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真っ暗闇の中、私は淡く炎を灯す。するとゆらりとした陽炎のような人影が私の前に立っていることに気づいた。
「来てくれて、ありがとう」
笑顔でそう伝えると、空気が震えた。
『自分が後悔するから、後悔しない道を選ぶ』
「……」
『馬鹿みたい。結局、後悔してるのに』
「うん」
『私も帰りたいんだよ。でもね、誰も私を助けてくれない。どれだけ声をあげても、どれだけ声を枯らして伝えても……みんな見て見ぬふり。世界に必要だから帰すなんて考えに至らない。それどころか、帰りたければ別の人間を用意しろと言った』
「……」
『できるわけないじゃない。こんなに……こんなにも辛く淋しい想いを、させられるわけないじゃない』
「うん」
『でも、帰りたい』
その小さな声には、たくさんの強い想いが詰まっていた。ぎゅっと凝縮された想い。ただ一つの、切なる願い。
「だから私を、私たちを喚んだ」
彼女はふっと笑った。そして少しだけ闇が晴れる。
『始まりは、碧月ひなた。そして継いだのが、私。冬夜雪月』
「うん。あなたを通して、あなたが継いだ物語に私も触れた。その物語の中に、あなたの想いが星のように散らばっていた。私が会った秋月桜さんが二番目の救世主に会ったって言っていたの。そこで二番目の救世主が秋月桜さんに言ったことは、あなたの想いの一つで後悔の形」
『そうだよ。だって救っても後悔するなら、いっそ殺せばよかったと思う。だからどの軸でも同じように見せて、同じように問いかけた。そして気づいたのは、あなただけ』
「……」
『救世主って言葉、嫌いなの。救世主は何をやっても当たり前で、あの世界に生きる人間を守って尽くすのが当たり前。できなければ責められる。世界が都合よく私たちを利用するためだけに使う言葉だから、大嫌い』
「でもあなたは救世主っていう言葉を使った。それは、救世主という存在に希望を失っていないから。あなたのその想いを聴き、その手を掴んでくれると……どこかで信じているからでしょう」
『信じている、ね。そう信じていた。だけど、どの私も助けてくれなかった。軸が違うだけで、まったくの別人だった。名前や容姿が同じだけの、別人。性格も辿ってきた道も違った……等しく私たちは冬夜雪月を否定した』
どろっとした大きな黒い手が暗闇から出てきて、私の両腕と両肩を掴む。そして顔を上げると、大きな瞳が私を見下ろしていた。
その瞳には憎しみや怒り、悲しみや諦めなど様々な色が滲んでいた。
『碧月ひなたを渡して』
「嫌だ」
『どうして? あの幼い碧月ひなたが私には必要なの。あの子を神に取り入れたら、私は帰れる。だからずっと探してた。そしてやっとの思いで見つけて、そこから出てくるのを待っていたの。だってあそこには干渉できなかったから。ありがとう。あなたを喚んでよかった。あなたが碧月ひなたをあそこから出してくれたから、あとは神に捧げるだけになった。やっと……やっと解放される! 終わるの! 冬夜雪月の物語がっ!』
「終わらないよ」
『終わる! 終わるんだよっ!』
ぎりぎりと握られた腕や肩に力を入れられる。痛みに顔が歪む。だけど逸らしてはいけない。言わずに終わってはいけない。
痛みを我慢して陽炎に向かって足を動かす。そして押されるけど、負けないくらいの強さで手を頬があるであろう場所に伸ばす。
「そっちに行ってはいけない。飲み込まれたら駄目だよ」
『なに、を言って……』
「あなたは、あなたの軸の碧月ひなたさんに力の譲渡を無理矢理されたでしょう。そのせいで力に飲み込まれそうになってる」
『なってない! 冬夜雪月は冬夜雪月のままだ! 意味わからないこと言わないでっ!』
「本当にわからない? 簡単なほうに行っては駄目。留まって。そっちへ行かないで」
『うるさいっ! 私は帰るの!』
何かが素早く飛んできて右頬に傷をつけていった。すっと傷口が開く感覚がする。そして、じわりと血が溢れ出て頬を伝う。
「あなたの軸の碧月ひなたさんも、あなたと同じように無理矢理だったの。だから徐々に力に飲まれていってしまった。そして力に操られるように、あなたに力を譲渡してしまった。碧月ひなたさんも後悔してる。だから彼女は最後の力を振り絞って、想いだけをあの場所に残したの」
あそこは、何にも染まっていない碧月ひなたさんだけを残した場所。そしてーー冬夜雪月の最期の場所だ。
「碧月ひなたは人間で、この世界の道具じゃない。帰ろう。大切な人たちの元へ」
『っ、う……』
「神が穏やかに眠れる場所を見つけて、帰る方法を探そう。私が一緒にいる」
『や、めて……!』
「私は碧月ひなたのそばにいる。ただの人間である、あなたのそばに」
『やめてっ! 碧月ひなたは神に飲まれた。それがどうした。それを理由に私の想いを裏切ってもいいと? いいわけがない。私は縛られた。碧月ひなたを神に捧げなきゃ私は帰れない』
「碧月ひなたさんは、あなたを救いたくて私を喚んだの。私を喚んだのは、冬夜雪月じゃないんだよ」
『は……?』
「冬夜雪月に一番似ている私を喚んだの。私の軸の碧月ひなたさんを通して」
『そ、んなこと……できるはずない』
「できたんだよ。そして私は優しい人たちからお守りをもらって、打撃や魔法攻撃が効かないの。この頬の傷から痛みを感じない。あなたは、痛くない?」
『いたくない……』
「隠さなくていいんだよ。痛かったら痛いって言っていいの。私はあなたで、あなたは私だもの」
『っ……いたい。痛いよ。とても痛いの。ぜんぶ、いたい、っ……』
大きな瞳から、大粒の涙が零れて……そして舞う花びらのようにわかれて落ちてくる。
触れている頬をそっと撫でて、私は彼女の傷が癒えるよう想像する。すると私の中にある神が目を覚ましたのを感じた。
ふわっと闇を晴らすように、光が足下から広がる。
『あったかい、ね……それに、痛くない』
「よかった」
『後悔してるって言ったけど、あの選択をしてよかったとも思ってるの。どちらも、私の本音』
「うん」
『私とあなたはちょっと違う。私に弟と妹はいないし、お父さんも生きてる。ただ絵本がね、一緒。お父さんが描いた絵本だけは、一緒なの』
「そっかあ。私、お父さんが描いた絵本大好きなんだ。あなたは?」
『私も、大好き。だから、炎から生まれたあの子のこといいなって思った。愛らしくて優しくて、好き』
「んふふ、私もリーヤのこと好き。お父さんが描いた炎のトカゲをイメージしたけど、リーヤはあの炎のトカゲよりずっとかっこいいって思ってる」
『ふふ、確かに。かっこいいね』
さあああっと風が吹き、闇が完全に晴れる。そしてはっきりと見える、その姿。
柔らかに微笑む彼女は、私と似ていて……けれどやっぱりどこか違った。過去で会った冬夜雪月とも違う。
星が瞬くような輝きを含んだ黒の髪。柔らかに見守るような黒い瞳。
人であって、人ではない。
神であって、神ではない。
まるで、そう。世界そのもののような……そんな不思議な感じ。
『ん、ふふ……帰れないんだなあ』
「……」
『もう、帰れないことを私は知っていた。だってあれから時が流れすぎている。帰ったとして、私の大切な人たちはいない。でもそれを認めるのが怖かった』
「うん」
『認めたくなくて、私もたくさんの人を巻き込んでしまった。あなたも含めて。ごめんなさい。謝って済む問題ではないけれど、どうか謝らせて』
静かに頭を下げる彼女を見つめ、そして私の腕と肩を掴んでいた大きな黒い手がいつの間にか消えていることに気づく。だけど大きな瞳は、いまだ私を見つめていた。
「いいよ。私にしたことは全部、許す。だってあなたは、私だから」
『っ、うん……! ありがとう』
「だけど、私以外の人たちのことは駄目。巻き込んでしまった責任は果たそう」
『うん』
力強く頷く彼女から視線を大きな瞳へと移す。
責任を果たす前に、私にはやりたいことがある。そのために、ここまで来たと言っても過言ではない。
私は彼女から少し離れて、大きな瞳に向かって腕を広げる。
「ひなたさん、会いに来ました」
笑って、そう伝える。すると大きな瞳は見開かれ、瞳が少し揺れたのが見えた。
「ひなたさん。たくさん頑張ってくれてありがとうございます。それから、私を待っていてくれてありがとうございます。もうひなたさんを一人にしません」
そう言い切ると大きな黒い手が伸ばされ、そこから前に見た青白い手が出て私の頬を包むように触れた。
『わたしを、ころしてくれるのね』
「いいえ。私はひなたさんを殺しません。私はただひなたさんに会いたくて来ただけです」
『なにをいっているの? このじくのせかいは、わたしをころせばもどるの。だから、ころさなきゃだめ』
「嫌です。殺して解決なんて、そんな終わり御免蒙ります。私、救世主なので……救世主っぽくハッピーエンドにしますよ」
『……』
「ひなたさん。今のあなたは力そのものです。だから、私のところへ来てくれませんか」
『っ……そんなことをしたら、わたしはあなたをのみこんでしまうわ!』
「そうでしょうか? 大丈夫ですよ。私はひなたさんがいてくれたら心強いです」
動揺しているのがわかる。わかるけど、私が望む終わりのためには譲れない。
『こわく、ないの……?』
「怖いですよ。いろいろ怖いです。でも、譲れません。私はひなたさんに来てほしい」
『……ゆづきさん。ありがとう。わたし、あなたのところへいきたい。あなたの、ちからになりたい』
ひなたさんのその言葉に、とびっきりの笑顔を浮かべて「ひなたさん。来てください!」と伝える。
闇から伸ばされる多くの手は、私の全身を包むように掴む。そして一際大きな手が私の目を塞いだ。
暗闇が支配するその世界で、右頬に柔らかな感触を感じた。
じわりと流れてくる大きな力。熱くて、ちりちりとした痛みがある。だけどゆっくりと馴染み、体が軽くなっていく。
私を掴む手が消えたので目を開くとーーそこにはひなたさんと、全体的に白く瞳と尾が色彩豊かな大きな鳥がいた。




