と鉞が床に落ちる。
当然ながら、ユウが止まるはずもなかった。
「正当防衛ッ!」
左手は折れた右手を握ったまま、フリーの右手で胸倉につかみかかり。
猿のような素早さで懐に潜りこみ、獅子の如き気迫を身に纏う。
次の瞬間──男の天地が逆転していた。
「──ッ!!」
「わっひゃいっ!?」
あまり聞きたくない、耳障りの悪すぎる音。ゴリゴリ、バキバキと何かが壊れる音に、陸にあげられた魚が必死にのたうつような音。かすかに聞こえるのは、穴の開いた風船から空気が漏れるような、そんな音。
それらが何の音なのか──何に起因して発生した音なのか、ユーリはなるべく考えないようにした。
「おう、もういいぞ」
「ユウ、くん」
ここでようやく、ユウはユーリのことを……ユイのことを見てくれた。
先程とは打って変わった、いつもと同じちょっとぶっきらぼうながらも優しげな声音。怖いことなんて何もなかった──そう言って安心させるかのように、不器用に笑っている。
その手の平は見るも無残に赤く滲み、切れたシャツの下から覗くガチガチの腹筋には、赤い筋が入っていた。
「ユウ、くん……」
「安心しろ。右手は砕いたからもう得物は握れない。左肩は外したからこっちも使えない。足は無事だが……肋骨は不幸にも折れたし、喉も潰れたからしばらくはまともに呼吸できない。とても動ける状態じゃない」
「う、う……」
「う?」
「うわぁぁぁぁん!」
「うぉっ!?」
ユーリは泣いた。思いっきり泣いた。子供のように泣いた。
あまりにもわんわんと泣くものだから、ユーリの腕の中にいた子供がぽかんとしているくらいだ。
「お前マジどうしたんだよ!? なんでこのタイミングで泣くんだよ!?」
「だ、だ、だってぇ……! ユウ、くん、血が……!」
「よく見ろ! 腹も手も浅く切れてるだけ! ホントの重傷だったらもっとヤバいくらいにドバドバ出てる!」
「でも、でも……っ!」
「あのなあ! 俺が拳を振るった時間と、あいつが鉞を振るった時間……どっちが多いと思う? 文字通り根本から鍛え方が違うんだ。素人に遅れは取らないって」
「でも、血が……!」
「……血の量とケガの大きさは関係ないからな? 手の傷は縄で擦った傷と火傷がほとんどだし、腹のはマジで軽く切れているだけなんだ」
「……ホント?」
「ああ。……だいたいお前、俺の腹触ったことあるだろうが。あんなナマクラだったら、まな板にされても痛くもかゆくもない」
そう言われても、ユーリに納得できるはずがない。目の前にいるユウは自分をかばったために確かに鉞で切り付けられ、そしてケガをしているのだ。たとえ言っていることが本当だったとしても、何もしないわけにはいかなかった。
「でも、せめて止血くらい……!」
自分で言ってから、気付く。
包帯はおろか、絆創膏の一つだって手元にはない。
だってユーリは、先程まで握手会をしていたのだから。救急箱持参で握手会を行うアイドルなんて、この世のどこにいるというのだろう。
「──あ!」
「お?」
運がいいのか悪いのか、ユーリは代わりになりそうなものを見つけた。
「おい……いいのか?」
「いいの!」
自らの衣装についていた、白いリボン。それをユーリはブチッと手で引きちぎる。ヒラヒラ具合を活かすためだろうか、もともとそこまで強く固定されていなかったからこそできる芸当だった。
「ユウくん、手ぇだして」
「……おう」
水で流すことも出来なければ、消毒液の一つ、赤チンの一つもない。
だけれども、ほったからしにしているよりかはマシだろう──だなんて、そんなことを思いながら、ユーリは──ユイは、ユウの手に包帯代わりのリボンを巻いていく。
「……」
大きくて大きくて、力強い手だった。骨は太くて節くれだっていて、よくよく見れば無数の古傷もある。浮き出た太い血管は強く脈だっていて、逞しい手というよりも、暴力的な手だという言葉の方がしっくりくる。
だけれども、それはユーリが今まで見てきた手の中で、一番温かい手だった。暖かくて、優しさに溢れている手だった。その手に触れているだけで、何者からも護られているような安心感が得られる──そんな、優しくて大きな手だった。
「おっきな手だね……あ」
真っ白だったはずのリボンに、赤いシミがじわじわと広がっていく。
「……うう」
「や、充分だって。俺にはこれでも贅沢過ぎるぜ。……衣装、お高いんじゃないの?」
「すでにちょっとほつれてるし、この際気にしない。……というか、本当に大丈夫なの?」
「別の意味でヤバいかもしれない」
どうして、とユーリが口を開く前に、ユウはリボンの巻かれた右手で後ろを指した。
──道を空けてください!
──落ち着いてください! 押さないで!
──逃げろおおおお!
──終わってる! もう終わってるから大丈夫!
──ユーリちゃん無事なの! ねえそこんところどうなの!?
逃げ惑う群衆に逆らうように、警察か警備員か、ともかくそれっぽい人たちがこっちに向かってきている。一方でファンの人たちも落ち着きを取り戻しつつあるのか、冷静にこちらの状況をスマホで撮ったりしている者がいる。
たぶん、あと数分の内にはすっかり落ち着き──そして、ユウもユーリもいろんな人にいろんな意味で囲まれることになるだろう。
「お前は慣れているだろうが、俺はああいうのに囲われるのに慣れていない。それに、やらかしすぎた」
「え……でも、正当防衛って……」
「……あっちの方」
「あ」
吹き抜けにあった飾りが軒並み酷いことになっていた。ユウの握力と運動量に耐え切れなかったのだろうか、ズタズタに引き裂かれてしまっているものもある。それを支えていた支柱なんかも、曲がったり倒れたり──ありていに言って、台風が過ぎ去ったかのような有様になっていた。
「……待って、ユウくんってば、どこから?」
「あー……また今度、な?」
──また今度。
ユウはユイに背を向けた。きょろきょろとあたりを見回し、人の壁の薄そうなところを探している。
きっとその驚異的な身体能力を持って、囲まれる前に強行突破するのだろう。警察やマスコミ──そんな一切合切から逃げきって、アイドルを守ったという事実すらどこかにやって、平穏穏やかな日常を過ごすつもりなのだろう。
実際、ユウならそれが出来る。ユウの実力なら、それは夢でも何でもない。
でも、ユーリには出来ない。だってユーリはアイドルなのだから。
「待って」
ユウが本気になれば、この状況であっても止められない……けれど、ユイはユウのシャツの端を掴むことが出来た。
誰にも止められないはずのユウを、止めて見せたのだ。
「あん? どうした?」
「お願い、最後に……」
たった一つの、小さくて大きなワガママ。
今までのことを確かめるために。これからのことを確かめるために。
──そして、このワガママが本来の道を大きく変えてしまうから。
「……抱きしめて」
怖くて怖くて、仕方なかった。本気で殺意をぶつけられて、心の底から震えた。
──そんな悲劇のアイドルなのだから。ヒーローに、抱きしめられて慰めてもらうのは、当たり前のこと。
「ぎゅうって……強く、優しく。とっても、怖かったんだからぁ……!」
怖くて怖くて、仕方なかった。本気で殺意をぶつけられて、心の底から震えた。
そんな時に、彼は助けに来てくれた。その身を挺して、自分を守ってくれた。
どんな自分であっても、彼は変わらなかった。上っ面じゃなくて、「私」を見てくれた。そんな彼の温かさに、その手の優しさに──それに抱く自分の気持ちに気付いてしまった。
──そんな一人の女の子なのだから。好きな人に抱きしめられたいと思うのは、当たり前のこと。
「……汚れるぞ?」
「今更、だもん」
ユーリの全身が、形容できない安心感に包まれる。
ユイの全身が、形容できない甘い何かで包まれる。
それが彼女にとっての、イベントのクライマックスとなった。
▲▽▲▽▲▽▲▽
本来出会うはずのなかった、アイドルと男子高校生。
本来はそれ以上変わるはずがなかった、ジョギング仲間という関係。
幸か不幸か、運命か偶然か。
互いに隠していた一面をさらけ出したあの瞬間。
ユウとユーリの道ははっきりと交わりだし──そして、大きく変わっていくことになった。
Idle:怠惰
Crossing:交差する




