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ふっと意識がはっきりとした瞬間に気づく。部屋で寝ていたはずなのになぜか外にいる、と。
状況を把握しようと回りを見ると、静かで穏やかな深い青が空に広がっていた。そして柔らかに微笑むように照す月が見える。時折虫たちの歌声が聞こえ、吹く風に少し背の高い草がさあっと泳ぐ。
「ここは……」
見たことのない景色。恐らく現実ではないし、夢でもない。そしてひなたちゃんがいた場所でもない。今まで私が視てきたどの場所とも違って、不思議な気持ちだ。ただ空気が澄んでいて冷たい。
ーーリィン。
「鈴の音?」
ーーリィン。
まるで私の問いかけに答えるように鳴る音。私は導かれるように、音のするほうへと歩く。そして開けた場所に出た私は、その光景に思わず声が出た。
「わあっ、きれい……」
それはそれは美しい紅葉が広がっていた。
とても綺麗で少しはしゃぎながら駆け出す。紅葉の近くまで行くと、さらに美しさを感じて心が踊る。
「紅葉は好き?」
突然の問いかけに驚いて振り返る。するとそこには長く美しい白銀の髪に翡翠色の髪飾りをつけ、髪飾りと同じ翡翠色の瞳をした女性が立っていた。
私は何も言葉が出てこなくてどうしようかと焦っていると、女性はふっと表情を綻ばせた。
「私はね、好き。あなたは?」
「私も、好きです」
「それならよかった」
「……あの、あなたは誰ですか」
女性はゆったりとした仕草で私を見つめ、そして「わたしはあなたの持つ、神という力となった……ただの人間」と言った。
「あなたが進んだ物語の全ての始まりは、わたし。わたしが綴り始めたものを、引き継いでくれた人たちがいた……そして多くの喜びや楽しさ、幸せを生んだ」
言いながら手を伸ばし、添えるように紅葉に触れた。その横顔はどこまでも穏やかで、私はただただ彼女を見続ける。
「でも、それだけではなかった。喜びや楽しさ幸せが生まれる、その反対で……悲しみや怒りなども生まれていた」
「……」
「人、だもの。良いところも悪いところも含めての人間、という存在。わたしはそう思ったの。だからわたしは、ただ見ていた。ただ神としてそばにいた」
彼女のその言葉を聞いていると、胸の奥が暖かくなってくる。どこまでも穏やかで、優しく、寄り添ってくれているような暖かさ。
「あなたは今、私のそばにいてくれているんですね」
言いながらそっと胸に手をあてる。すると女性が私の手に、自身の手を重ねた。その行動に少し驚いて顔を上げる。
目が合うと、柔らかに翡翠色の瞳が細められ……手元から光の粒が舞うように溢れだす。
「っ!」
「神、人の身には余る力。常にそばにあっては心が暗闇に蝕まれ、その身は朽ちて力そのものになってしまう。だから、誰かの身に預けるしかない」
「預ける……」
「そう、預けるの。預けて、己の体と心を癒し力を戻す。この力は神様に選ばれた者と、その者が心を預けられる唯一の人と共に生きる」
「っ……あの、もし預けた人のところにずっと力があったらどうなりますか」
「その身は朽ち果て黒き感情が内側より靄となって溢れ出し、全てを包み滅ぼす存在へと成り果てる。神の暴走……いいえ。神が、泣いて淋しいと叫ぶの」
女性の話で思い浮かぶのは、不浄のこと。
神に選ばれた人、その人が心を預けられる唯一の人……その二人と共に生きる力。
そう頭の中で復唱していると、ふと花さんの記憶を視たときと花さんの言葉を思い出した。そして見えないはずの文字が目の前に映る。
唯一の人に否定されたら、不浄になるーー。
最初に視たとき、それはとても悲しくて淋しくて難しいことだなと思った。そして過去に行ったとき、木蓮さんから実験の話を聞いて、不浄になってしまうのはこういうことがあったからなんだって思った。視たり聞いたりした私は、単純に不浄になる原因はいろいろあるんだって思った。
ただ、そう思っただけ。私は考えなかった。でも根本は、これだ。これだったんだ。
寄り添い、愛情。
「神様は淋しかった……だから、あなたを選んだ」
「そうね。淋しかったのだと思うわ。どれだけ回りに人がいても、どれだけ崇められても……神は一人。対等な人がいなかった。神様にとって対等なのは、わたしだけ。わたしは神様で、神様はわたし」
「でもっ……! あなたはさっき言いました。人間には余る力だと。あなたは人間で神様の力は強すぎた。弱っていくあなたを神様は悲しんで、神様はあなたが大切だから失いたくないと思った。そしてあなたにも大切な人がいることを知っていたから、その人になら預けてもいいって……神様は思ったんですね」
神様の記憶だと思う。視える景色は目で見ていない。頭の中に映像として流れる。それはとても鮮明で、感情さえも私の中に流れてくるから涙が溢れてとまらない。それでも視え続ける。彼女が大切な人とお別れした日、そのあとの彼女の日常、彼女の最期……神となった彼女の歩んできた道。
ぼろぼろと溢れ出る涙のせいで前がぼやける。ああ、私が泣いてどうする。ただ視ただけの、私が。
そう思っていると、目元をそっと撫でる感覚がした。
「初めてよ、あなたのような人は」
「ごめ、んなさい。何も知らない、ただ視ただけの私が泣いたりして。何も、わからない、のにっ……」
「ありがとう。わたしたちのために、泣いてくれて」
そっと引き寄せられ抱き締められる。そしてあやすように背中を撫でたり、ぽんぽんと叩かれる。
涙はとまらないままだし、食道の辺りに何かぐっと詰まっているような感覚になる。
記憶を視た私は、思ったことを問いかけるために口を開く。その声は泣いているせいか少し震えていた。
「あなたは……今、淋しくないですか」
「っ……ふふ、初めてよ。そう問いかけてくれたのも」
彼女は私の頬を包むようにして涙を拭ってくれる。そして笑いかけてくれる彼女の髪や瞳の色が変わっていることに気づいた。
長く美しい白銀の髪は夜の深い青へと流れるように変わり、翡翠色の瞳は穏やかで甘さを含む琥珀色へと変わっていた。
彼女の本当の姿。彼女が人間であったときの姿だ。何がどうなって彼女の姿が変わったのかはわからない。だけど彼女が嬉しさや幸せを含むような、穏やかで愛らしい笑みを私に向けてくれたから……私も笑い返す。
「ありがとう。今のわたしは、淋しくないわ」
「よかった……よかったです。あなたが淋しい想いをしていなくて」
「本当に優しい人……一つ、お願いがあるの」
「なんでしょう」
「桔梗、と呼んでほしいの。どうかお願い。わたしの名を呼んで」
そう言った彼女の気持ちが、さっき視た記憶でわかっている。だから私は、笑って彼女の名を音にする。
「桔梗」
「ふふ、嬉しい。ありがとう。久しく感じていなかった温もりだわ」
そう言って彼女は私の手を引く。そして彼女は話し出す。
「記憶を視たあなたならわかっていると思うけれど、力を預けるなら神の器がいいわ」
「っ……!」
「そのために生んだ存在だから。強いし長生き。あなたを一人にはしない」
「確かに視たからわかります。だけど、私のほうが先に死にます。私もただの人間だから。そうなったら彼は彼でなくなってしまう。私はそれが嫌だし、悲しい」
「でも預けなければ、あなたはいつまでも帰れない。帰りたいと望み願っているのに、神があなたをこの世界に縛りつけている。本来ここはあなたに関係のない世界。この世界で生きる者たちのことなど考えず帰っていいのよ。それに帰るだけなら簡単よ。道は既にあるのだから」
「え……?」
「別の軸にて生まれた神たちはあなたの道となることを選んだ。帰るだけの一方通行で、もう二度とこちらへは来られない道に。だからあなたが誰かに力を預け、帰りたいと願えばすぐに帰れる」
「……っ」
帰りたいよ。とっても帰りたい。みんなに会いたいし、みんなと話がしたい。でも本来関わることがなかった世界で、私は喚ばれ関わって知った。それをなかったことにしたくないし、神がこの世界を変化させた。その責任はちゃんと行動で示し取るべきだ。もちろん淋しさや離れがたいというのもある。それを全部含めて私は行き来できる道を探している。
「桔梗。私は行き来できる道を探します。それが今の私が選びたいと思う一番の選択肢だから」
「そう。でももし行き来できる道が見つかったとして、いつか消えてしまうかもしれない。そうなったら一方通行の道を今選んでも同じ。つくる必要のない傷をつくるくらいなら、最初から一方通行の道を選択すべきよ」
そう言いながら桔梗は私の頬をそっと撫でた。私は桔梗のその手に自分の手を重ね、彼女に笑いかける。
「桔梗。お願いします。もし行き来できる道が見つかったら、消えてしまわないよう私に力を貸してください」
「っ……」
「私のことを想って道となってくれた、たくさんの神に感謝しています。そして桔梗にも。ありがとうございます。私のために嫌な役をしようとしてくれて……だけど、ごめんなさい。譲れません」
「っ……わかったわ。もう、あなたは頑固ね。そうと決めたら本当に譲ってくれない」
「ごめんなさい」
「謝るなら帰ることだけを考えてほしいわ」
少し頬を膨らませ拗ねたような、不服そうな表情を浮かべて私の頬を摘まんだ。そして少しの間のあと、ふっと笑って私の両頬に手が添えられた。
「約束よ。行き来できる道を見つけたら力を貸すわ」
「ありがとうございます……え、なに?」
表現できない、けれどどこか柔らかさのある音が聴こえ首を傾げる。
「神を預ける相手が増えたわ」
「え?」
「今、神様がある程度育ち終えた。そして神を自分に預けなさいと、あなたに言っている」
「神様がある程度育ち終えたって……神様は桔梗と一緒にいる一人だけですよね」
「ええ。でもそれは過去のこと。神と共にいる神様の一部が分かれた。あなただけの神様となるために」
「私、だけの……どうして」
「神様は嬉しかったのよ。嬉しくて満たされて、そして愛しくなった。だからあなたの幸せを望み願い、叶えようと分かれた」
「……私、神様が喜んでくれるようなことをした覚えがなくて」
「わからなくていいのよ。でも気になるのなら神様に訊いていてみて。答えてくれるわ」
「はい。あ、預ける方法を教えてほしいです」
「預ける方法で絶対にこう、という決まりはないわ。愛が伝わればどんな方法でもいいのよ」
「伝わる方法……」
「深く考える必要はないわ。あなたなりの伝え方で伝えてみて」
微笑みながらそう言った桔梗は、私を引き寄せ抱き締めた。そして暖かな光に包まれ始める。
「朝がきたわ。目覚める時間よ」
柔らかな声に背を押され、世界が暗転した。




