一日目 ー夢を見た日ー
けたたましい目覚まし時計の音が、部屋中に鳴り響く朝。星名祈は、今にもまた閉じてしまいそうな目を何とか開こうと努力した。頭の中がボーっとするのも、正直なところどうにかしたかった。こういう時は大抵、二度寝という誘惑が彼女を襲う。
「祈―っ。起きてるのー?」
一階から母親の声が聞こえてきたとき、眠気も誘惑もすべて吹っ飛ぶ。祈は目覚まし時計のアラームを止め、ベッドに再び倒れこまないように一気に体を起こした。そうすると、不思議と目が覚めることを、祈は知っていた。…そして。
「起きてる!」
ダメ押しの大声での返答で、祈の平日のスイッチは入るのだった。
一階のリビングに入った時、香ばしい香りが祈の鼻に入ってきた。どうやら今日の朝ご飯はトーストらしい。
「おはよーお母さん」
「おはよう祈。冷めないうちに食べちゃって」
「あっ!これって前、テレビで言ってた食パンだよね?」
「ああ、それ?昨日そのパン屋さんに試しに行ってみたら売ってたのよ」
「売り切れてなかったんだ。ラッキーだね!」
…パンがレア物だったこと以外は、なんてことのない変わらない朝だった。母親との会話も、温かいごはんも…。だが、ニュースキャスターのある一言で、雰囲気というのは存外壊れてしまうものだった。
『速報です。今朝、新たに衰弱死体が発見されたという通報が五件あったとの情報が入りました。警察は、数日前から発生した、連続衰弱死事件に関連しているとみて調査を進めているとのことです…』
「うわ…またこれ?」
「怖いわね…。最近こんなのばっかりで」
「なんか、また人数増えてない?」
「これ原因分かってるのかしら…?」
不穏な空気が、リビングを包んでいく。祈は嫌な空気を断ち切るために、強引に話の内容を変えようとした。
「あ、そうだ。明日から短期で留学生の人が来るの、覚えてるよね?」
「覚えてるわよ。留学生の受け入れ先、ここなんだから」
「今日、帰りちょっと遅くなるかも。学校でも準備とか色々しなくちゃいけないから」
「分かった。暗くなるから気を付けてよ?」
なんとか状況を変えられたことに、祈は内心ホッとしていたし、ふと気づけば、朝ご飯も食べ終わっていた。空が曇り模様だったのが若干の不安要素だったが、あのニュースに比べれば何とも思わなかった。
曇天の下、祈はいつもと変わらない速さでアーケードを歩いていく。この時間帯は、通勤通学する人々でそれなりに混雑している。時々人にぶつかりそうにはなるが、こんなの何も変わらない日常だ。そして、しばらく真っ直ぐ進んでいくと、見慣れた顔が見えてくる。
「おはよー!」
「おはよう祈!」
「おはようございます。祈さん」
快活に返したのは朝日奈々子、丁寧に返したのは叶優香という少女だ。二人は祈の、大切な友人である。祈が二人の元に着くと、まず初めに奈々子が口を開いた。
「なーんか今日も学校っていうのダルいよなー」
「奈々子ちゃん、どしたの急に」
「いやね、2人はともかくさ、私は大学とか行くつもりないし、勉強したって意味あんのかなって」
「うーん…私のお母さんは、勉強はしといた方がいいって言ってたけどな」
「そんな感じなのかねー」
「祈さんの言う通りだと思いますよ。それに私たちは二年生ですから、考える時間はまだたくさんありますよ」
「入学して一週間経ったくらいの時に進路面談あったでしょ?あれさ…マジでダルかったんだけど。何答えろっていうんだよ!こっちはなんにも決まってないのに」
「まあまあ。…そうだ、夏休みにオープンキャンパスとかあるから、そういうの行ってみたら?参考にはなると思うよ」
「大学と言えば…祈さんは確か、国際関連の学部に入りたいと言ってましたよね。行きたい分野がもう決まっているのは凄いですよ」
「祈は昔から英語得意だからねー。だから留学生の受け入れもしたの?」
「いや…あれは、先生から声かけられたんだ。受け入れしてみないかって。親にも相談して大丈夫だって言われたし、何事も経験だって思ったんだ」
「うわあ。やっぱりさ、祈って考え方が大人だな。私そんな風に思えないよ」
「私も…正直勇気が要りますね。祈さんは凄いです」
いつも通りの、何気ない会話だ。こうして話をしながら三人は歩みを進めていく。祈は、こんな何気ないひと時が好きだった。「ただいま」と言ってくれる家族がいて、一緒に話をしたりお昼ご飯を食べたりする友達がいて、そんな些細な事でも、彼女は幸せだった。
考えているうちに、三人が通う高校の入り口が見えてきた。これも、日常だ。何てことのない日常…そのはずなのだ。
教室に入ってから数十分の時が経った頃。祈がそれに気づいたのは、奈々子の何気ない一言だった。
「ねえ、なんかまた減ってない?」
「減っているとは何がですか?」
「教室にいる人。昨日より人数が減ってる気がすんだけど」
「言われてみれば…確かに。何でだろ?」
奈々子が言った通り、ここの所教室の様子がおかしかった。見てわかってしまう程に人数が少ないのだ。祈は小学生の頃、インフルエンザが流行った時期の教室がガラガラになったことを思い出していたが…それにしてもおかしいのだ。流行り病はもう終息しているというのに、一体何故?
「…やっぱりアレかな?噂になってるやつ」
「噂って何?奈々子ちゃん」
奈々子は「友達から聞いたんだけど」と前置きしてから話し始めた。
「一度眠ると二度と目が覚めなくなって、眠り続けると最悪そのまま死んじゃうっていう話」
「し、死ぬって…」
「眠ったまま…ですか?」
祈と優香はきょとんとした表情をしていたが、優香がハッとした後続けた。
「でもそれは…所謂、疾患とか老衰が原因とかじゃないんですか?そういう話は時々聞きますよ」
「いやそれがさ、どうも若い人も死んでるみたいって話だよ?今日のニュースでも、それっぽい事言ってたし」
「で、でも…もし本当だったら…」
「まあ、どうせ噂だしさ、私も本気で信じてるって訳じゃあないよ?もし本当だったら、優香の言ってた事が原因なんじゃない?」
「そ、そうだよね…」
その時、朝のホームルームの時間を告げるチャイムが鳴った。話は微妙な空気で終わってしまった。教室に担任の先生が入ってきたが…顔色が少し悪くなっているような気がした。そして…その口から出たのは、あの現象のことだった。祈は、この時から何か感じていた。得体の知れない何かを、だ。
「やっぱり、あの話って本当なのかな」
「眠ると死んじゃうってやつ?勘弁してよ…ホント」
「てかさ、先輩もそれで学校来てない人いるんでしょ?」
昼休みの時間、祈たちはいつも通り三人揃ってお昼ご飯を食べていた。その時だ、周りからあの奇妙な噂の話が聞こえてきたのは。それを聞いて祈は思わず、不安な声をこぼした。
「怖いな…こういうの」
「祈、本気で信じてるの?」
「信じてるっていうか、これだけ話が広まってると本当な気がして…」
「確かに、祈さんの言う事も一理ありますね。周りの人たちもその話題で持ちきりですし」
「いやいや、だからある訳ないでしょ。どうせそういうのは心弱い人の妄想か何かなんだからさ」
「うわあ…奈々子ちゃんシビアだなあ」
「気にしてたってしょうがないでしょ…ってあれ?」
話の途中、奈々子が何かに気付いたので祈と優香は奈々子の目線の先を見た。そこには、見慣れた姿があった。
「あ、夢原先生」
「あら、星名さん。ちょうど良かった。お昼ご飯食べ終わったら、私の所に来てくれる?明日の打ち合わせするから、よろしくね」
「はい、分かりました」
そう言うと、英語教師の夢原愛はその場を去っていった。
「もしかして、留学生のこと?」
「多分そうかな」
「大変ですね…部活の両立とかは大丈夫なんですか?」
「先輩にも話してあるから、何とかなるかな…。ごめん、私お先に失礼するね」
祈がそう言うと、「行ってらっしゃーい」「頑張ってください」と二人は返した。弁当箱を片付け、歯を磨いて、祈は早歩きで教務室へと向かった。まあ、この作業は、昼休みの数十分で片付くようなものではなかったが…それでもやらないよりはマシだろうと、祈は考えていた。
時間は放課後まで飛ぶ。案の定、打ち合わせは昼休みのわずかな時間で片付くはずもなく、放課後の時間を使って念入りに行われた。そして祈と夢原先生は、気付けば下校時間ギリギリになるまで作業をしていた。
「よし。これで確認も終わりね。星名さん、長時間お疲れ様」
「あ、ありがとうございます」
「ちょっと緊張してる?」
「えーと、まあ、そんな感じですね。なんか、いざとなると不安になっちゃうというか」
「星名さんなら大丈夫よ。いつも通りにしていればいいんだから」
「とにかく、明日からは頑張ります。ありがとうございました」
祈が一礼して、帰る準備をしようとした矢先、夢原先生は「星名さん」と彼女を名を呼んだ。突然だったので、祈は驚いて「はいっ!?」と素っ頓狂な声を上げてしまった。だが、夢原先生は気にすることなく話を始める。
「星名さんは…叶えたい夢とかってある?」
「…え?」
唐突で、なおかつ不思議なその問いに、祈はポカンとしたまま聞き返してしまった。だが、しばらく真面目に考えてみた後、祈はそれなりの答えを出した。
「あ…あります。将来の夢とか、そんなんじゃないですけど、でも、そうだったらいいのになって思うことはあります」
「それは…例え現実で叶えることは不可能だとしても、願っているの?」
「え、ええまあ」
奇妙な会話だとは、薄々思っていた。そんなこと聞いて一体何をするつもりなのだろう?祈は一気に得体の知れない恐怖を感じた。そして、夢原先生は極めて神妙な面持ちで、祈に告げたのだ。
「星名さん。夢を見るなっていう訳じゃないけど、夢に囚われすぎてはいけないわよ。夢に囚われたら、周りが見えなくなる。周りが見えないと自分本位になって、最後には自分すら見失ってしまう…。これ、覚えておいてね」
祈は、この発言に呆然としてしまったが、妙に納得したような部分があったが故に、「はい…」と小さく答えた。
「…なんてことがあったんだけど」
「ええ、何それ!? 夢原先生って、そんなキャラだっけ…」
「確かに、想像がつかないですね」
祈は学校から出た時、奈々子と優香と会ったので三人で途中まで下校することとなった。ふと、夢原先生のあの言葉についての話をすると、二人から返ってきたのは軽く驚いたような発言だった。
「夢原先生が不思議ちゃんってマジか。ちょっと意外…」
「夢原先生、そんな変わった人でもないんだけどな…私もあんな話されてびっくりしたよ」
「…夢ってことは、やっぱりあの事件と関連しているのでしょうか。それとも…」
「ええ…結局それ?なんかその話もう飽きたんだけど」
夢…やはり、あの噂と関係しているのだろうか?今朝のニュースと何か関わっているのか?まあともかく、奈々子の言う通り、この話は単なる杞憂で終わってほしいと祈は願っていた。
「じゃあ、私ここで…」
「あ、そうだね。じゃあね祈」
「また明日も頑張りましょう」
アーケードの真ん中あたりで、祈たちはそれぞれの帰路へと向かう。暗くなり始めていて、若干の肌寒さも感じてくる。祈は早歩きで家まで向かっていった。
家に帰ってから祈は晩御飯を食べ、その後風呂に入るなど、いつもの行動をとった後にすぐに自分の部屋がある二階へと向かった。
「もう部屋に行くの?」
「留学生の人の部屋の準備しないといけないから。あと課題やってそのまま寝る」
「寝るの遅くならないでね。明日早いんだから」
「うん、分かった。おやすみなさい」
母と顔を合わせた後、祈は階段をかけていった。そして、やるべき事をあらかた片付けた後、祈はベッドの上にぶっ倒れ、掛布団の中に潜り込んだ後、そのまま眠りについた。
祈は、自分が不思議な空間に立っていることに気付いた。ここはどこだろう?あたりを見渡しても真っ暗で何も分からない。
(な…何?ここはどこ?)
暗闇の中を歩くのは抵抗があった。歩いても果てがあるのか分からないし、そもそもここに道があるのかどうかすら怪しい。どうすればいいのか、いよいよ思考がとまりかけてきた…その時。
ようこそ! ようこそ! ワンダーパークへ!ここは皆の夢が叶う不思議の国!
聞き覚えのある声が、この真っ暗な空間に響き渡る。祈は思い出した。ワンダーパークは、街の少し外れにあった遊園地の名前だ。今は、経営不振で潰れてしまい廃墟のようになってしまっているというが…。まあ、それはともかく。
(さっきの放送、遊園地の…だったよね。じゃあここって…)
祈は、恐る恐る一歩分の足を進めた。一歩踏み出した時、この先の道を示すかのように光が点いた。道が分かれば、恐怖心は自然と消えていく。祈は無心で道の先へと進んでいく。考えることをやめてどんどん進んでいく。気づけば祈は走っていた。
(うん…覚えてる。この音楽も知ってる。小さい頃家族でここに来た…)
そして、祈が目にしたのは、あの懐かしい遊園地の入り口だった。ゲートはすんなりと開き、中へと歩を進めた。
クラシック調のゆったりとした音楽流れ、淡い色のイルミネーションが園内の至る所に飾られている。夜という事もあってか、メリーゴーランドや観覧車もきらびやかな光に包まれている。
(やっぱり、きれいだな…)
祈はこの幻想的な場所に、すっかり心奪われていた。小さい頃は夜になると帰らなければいけなかったから、実質この光景を見るのは初めてだったのかもしれない。しばらくしたとき、祈は後ろから何かが近づいてきたのに気付いた。
(あっ、あれって!)
近づいてきたのは着ぐるみだった。動物をモチーフにした可愛らしい外見で、子供たちに風船を渡していたり、一緒に写真撮影をしたりしていたのを祈は思い出した。その時だ、着ぐるみが話しかけてきたのだ。
「こんばんは!」
「え!? あ、こ、こんばんは…?」
「ねえねえ、ワンダーパークは楽しい?」
「た、楽しいよ」
「そうか、良かった! 嬉しいな。もっともっと楽しんでね!」
祈は、着ぐるみがいきなり喋った事には驚いたが、それも何故か自然と受け入れてしまっていた。そう、ここは夢の中だから、何が起きたって当然なのだ…。
(…あれ?)
祈は、ここで気付いた。今まで微かに感じていたはずの違和感に。ここにいてはいけないと、無意識に刻まれていたことに。
『夢に囚われすぎてはいけないわよ』
夢原先生の声が、今はっきりと頭の中で聞こえてきた。そうだ、帰らなければ。現実に帰らなければ…!!
「どうしたの?」
祈の異変に気付いたのか、着ぐるみは不思議そうな口調で祈に話しかけた。祈は、なんと答えれば良いのか迷ったが、彼女なりに言葉を選んだ。
「ごめんね。もう帰らなくちゃいけないの」
「帰るって…どこに?」
「家に帰るの。明日は学校もあるし、早起きしないといけないから」
「学校って、どうしてそんなつまらない所に行くんだい?」
「えっ?」
「つまらないじゃないか。毎日宿題をこなさないといけないし、煩わしい人間関係のたまり場にいなくちゃいけない。先生のご機嫌取りのために将来役に立つかも分からないような知識を小さな頭に入れこまなくちゃいけない。ずっと辛い思いをしなくちゃいけない」
祈は言葉を失っていた。着ぐるみはそんな祈をよそに話を続けていく。
「ねえ、そんな所にいないでさ、ここにずっといようよ。ここなら、辛いことも忘れてずっと楽しい気持ちでいられるよ」
「帰らないといけないの!!」
祈は、自分でも意外に思ってしまう位の大きく荒々しい声を上げた。着ぐるみも、それに驚いて飛びのいていた。
「確かにあなたの言う通り、辛いこともあるよ。でも、私には叶えたい夢があるの」
「君の…夢?」
「そう、私の夢。私の夢はね、学校に行かないと到底叶うもんじゃないの。だから…もう行かないと」
祈がそう言って、走りだそうとした…瞬間、着ぐるみが祈の右腕を掴んだ。
「なっ!?い、痛い!! 離して!!」
「ねえ、行かないでよ。そんな悲しくて苦しくて辛い所。ここにずっといようよ。君は楽しい気持ちになりたくないの?幸せになりたくないの?ねえ、答えてよ。ねえ!!」
幼い子供のわがままとは比にならない位の恐ろしさが、祈に襲い掛かってきた。着ぐるみの焦点の合わない瞳が、祈をずっと見つめている。そして、祈の右腕をミシミシと音が鳴ってしまいそうな位強くがっちりと掴んで離さなかった。
「い、いやあああ!お願い!お願いだから離してえええ!!」
刹那、鋭い光が一閃する。
気が付くと、祈の右腕を掴んでいた着ぐるみの手は、地面に落ちていた。
(え、な、何!?)
祈は戸惑ったが、すぐさま着ぐるみから離れ全速力で来た道を走っていく。
「逃げんなああああああああああああ!!」
着ぐるみが、祈の後を追いかけてくる。それも、ずんぐりとした見た目にそぐわない速さで。祈は焦りを覚えた。
(だめ…このままじゃ追いつかれちゃう…!!)
その時、祈と入れ違いに黒い影が着ぐるみに向かっていった。祈はそれに気付き、足を止めて振り返る。そこに立っていたのは、白と黒のモノトーンの衣装をまとった少女だった。
(え…あの子は…誰?)
祈は訳が分からずポカンとしてしまったが、その呆けた感情もすぐに消える。少女は何もない空間からバズーカを手に取り、着ぐるみに向けてぶっ放したのだ。その後、少女は祈の方へと向き直し、大声で叫ぶ。
「早く走って!! 光が見えたら迷わずそこに飛び込んで!!」
祈は頷いて、再び走りだした。何かが追いかけてくる様子はなく、祈はただただ走り続けた。
(さっきの女の子が、止めてくれているのかな?)
祈は、先ほどの少女の事が気にかかっていた。少なくとも知り合いではないことは確かなのだが。そんな事を考えているうちに、祈が前を見ると眩い光が輝きを放っていた。
(光って…あれの事?あれに飛び込めば戻れるの?こうなったらイチかバチかッ!!)
祈は光へと思いっきり飛び込んだ。光は祈の体をあっという間に吸い込んでいく。
そして…意識は現実へと戻っていった。