オークソンの氷華
今日もまた、彼ら――初恋の騎士は、主人公の少女へ付き従っているかのように傍にいた。
私がいつもの場所でひとり涙を流していたところ、こっそりと、しかし慌てて草陰に飛び込んできた塊に驚いて顔を上げた。
飛び込んできた人物。大きな目を見開いて私を見たのは、主人公のアドリ。
「あっ!」
「……あ」
お互い口を開いたまま硬直していたけど、彼女は身を屈めて頭を下げた。
「ごめんなさい! 人がいると思わなくて!」
本当に慌てて、しばらく匿ってくれと言ってきて私は首を傾げた。何かあったのだろうか。
彼女は私の顔色を窺いながらぽつぽつと事情を話した。この特等席は治外法権だと半ば投げやりにそう言ったら彼女は眉を下げて笑った。
「なんだかすごい人たちに、その、言い寄られて。あたしはその気はないのに周りの目が居た堪れなくて……」
「その中にあなたのいい人はいないのかしら? 誰か一人と懇意になれば周りは黙るのではなくて?」
探るように問うけど彼女は否定した。
「みなさん素敵な人だとは思うけど恋とは違うというか……とにかくあたしは平穏に学園生活を送りたいだけなのに」
私が自分の事を悪役であると認識して初めて『ローザミア』の周辺に疑問を抱いたように。全てが彼女のための世界でも、必ずしもいい環境では無いという事?
所詮主人公でも物語の駒だという事だろうか。
それに。
「最初はたった一人庶民のあたしが物珍しいんだと思ってたけど、ちょっと異常じゃない? それとも貴族様はあれが普通なの?」
貴族である私に申し訳ないような顔をしながらも、はっきりとそう言ったアドリを信じてみたくなった。
「では、私があなたの口となって彼らに注意しましょう」
彼女が事情を話した時から密かに魔道具で録音してあるから、万が一罠であったとしても証拠は残る。
何より、本当に顔色が悪く困っているようなアドリを見ていたら、何とかしなければという責任感が沸いてきた。
貴族から見れば型破りである彼女だけど、私の知る小説のアドリとは何かが違う。言うべき事は言う姿勢はあるけどきちんと相手と場の空気を読むようだ。
そんな彼女が高位貴族たちに迷惑していると面と向かって言えない心情も理解できた。
私の提案に、彼女は申し訳なさそうにしながらもどこか希望に目を瞬かせた。そして、眉を下げて何か言いたげにしばらく私を見ていたが。
「……あの……ローザミア様はどうして……泣いていたの?」
私が虚をつかれたら、アドリは座ったまま頭を下げた。
「ごめんなさい! その、詮索するわけじゃなくて! その……」
これでもかというくらいに慌てて蒼白になったアドリ嬢に私は可笑しくなる。何だ、普通の子じゃないか、と。
『あたしのせいでっ、ごめんなさい、ごめんなさい!』
『ごめん、なさい……あなたの気持ちにはっ……応えられないっ、ひっく』
『ごめんね、ごめんねっ……!』
謝りながら悲しみに慈悲の涙を流す様子がひどく目についた主人公の描写。それは、とても優しくて美しいのかもしれない。
けれど。
『お綺麗』で理想的なヒロイン。そう揶揄する批判の声も確かにあった。恐らく『前世』の私も、今の私もあまり好まないキャラクター性だ。
特に今の私は、自分を卑下して後ろ向きな所が少しだけ似ている。同族嫌悪。
同じように謝罪されているのに全く感じ方が違うのはどうしてだろう。文字で読む印象と、本人を目の前にした印象の違いか。だからかもしれない。
「失恋したの。ただ、それだけ」
そう何でもない事のように笑って振る舞えた。
中庭を出る前に、アドリの代表的な取り巻きたちが姿を現す。酷く焦った様子で私の横にいる彼女を見て揃って駆け寄るその様子が酷く滑稽だった。
アドリが眉を下げて私を見た。その視線に釣られ。
「アドリ……こちらのご令嬢は?」
そう言って私を見たのは第三王子ニルス殿下。小説では後に主人公アドリの恋人になる人だ。
私は軽く礼をして名乗る。
「ローザミアと申します」
学園では姓を名乗る機会はあまり無い。
笑顔を取り繕えなかったのは、殿下の背後に控えている騎士がいるから。間違いであってほしかったのに、やっぱり彼も、アドリを。
男性も髪を伸ばす事が珍しくないこの世界。騎士で初恋の人、ランバートは幼い頃からその赤茶けた短い髪型は変わっていない。
眉毛の上でまるで乱雑に切ったような前髪も、襟足も短くして、それが彼の男らしい顔と体格を引き立てて似合っている。
「友達なの! 女同士内緒の話をしてて……ね、ローザミア様」
アドリの弾んだ声に、殿下の横にいた眼鏡の少年が私を胡乱気に見た。随分失礼な態度だと思う。
「……あの、オークソンの氷華と友人、ですか? 平民である貴方が?」
オークソンの氷華。
これが私の世間での通り名らしい。何があった!? と笑った使用人たちほどではないけれど、失笑物である。
「学園では誰が誰と親交を深めようが自由のはず。一方的でなければ、ね」
私は皮肉を込めて眼鏡の少年――ブロウ・フォリエル宰相子息――を睨み返してみた。彼はアドリへ付き纏っている自覚があるらしく目を泳がせる。
「ひょう、か? ってどういう意味?」
アドリは純粋な疑問らしく私を仰ぎ見た。そう、彼女は私の事を知る由もないのだ。
「くだらない貴族の柵なんてあなたは知らなくてもいいわ」
「……悪口なの?」
少し目を細めて私と彼らを順繰りに見たアドリ。
「さあ、どうかしらね。自分自身では判断付きかねるわ」
「ちなみに、研ぎ澄まされた氷のような美貌。オークソン卿がデビュタントまで絶対に外に出さなかった孤高の華……そんな意味だよ」
ローブを真深く被った魔術師然とした小柄な少年がそう彼女に教えた。
実際はかなり悪意が込められている二つ名だけど。私に気を遣ったのか、アドリに言いたくなかったのかは定かじゃない。
私の事はどうでもいい、と咳払いで場の空気を変えた。
「これ以上アドリさんをつけ回すのはやめて頂戴。彼女には彼女の生活があり交友がある。本当に彼女を想うのなら節度をもって学園生らしい接触をするべきではないかしら」
我ながら正論しかない言い分だと思う。
小説ではこういう事ですらも、彼らは『ローザミア』を詰り悪女だと罵るのだ。あまりにも稚拙で理不尽すぎる。
「あ、あたしはもっと女の子と遊びたいの! 折角学園に通ってるのに友達が一人も出来ないなんて嫌!」
アドリは半分私の背に隠れながらそう言い放つけど、彼らの顔を直接見て話せないようだ。
同じ学園生であっても、やはり相手が相手だから何か咎でも受けるのではという杞憂だろう。
「女子生徒全てがそうだとは言いたくないけれど、あなた達が揃って一人を囲っていたら……その女性がどういう目で見られるのかをよく考えてほしいわ」
こうして彼らを真正面から見て話をしたのは初めてで。
だからこそ、思っていた反応が返ってこないどころか、納得したように頷くのに内心不安を覚える。一体どういう事なのか。
いや、これが普通の反応だけど。
「すまないアドリ。考えが足らなかったようだ。私たちも君が孤立する事は望んでいない」
まだ少年の面影を残す線の細い殿下は、妙にしっとりとした表情で私たちを見た。
私はどうにも腑に落ちない。女の勘とでもいうのか、彼らがこのアドリを囲うほどに熱を上げているようには見えないのだ。
そして彼らを前にした時のアドリの挙動不審な、どこか本気で嫌がっているような目の泳ぎ方が不自然というか――。
彼らの間には何かある。そう直感した。
だからと言って私が何が出来るのかと言われれば、何も出来ないのだが。
「そろそろ昼休みが終わる。皆遅れないよう教室に戻れよ」
そう号令した殿下に従って解散となる。私はここにいる誰とも同じクラスではないから一人で教室に向かう。
廊下を歩き出したその時。
「ローザミア嬢」
背後からの静かな低い声に、肩が跳ねなかったのは幸いだった。
私が戸惑って振り返る前に声の主――騎士のランバートは背後に寄ってくる。十五歳というまだ少年の若さを顔に残しながら、その体格はもう一人前。背中に結構な圧を感じる。彼は、そっと小声で言う。
「これ以上アドリに近づくな」
僅かに焦燥が感じられるその言葉の意味を噛み砕く前に、私は自分で制御する間も無く、鼻の奥がつん、と沁みた。
どうして、なんて問うまでもない。彼は本気でアドリを想って、私が間に入った事を疎んでいるのだ。
すでに無かった筈の希望が砕かれるような感覚、頭が真っ白になって手足が震える。
どうして。どうしてこんなに好きなのに。付き纏っている訳でも、悪意ある態度をしていた訳でもなかったのに。
想われないどころか、やっぱり、嫌われてしまった。
「……ローザミア嬢?」
俯いたまま何も返さない私を訝しんだ彼が僅かに動く気配がして、私は慌てて首を振って足早にその場を去った。
泣いているところを見られたらまた何を言われるか分かったものじゃない。
教室に戻れば案の定赤くなった目を認めた生徒たちが、私を驚いたように気遣わしげに見る。冷やしてきたとはいえまだ少し目立つようだ。
私は誰にも何も言われないように毅然と胸を張って授業を受けた。
それ以来、私は奇妙な昼休みを過ごす事になる。
毎日、昼休みにあの中庭の一角でアドリと落ち合うようになっていた。
何故か彼女を囲っていた男性たちが、日替わりで一人ずつ現れるおまけつきではあるけれど。もちろん騎士ランバートも例外ではない。
彼の日だけは参加しないという選択もあった。でも、アドリと二人きりになんてさせる訳にはいかないし、させたくなかった。
どこまで行っても結局私は彼を諦められないのだ。
日替わりで一人ずつやってくる彼らは知る由もないだろうが、もちろん毎日様子を見ているアドリには私の心情は筒抜けで。
「ねえ、ランバートと何かあったの?」
心配そうに眉を歪めた彼女。今は私たち二人しかいない。
「……どうやら私はあの件で彼にそうとう恨まれたようね」
そうさり気なく言ったつもりだったのに顔に出ていたのだろう。アドリは俯いた。
「あの、勘違いだったらごめんだけど……失恋したって、もしかして……」
すぐに否定すればよかったのに、私は喉に何かが詰まったように咄嗟に声が出なかった。無言は肯定だ。
「あ、あたし、その」
すぐに俯いたから彼女の慌てたような表情は見えない。私はもういい、という意味で首を横に振る。
「いいの。知っていたの、全部。こうなるって。小さい時からずっと好きで……でも絶対に私を見てくれないって知っていた……諦めていたはずなのに……」
どうせ無理だと予防線を張って心を守っていたのに。
そんな俯いた私の頭を包み込むように、アドリが膝立ちになって覆いかぶさって――いえ、これは抱擁しているのだろう。
「あたしが言えた義理じゃないけど! あたしの胸でよかったら貸すから! あんな、あなたを泣かせてばかりの男なんて……忘れてしまえばいいのに……」
そう自分が泣きそうな怒気を含んだ声で言う彼女は、その華奢な腕の何処からそんな力が出るのかというくらいに私を締め付けた。
「ア、アドリさ……っ。ちょっと苦し……」
さすがに離れてくれるよう言おうとした時。
「何をしているのかな?」
朗らかでありながら静かな声という不思議な声。それに身を震わせたのは私だけではなかった。
「あ、殿下、これは」
何故か私を慰めてくれていたアドリの方が狼狽えているようだ。
彼女が離れた時、隠されて見えなかったであろう私の無残な様相を見下ろした殿下は目を見開いた。
私は完全に血の気と涙が引いていくのを感じた。
ただでさえ私を目の敵にしている彼ら。想うアドリに抱擁され慰められ、比較的友好的であった殿下にすらも悪意を抱かれるのではないか、と。
「……お見苦しいものを、失礼しました」
そう言って私は素早く一礼して、有無を言わせず脱兎の如くその場を退散した。