5
目を開けると、真っ暗だった。左右上下に首を動かすけど、暗闇が続くだけで何も見えない。それから自分自身の姿もだ。
どうして私はここにいるんだろう。
冷静に思い出せ。私は何をしていた。
「……」
川を見つけて、ギルベルト・フライクに連絡をした。そして彼が不浄と一緒に来てくれて……。
あ、そうだ。あと少しで水の中へ入れられるって思ったけど、体力消耗の激しかったギルベルト・フライクの体がぐらっと揺れたんだ。それでそれを見た私は咄嗟に走り不浄の手を引っ張って、崖から思いっきり川に向かって飛んだ。その途中で不浄と離れそうになったから抱き締めて水の中に入った。
「つまりここは水の中……?」
でもそれなら何で呼吸が出来てるんだ。それに私が抱き締めていた不浄はどこへ行ったんだろう。
……どうしよう。まさか水に入って消えてしまったのか。
もしあの不浄が火だった場合あり得るかもしれない。
「何てこった……」
私はその場にしゃがんだ。膝におでこを乗せて、ため息にも似たものを吐き出す。
助けるとか言って助けられていないじゃないか。何のために来たんだ。
『今ならあの子を助けられる! クロード放して!』
「なに……?」
突然声が聞こえてきて驚きつつ、声の主を探す。
名前を呼んでいたから、最低二人はいるはず。
ただ真っ暗で何も見えないから下手に動くと危ないよね。どうしようか。とりあえず耳を澄ませて、音を聞き逃さないように。
『早く行かないと手遅れになってしまう!』
『駄目ですよ。あなたは救世主で不浄を倒すことが使命。人助けはあなたのやるべきことではない』
『何を言っているの! 確かに私は救世主としてこの世界に召喚された! だけど助けられる人を見捨てることはできない! あのままじゃあの子が不浄になってしまうわ! 助けるなら今しかないの! だから放して!』
『そこまで言うのならあれが不浄になったその時に助ければいいのです。それならあなたの使命が果たせる』
さっきの女の人の声が聞こえてくる。それに続いて男性の声。
男性の声は何というか、無機質で冷たい感じがする。それに最後のあれは何て勝手な言葉だ。
不浄になってから助ければいい。それなら救世主としての使命が果たせる……。
それは苦渋の末、どうしてもそれしかないときの最終選択じゃないのか。最初っからあっていい選択肢じゃない。
ああ……でもそれがこの世界の常識なのかもしれない。私の思う常識が絶対に正しいわけではないのだから、押し付けはいけない。
「……」
だけど、何を言っているんだと思う。
女の人も男性の言葉に驚いたのか何なのか、黙ってしまっている。どう考えているのだろう。
それから姿がまったく見えないけど、どこにいるんだ。
「……ちょっと待って」
姿が見えたらおかしいんだ。今この世界にいる救世主は私。私はまだ死んでいないから、女の人は過去の救世主になる。
まさか……楓さんの力がどこかで使われてて私に過去を視せているのか。そうだとしたらここは意識の中だと考えていい。だから水の中でも息ができるのとか、その他いろいろと合点がいく。
いや、安心してる場合じゃないかもしれないぞ。楓さんの力は視せるだけで、ここが意識の中だとしたら……私の本体というか、私の体は水の中。つまり沈んでいっていないか。
「これは本当に死んだかもしれない」
ああ、でもまだ希望は捨ててはいけない。何てったって一応ここはファンタジーチックな世界だ。もしかしたら助かるかもしれない。
慌ただしく脳内が動く。だけどそれと反対に研ぎ澄ましていた耳が音を拾った。
『……クロード』
『なんですか?』
『私はあなたのことが好き』
『ええ。存じております。そして私もあなたをお慕いしておりますよ』
『好き、だったの』
「っ……!」
パアンッ、と何かを叩く乾いた音が聞こえてきた。それに驚いて体を跳ねさせる。
ばくばくとする心臓を押さえて、再度耳を澄ます。
『さよなら。クロード』
その声と共に晴れる暗闇。そして私の眼前に広がるのは生い茂る緑と透き通った綺麗な青。
それを驚きながら見つめていると、私と同じくらいの年齢の女の子が横を走り抜ける。
「なに……」
「私の記憶ね」
「え……?」
後ろから声が聞こえ振り返る。
「あなたは、さっきの……」
私の横を走り抜けた女の子。
それは声にならず、ただ目の前にいる彼女を見るだけに終わる。
すると彼女は柔らかく笑って「はじめまして。私は一之瀬花。譲渡されてすぐにこれだけ使いこなせるなんてすごいね」と言った。
「え?」
「さっき楓ちゃんに会ったでしょう? あれからまだ間もないのに、精神世界まで来てくれるなんて思ってなかったよ」
楓さんから力の譲渡って……どういうこと。
「確かに、楓さんには会いました。だけど力を譲渡なんて、そんなことされてません」
自分から出た声は何とも情けなく震えていた。
私の答えを聞いた彼女はきょとんとして首を傾げた。
「あれ? 楓ちゃんが譲渡するときに話すって言ってたのにな」
「譲渡については何も聞いてません」
「……本当に何も聞いてないの?」
「はい。楓さんからそういった話は本当に聞いてません」
「んー、話す時間がなかったのかな。でも私がやることは変わらない」
ふっと彼女の雰囲気が変わる。
「私の力もあなたに譲渡します。悪いけど、拒否権はないので」
彼女はすっと私に近寄って、左手を握る。あまりの早さに固まったが、慌てて声を出す。
「拒否は、しません。でもいくつか聞きたいことがあります。それだけは答えてほしいです」
「……もちろんいいよ。だけど早くしないとあなたの身が危ないから、手短にお願いね」
彼女の言葉に頷いて、ぐちゃぐちゃな頭の中をどうにかまとめる。
「最初に私が抱き締めていた不浄というのかあなたはどうなっているんですか?」
「どう、とは?」
「川に飛び込んだあと姿が消えて、精神世界だけが残っている状態なんですか?」
「いいえ。まだあなたが私を抱き締めてくれているわ。ただ精神世界にあなたがいるということは本体であるあなたは意識を失っている状態。このままだと沈んであなたが死んでしまう」
「だから手短にって言ったんですね」
「そうよ。でもまだ聞きたいことがあるのでしょう?」
「はい。どうして楓さんのことを知っているんですか? この世界に救世主は同時にいられない。なのにあなたは楓さんを知っている」
「楓ちゃんも精神世界へ来てくれたのよ。そしてこの作戦に協力してほしいとお願いされたの。そして私は了承した」
「待ってください。楓さんも救世主です。不浄になったあなたを救うことができる。それなのに、なんで……」
「……」
彼女の瞳が揺れ、そして静かに伏せられる。
少しの沈黙のあと、彼女は重々しい声色で言った。
「私たちは誰も救えていないと思う。私たちが不浄を倒すたび『死にたくない。助けて』という言葉が聞こえるの。そして視える。魂が燃えて消滅していくのが」
「……」
「私たちでは救えない。きっとあなたが視た楓ちゃんの消えかたとは違うの。私たちが視るそれは、まるで地獄の業火に焼かれるような、そんな消えかた。それを視るたびに心に何かが重くのし掛かり、感覚を麻痺させていく。感情を殺さなければ、耐えられないほどの苦痛だったわ」
「でも……あなたは最後まで感情を殺さなかった。その感情を捨てなかった。だから、あなたは不浄にされた」
花さんは眉を下げて笑った。そして。
「気を付けてね。心を許す相手を見誤らないで」
まるで自分は間違えてしまったかのような、言い方と表情をしている花さんに胸がぎゅっと締まって痛む。
「あなたは……」
間違っていない、そう言おうとして口をきつく閉じる。
それを言ってどうなる。彼女は不浄にされてしまった。
彼女は……あの男性に存在を否定された。
だからこの世界が彼女を不浄にしたのだ。不浄として役に立て、と。
目を閉じて俯く。そしてふー、と小さく息を吐く。
難しいな。感情って。
「ねえ、あなたの名前を教えてくれる? 今とってもあなたの名前を呼びたくてしかたがないの」
「え……。あ、冬夜雪月です」
「雪月ちゃん……。雪月ちゃんね」
「……」
「雪月ちゃん。ありがとう」
「私は……あなたにお礼を言われるようなことをしていません」
「あなたは来てくれた。ここに、来てくれた」
そう言って笑った彼女が楓さんと重なる。
不浄になっている人たちはみんな本当に優しい人たちなんだろうな。
「そして、ごめんなさい。私は楓ちゃんの作戦に参加したけれど、あなたを信じていなかった。ここへ来てくれるはずがない。来てもきっと私がしてきたように不浄を倒すだろう、と。そして私を救ってくれるなんて、そんな奇跡のようなことが起きるはずがない。そう思っていたの」
「……」
「だけどあなたに会ったら、ほっとした。とても安心したの。ああ、この子はどの救世主とも違うってわかった」
「っ……私は楓さんやあなたが言うような人間ではないですよ」
「自分ではわからないかもしれないね。でも違うのよ」
どう違うのかと言いかけてやめる。恐らく聞いたところで上手く誤魔化されるだけだろう。
それに気づいたのか花さんは言った。
「ごめんね。あなたにいらない重荷を背負わせてしまって……」
その言葉にぐっと息を飲み込む。
「もし……私が不浄になったら助けてほしいって思います。だから、あなたが謝る必要なんてないです」
自分から出た声が思ったより明るくて、いろいろ覚悟というかそういうのは決まったんだなと客観的に思う。
「まあ、自分よりすごそうな人たちの救世主っていうことは少なからず怖いと思います。でもやるときはやるんで。大丈夫ですよ」
「雪月ちゃん……」
「未だにどうすれば救えるのかわからないし、楓さんのこともあれで救えたというのかわからないけど。だけど自分を含めてみんなが笑えて幸せな終わりを迎えられるように頑張ります」
「ありがとう……」
泣きながら笑う彼女に私はとびっきりの笑顔を浮かべる。
「さ、早く力を譲渡しなきゃね。あなたの体が心配だわ。他に聞きたいことはある?」
「いいえ。もう大丈夫です。ありがとうございます」
「それじゃあ力の譲渡を始めるわね」
彼女は言いながら、涙を拭う。けれど止まらないのか、彼女の瞳からは涙が溢れている。
「ごめんね。なぜか止まらなくて」
ごしごしと拭う姿が、弟と妹に似ていて体が勝手に彼女を抱き締めていた。そしてあやすように背中をぽんぽんと叩く。
「大丈夫。大丈夫ですよ。泣いてもいいんです」
「……」
彼女は私の左肩におでこを乗せて、私の背中に手を回した。
「もう泣くことはないと思ってた。心が死んでいく音が聞こえていたから。でも、あなたの側は優しくて温かい」
『おねえちゃんっ……! ぎゅうってして! すごくこわかったの!』
『おねえちゃんぼくも! なかないでがんばったよ……!』
泣きそうになりながら駆け寄ってきて、そう言うあの子たちの姿が脳裏を過る。
……そうだ。楓さんも花さんも、迷子になったときのあの子達に似てるんだ。
知らない場所で、知らない人たちが回りにいて。怖いし不安だけど泣くのを我慢している、そんな感じ。
私だってそうだ。不安だし、怖いし。だけど泣かずにいられるのは、怒りの感情が強いからだと思う。もしそれがなかったら、泣き崩れそうだ。何たってこの世界に喚ばれたど初っぱなに肩を刺されたしね。
この人たちはずっと泣けなかったのかもしれない。
「思いっきり泣いてください。私が側にいますから」
「ありがとう。だけどその言葉だけ頂くわね。本当にあなたの体が危ないから」
花さんはそう言うと、楓さんと同じように私の頬に口づけた。
そしてふっと微笑んで、光の粒になっていく。
「っ……!」
彼女が最後に言った言葉に頷く。
そして。
「花さん。またどこかで会いましょう」
私はそれだけ伝えて、目を閉じる。
帰ろう。現実の世界へ。