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「ワタシハガンバッタのよ……」
その言葉と共に流れてくる情景。それが私の頭の中に直接入ってくる。
私は驚きながらも、平静を保ちつつその情景を見つめた。
「……」
町並みは見たことがある。そしてお城も。だけど見たことがない人ばかり。そしてその中で一人だけ今の私と同じようなことをしている人がいる。恐らくその人は今腕の中にいるこの不浄……いいえ彼女だろう。ということは、これはきっと彼女の過去だ。
つまり何らかの理由で私が彼女の過去に触れている。もしくは彼女が不浄となった際に手に入れた力か。どちらにせよ、もしこれが過去だとしたらこのままだと確実に私も彼女と同じ路を辿ることになるだろう。
ということは無事に元の世界へ帰るために私に必要な力は、どれだけ上手に嘘が吐けるか。そして体力と戦える力。この三つは確実に必要になってくる。
そう思案していると、彼女が腕の中で動いた。
「このセカイヲ救ったラ……家にカエレル……」
呟かれた言葉に、心がざわつく。
それは私がずっと思っていることだ。元の世界に帰りたい。最悪この世界を救えば帰れるかもしれないと思っていたけど、救い終わったとしてもこの人の記憶を見る限り帰ることはできなさそうだ。
そう思ったら尚更この腕の中にいる『彼女』を救いたい。
「……」
彼女はとても、とても頑張ったんだから。痛い思いも理不尽なことも、全部我慢して耐えて……それなのにこんな姿にされて。
やるせない、何とも言えない思いが込み上げてくる。
ただ今の私には救う手段がない。
……ギルベルト・フライクなら何か知っているかもしれない。ああ、いや駄目だ。彼はこちらの世界の住人。信じてはいけない。だから自分だけでどうにかしなきゃ。
「なのにドウシテ……こンナコとに……」
「……」
私は何も言わずあやすように彼女の背中を擦る。
「……帰リたカッた」
「うん」
「おかあサンにあいたい……」
「うん」
「モウ……私は帰れナイ……」
そう言うと、彼女はわんわん声をあげて泣いた。そしてすがるように私の背中に手を回した。
「……」
私はそんな彼女を強く抱き締める。
大丈夫。大丈夫だよ。絶対私がどうにかするから。絶対にあなたは元の世界に帰れるから。
「大丈夫だよ。だから泣かないで」
「……」
真っ黒な姿だから目の位置とかわからないけど、たぶん今私は彼女と目が合っている。
「……あなタは優シいのね」
「そんなことないよ。私は自分勝手な人間」
だからあなたを救いたいと思ってる。だって今のあなたは未来の私かもしれないから。
ただ、それだけ。自分に重ならなかったらどうやったら生きれるかだけを考えて、あなたのことなんてどうでもいいって思ってたよ。だから自分に重ならなかったら私はきっとあなたを見捨ててた。
「私は優しくないんだよ……。あなたがそう感じたのは、あなたが本当に優しい人だから」
何となく気まずくなって思わず目を伏せる。
彼女の過去に触れたとき、本気で恐ろしい世界だと思った。そしてそれと同時に私は絶対に彼女と同じことはできないとも思った。それが例え元の世界に帰るための行為だとしても、だ。
でも彼女は『帰りたい』という想いと、それと同じくらい純粋な『救いたい』という想いで行動していた。
私にはこの世界の人間を『救いたい』と想う気持ちはない。それが私と彼女の違い。
偽物の優しさと本物の優しさの違いだ。
「いいえ。あなたは優しいわ。とっても」
「っ……!」
そう言った彼女の姿が真っ黒ではなく、私たちと同じ人の姿をしていた。そして先程までところとごろ話しにくそうにしていた言葉がすらすらと聞きやすくなっている。
彼女に何が起きたのか。それがわからず、私はとても困惑した。
「私、今とても嬉しいの」
彼女はとても穏やかな表情で笑って、私の頬に触れる。
「……」
……とても温かくて、優しい。悪意など微塵も感じない優しい温もりだ。そしてどこか懐かしい気持ちになる。
「さっきのあなたの言葉をそのまま返すわね。私を優しいと言ってくれたあなたが優しい人だから、私を優しいと感じるの」
「……」
「ありがとう。抱き締めてくれて。あなたの腕の中はとても温かい。本当に久しぶり。こんなにも穏やかで心が安らぐのは」
彼女の声がとても柔らかくて、先程の不浄の姿の時とは違う雰囲気だ。
「ねえ、心臓の音を聞いてもいい?」
「……どうぞ」
私が返事をすると「ありがとう」と言って彼女は私の胸に耳を寄せて、目を閉じた。
「生きてる……。あなたも私も、生きてる」
「……」
「あなたは優しい人よ。自分のことを大切にできる。そして何より痛みを知っている」
「それは私がただの自己中心的な人間だからですよ」
「いいと思うわ。だってこういう世界だもの。保身に走っても仕方のないこと。でもあなたは本当に助けを求めている人間がいたら、迷わず手を差し出してくれる。今のように」
「それは、あなたが私に重なっただけで……」
「ふふ。そうね。あなたが言うのだから間違いないわ」
彼女はくすくすと楽しそうに笑う。その笑いには何かが含まれていて私はもやもやとした気持ちになった。
「あなたは誰かを救うときに後でいろいろと理由を考えるタイプなのね。だってあなたは頭で考えるより先に私を救おうと動いてくれた」
「何なの……? さっきから私のことを優しいなんて言って」
「あのね、この世界に救世主として呼ばれた私たちは必ず何かの力を持ってる」
「何が言いたいの? はっきり言って」
なぜだろう。すごく彼女に苛立つ。さっきまで救いたいと思っていたのに。今の私、情緒不安定だな。
「私の力は視ること。それは過去も未来も視ることができる。そしてそれを他者と共有することもできる。ただ共有する記憶を私が決めることはできないけれど」
「だったら……」
だったら、なぜ彼女は不浄になっているのだろうか。そんな便利な力を持っていて、なぜ逃げなかった。なぜ戦わなかった。なぜ……。
「人を救えたの……?」
自分の顔が歪むのがわかる。
彼女の言葉に苛立つのは、きっとどこか彼女が諦めているからだ。
彼女はそんな私を見て眉を下げて笑った。
「私が見えるのは他者のものだけ。自分のは視ることができなかったの」
「だから、諦めたの……?」
「諦めていたわけじゃないのよ。最初はただ帰りたいと思って、あなたと同じように帰る方法を探しながら生活していた。けれど見つからなかった」
「……」
「そしてこの世界で日々を過ごし、私は人々を救うことで救世主として成長していった。そうしてある日私に転機が訪れた。それはこの世界の未来を視ることができた、ということ」
「未来?」
「そう。未来を視ることができた私は、考えを変えたの。恐らくそれがあなたの中に流れた私の記憶」
「……」
「私はあなたがこの世界に来てくれることを知っていた」
言いながら、彼女がぼろりと大粒の涙を一粒瞳から溢した。
「あなたは私たちの『救世主』なの。この世界じゃない。私たち転移者を救ってくれる人」
「何を言って……」
「私が行ってきたことはこの世界の人たちの為じゃない。私の記憶のどこを共有しても、あなたがこの世界でこれからさせられることを視てもらうため。そしてあなたに不要に傷ついてほしくなかったから。大丈夫。あなたなら上手に動けるわ」
一気に情報が入ってきて頭が混乱する。
私はこの人たちの救世主で。この世界の救世主ではない。それから彼女が行ってきたことは私に視てもらうため。そして私が傷つかないように、彼女は自分を犠牲にした。この世界の未来を視て私が来ることを知ったから。
だから彼女は……。
「私に賭けてくれたの? 私があなたを救うかもわからないのに……? そんな博打みたいなことして! 私より頭の回転が早そうなあなたが動いた方が助かる可能性が高かったでしょ! もしかしたらずっと不浄だったかもしれないのに! 私が救える可能性だってどれくらいあるかわからないのよ!」
なんで私は泣いているんだろう。なんでこんなにも胸が苦しいのだろう。なんでこんなにも必死なんだろう。
「でも、助けてくれた。抱き締めてくれた」
「っ……」
「ありがとう」
彼女は、とても優しく微笑んだ。そして体が光の泡となって徐々に消えていく。
「っ……!」
「あなたは帰れる。大丈夫よ」
するり、と頬を撫でてそこに口づけされる。
私は口づけされた驚きよりも、彼女の名前を知らないことに気づき咄嗟に問いかける。
「あなたの、名前を教えて……!」
「一ツ木楓よ」
「ありがとう。楓さん」
私が名前を呼ぶと、本当に嬉しそうに笑ってくれた。
どうか彼女が心穏やかであれますように。