1 始まりの朝 【Idol×Crossing】
『私ね……ユーリなの』
『……ユーリ? なにそれ?』
表情を固まらせる少女と、不思議そうに首をかしげる少年。
意を決して自らの正体を明かした超大型新人アイドルは、しばらく思考停止に陥った。
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都内某所。まだ夜が明けたばかりの、早朝と言っていい時間。街灯の明かりが消え初め、ちらほらとご老人の方々が散歩へと繰り出す姿が確認できる頃。とある運動公園の入り口に、運動着姿の少年の姿があった。
暦上は春とはいえ、まだまだ朝の寒さはしっかり残っている。だというのに、少年はとても涼しそうな──ありていに言えばタンクトップのそれに近い運動着を纏っており、この気温で活動するにしては聊か不適切な気がしなくもない装いであった。
「……」
軽く準備運動をしてから少年は走り出す。腰に付けた大きめのウェストポーチがリズミカルに揺れ、中に入った水筒がちゃぷちゃぷと音を立てた。
少年は息を乱す様子もなく、朝の空気を切り裂いていく。のんびりと歩く老人を抜かし、ラフな格好で犬の散歩をするおばさんを抜かし、上り坂を超えて。あっという間に一周5kmの公園を半周し、それでなお、走り出した当初と全く変わらないペースを維持していた。
朝のジョギングは、この少年の日課だった。とはいえ、この少年は別に運動部でも何でもないし、殊更に運動熱心と言うわけでもない。シルエットだけを見るならば比較的細くしゅっとしていて運動をしているようには見えず、身長も特筆するほど高いというわけではない。
他とちょっと違うところと言えば、手の甲から腕にかけて、妙に大きく血管が浮き出ていることくらいだろうか。
ペースを維持しながら少年は走っていく。初心者用のコースからちょっと外れ、あまり人気のない上級者向けのコースへと進路を変えた。先程まではほぼ平坦だった道にそれなりの起伏が現れ始め、アップダウンが明らかに激しくなってくる。
健康維持のために走るランナーや初心者には厳しいからか、この道を通る人間は多くない。よく言えば緑豊か──悪く言えば樹々が鬱蒼としていることもあり、普通の散歩をする人間でさえもあまりここには近づかない。
ましてや早朝のこの時間。わざわざ薄暗いここを通る人間なんて、よほど体力に自信があるか、よほど物好きか、あるいはこの少年──ユウのように、人がいないことを好む人間かのどれかだろう。
ユウはこの、朝の空気の中を走るのがほんのちょっとだけ好きだった。人の気配のまるでない、涼やかで透明な空気が好きだった。火照ってきた体が冷たい空気を切り裂く快感は何物にも代えがたく、その間だけは嫌なことを何もかも忘れることができるからだ。
「……あ?」
だからこそ、ユウは気づいた。
お気に入りのこのコースに、いつもと違う異分子が混じっていることに。
「……めてくださいっ!」
ユウの前方。距離にして50m程度先のところで何やら揉めている連中がいる。
一人は見たところユウと同じ年代──要は高校生くらいだろう。芋臭くてダサいジャージ姿はともかくとして、なぜかサンバイザーにサングラス、おまけにマスクとマフラーという重装備をしているせいで顔がわからない。
が、明るく甘いその声と、中々に素晴らしい曲線を描くボディラインを見れば、それが少女だということは誰にでも簡単にわかる。
ゲームや漫画のキャラなら「そこそこ」の体つきだけど、リアルなら間違いなく学年で一番注目されるレベルだな──などと、ユウは場違いにも、あるいは失礼にもそんな思いを抱く。
「そーいうのいいからさぁ? とりあえず言う通りにしよーぜ?」
「そーそー。お互いイイコト出来るんだから別に良くない?」
「この時間にこんな所にいるってことは、そっちもそういうつもりなんだろ?」
そんな少女を囲んでいるのは、いかにもチンピラといった出で立ちの三人の男だ。一人は入れ墨、一人は鼻と口にピアス、そしてもう一人は非常に前衛的な髪形をしている。集会帰りの暴走族なのだろうか、無駄な装飾が施された改造バイクがその傍らにあった。
「いやっ!?」
「おーおー、暴れなさんな!」
腕をつかまれ、少女は悲鳴を上げた。多勢に無勢、囲まれてしまっては逃げることも敵わない。もとより少女の力じゃこの男たちに太刀打ちできるはずもなく、たとえどんなに抵抗しようと、このままじゃいずれ抑え込まれてしまうことだろう。
もちろん、その先に待っているのは彼らの言う『イイコト』である。少女にとっては、絶対によくないことのはずだ。
「離して……! お、大声出しますよ!?」
「出してみれば? 周りに人いないけど?」
「だいたい、離せって言われて離すバカいないだろ?」
尤もな話だなあ、とユウは思った。そんな文明的な話し合いが通じるなら、彼らはそもそもこんな真似などしない。もっと紳士的に、真っ当な手段で彼女へのアプローチを試みたはずだ。
「い、いい加減に──!」
「うるっせぇぞコラ」
「ひぅ」
ピアスの男がすごむ。先程までと明らかに違う声のトーンに、少女はたちまちのうちにすくみ上った。
ユウからは見えないが、きっとピアスの男はマジもんのイカレの目つきをしているのだろう。真っ当な人間には人をあそこまで怖がらせることはできないことを、ユウはよく知っている。
足腰に力が入らなくなったのか、少女はぺたりと座り込むように膝をつく。その衝撃で彼女が着けていたサングラスが落ちた。
「おっ……! 思っていたよりも可愛いじゃん!」
「すっげぇ大当たり! ……にしても、いつみてもあっくんの眼力はヤバいねー?」
「大人しくしてりゃすぐ終わるよ? だから俺たちと一緒に遊ぼうぜ?」
少女の大きく愛らしい目には涙が溜まっている。もちろん、体はぷるぷると震えていた。その姿がまた、彼らの心に火をつけたのは語るまでもない。
ユウがその場に到着したのは、ちょうど彼らが下卑た笑みを強めたころだった。
「──なぁ、その遊び、俺も混ぜてくれよ」
「……は? 誰オマエ?」
男たちを無視し、ユウは少女の腕を取って半ば無理矢理立ち上がらせる。あまりにも自然な動作だったからか、男たちは唖然としたまま動く事すらできていない。
少女の顔がぱあっと明るく輝いたのは、語るべくもないはずだ。
「……いたか、こんなやつ? いつの間に近づいた?」
「そ、それよりも! おい、お前何様のつもり──!?」
「大声出しても人は来ない。この公園は広いから、人気があるところまでいくのもちょっと時間がかかる。そして警察沙汰にはしたくない。……つまり、目撃者の俺が目撃者じゃ無くなれば、万事丸く収まると思わないか?」
「えっ……」
少女の表情がぴしりと固まった。ユウが放った言葉の意味を理解してしまったのだろう。
「……ん? どういうことだ?」
「黙っててやるから、仲間に入れろってことかなー? ま、どうせみんなでやるんだし、楽に進むなら一人増えるくらいはいいかねー?」
「ほぉ! そのクズっぷり、嫌いじゃないぜ?」
ユウはとてもいい笑顔でサムズアップを入れ墨男に送る。意味が分かっているのかいないのか、彼はなぜだかうぇーい、とユウにハイタッチをしてきた。
ユウに腕をつかまれたまま、少女の顔はみるみる青くなっていく。ここまでくるともう、青と言うよりかは死人のような土気色だ。
「もしかして、助けに来た正義の味方だと思った?」
「えっ……やぁっ……!」
不自然なくらいに大袈裟な笑みをユウは浮かべた。
「残念だったね──俺はどこにでもいる、ただのクズだよ」
そして、ユウは彼女を遠くへと突き飛ばす。それとほぼ同時に振り返り、今しがたハイタッチしたばかりの入れ墨男の脇腹に、体重の乗った肘鉄を食らわせた。
「げ、フぅ……ッ!?」
「わーぉ。まだ意識あるんだ。……いるよな、腹筋だけやたら鍛えるヤツ」
特に躊躇う様子も見せず、ユウは拳を振り上げた。
「や、やめ──!」
「やめろって言われてやめるバカ、いないだろ?」
固く握った拳を振りぬいた。耳を覆いたくなるような音がして、視界の端に白い何かが飛んでいき、入れ墨男は文字通り大の字で倒れ込む。
爽やかな朝には似合わないショッキングな光景を見て、少女は小さな悲鳴を上げた。
「見ての通り、俺はちょっとこいつらと遊びたいだけの悪い人なんだ。だから君にはさっさと逃げてほしい。警察沙汰も困るから、出来れば見なかったことにして、もう二度とここに来ないでくれると嬉しいかな?」
「あ、え……」
「早く行けっ!」
大声で我に返ったのか、少女は足をもつれさせながらも逃げていく。そんな姿を視界の片隅でとらえて、ユウは満足そうな笑みを浮かべた。
「さて、と……」
すっと顔を引き締める。先程の笑みとは正反対の、恐ろしく冷たい炎がその瞳には宿っている。
あまりの事態に思考が追い付いていない二人に向かって、ユウは語りかけた。
「ちょっと軽く汗を流したい気分なんだ……付き合ってくれるよな?」
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ぜえぜえと息を切らして少女は立ち止まる。後ろを振り返ってみるも、誰も追いかけてこないし何も聞こえない。いや、もしかしたら心臓の音がうるさすぎるせいかもしれない──と思ったところで、先程あそこでサングラスを落としてしまったことを思い出した。
「うわわ、いけない……!」
慌ててサンバイザーを深くかぶり直す。幸いにも、まだ人の多いエリアに出てはいなかったからか、その顔を他の人間に見られることはなかった。
「あ、ああ言ってたけど、とりあえず警察だよね……! い、いや、それはダメ、万が一もあるし、まずは姫野さんに……! ううん、それよりも、もっと人の多いところに行かないと……!」
少女は足早に公園広場へと向かっていく。公園広場はいわばジョギングコースや散歩コースの終点、あるいは始点に当たる場所であり、休憩スポットにもなっている。つまりそこまで行けば、散歩客やジョギングする若者が多くいる──すなわち、安全であるはずだ。
「あの人、慣れてそうだったけど大丈夫かな……不良の人、仲間とか呼んでたりしないかな……ん?」
彼女は公園広場へと到着する。
そして、気づいてしまった。
「あら、ユウくん! 今日も日課のジョギング? 春休みだって言うのに、朝から精が出るわねえ!」
「いやあ、もう習慣になったのか、走らないと一日が始まったって気がしないんですよね!」
「……あら? ねえ、その裾のところ……血のシミじゃない!?」
「……あっ、ホントだ。どこかでひっかけたんですかね?」
「おうおう、ユウが怪我するたぁ珍しいな? おじさん、絆創膏持ってるぞ?」
「大丈夫! ほら、俺、体が丈夫な事だけは自慢ですから!」
「またまた、そんなこと言って……おん? マジでどこも怪我してねえな?」
少女の目の前で、先程割り込んできた少年が犬の散歩客と和やかに話している。少女のはるか後方で不良たちと大乱闘をしているはずのあの少年が、笑顔を振りまきながら世間話をしている。
「……えっ? えっ?」
あの背丈にあの容姿。そしてあの声。一瞬だけの会合だったとはいえ、彼女があの少年のことを見間違えるはずもない。息をするのも忘れて観察してみれば、やっぱり助けてくれたあの少年だという認識が強くなる。
「んじゃ、汗も流したいですし、俺はそろそろ行きますね!」
「おう、また明日な!」
少女が混乱している間に、少年は颯爽とかけていく。その後ろ姿に思わず見とれてしまい、彼女の頭からは電話をかけなきゃいけないことなど、すっかり抜け落ちてしまっていた。
Idol:アイドル
Crossing:交差する