2
あのあと深い森の中を歩き抜いて到着した目的地。
「……ここ」
その場所を見て、私は固まった。呼吸を忘れてしまうような光景。
辺り一面の花畑。
吹く風の心地よさ。
記憶の中にある澄んだ空気。
夢ではないし、ひなたちゃんのいる場所でもアネモネさんの記憶の中でもない。今私の眼前を占めるここはーー現実だ。
「……っ」
何かがぶわっと込み上げてきて、私はそれを抑えるように胸元に手をやる。
「雪月?」
私の異変に気づいたギルベルト・フライクが顔を覗いて名前を呼んだ。私はそれにゆっくりとだけど反応して、目線を花畑からギルベルト・フライクへと移す。
……ああ、なんとも言えない表情をしている。
ギルベルト・フライクの瞳に映っている自分を見てそう思う。
「どうした?」
「ギルベルト・フライク。私、ここを知ってる」
「っ……!」
「現実では初めてだけど、何度か来てるの」
「アネモネの記憶か?」
「アネモネさんの記憶もそうだけど、それよりも前から……」
返事をするためどうにか言葉を並べていくけど、頭の中ではひなたちゃんと菫の言葉が流れている。
ひなたちゃんが言っていた、最後の場所。
菫が言っていた、自分自身を否定しないで。
ひなたちゃんが言っていた、自分をいらないって言った人が迎えに来るのを待っていると。
菫が言っていた、自分は始まりの救世主と同じような存在になったと。
「……」
ーーおねえちゃんのおかげでわたしはいきていられるの。
ーーおねえちゃんはならないでね。
ーーわたしがまもるから。
ーーだから、かわらないでね。
ひなたちゃんの言葉が次々と思い出されて、頭の中で響く。
私は……あの日にはもう始まりの救世主が誰かを知っていた。なんとなく、という言葉で濁して逃げた。
私は知らないふりをした。
私は気づかないふりをした。
それは、なぜか。
「怖かったからだ……」
期待されるのが怖かった。
失望されるのが怖かった。
幻滅されるのが怖かった。
何もできない無力さに気づくのが怖かった。
私に繋ぐためだけに他の救世主が犠牲になったかもしれないと気づくのが怖かった。
だからさっき私は逃げた。ギルベルト・フライクが始まりの救世主を知っていると聞いて、名前を知ろうと思えばできた。それなのに私は尋ねなかった。
「……でも」
それじゃあ駄目なんだよ。ここまで来てどうしてうじうじするの。何に恐れ、何を怖がることがある。
進む以外、選択肢はない。後悔するのが嫌なら、それしかないんだよ。
今さら恐れるな。
楓さんたちに恥じない救世主であれ。
「ギルベルト・フライク。私に始まりの救世主の名前を教えてほしい」
「っ……!」
私が始まりの救世主の名前を尋ねなかったことの理由に、なんとなくでも気づいていたらしいギルベルト・フライク。彼は今の問いかけのせいで動揺しているように見えた。だから私は覚悟を伝えるように言葉を続けた。
「もう、逃げないから」
「……そうか」
「うん」
「始まりの救世主と呼ばれる彼女の名前は碧月ひなた」
「あつき、ひなた……どういう字かわかる?」
「わかるよ。こういう字だ」
魔法だと思うけど、ギルベルト・フライクが宙に字を書いてく。その字を追いながら、心に馴染ませるようにゆっくりと音にして発する。
「碧月ひなた。うん。覚えた。教えてくれてありがとう」
「ああ。俺も彼女の名前を聞いてくれてありがとう」
ギルベルト・フライクの言葉に笑顔で返し、もう一度花畑を見つめる。そして暫く互いに何も話さず花畑を見つめていたのだけど、ふと思い出す。私たちがここへ来た理由を。
「あ!」
「突然どうした?」
「いや、ここに浄化作業をしに来たことを思い出して」
「ああ、そのことの説明をちゃんとしてなかったな。浄化作業はまだ時間じゃないからできない」
「え、どういうこと?」
「夜にならないと穢れの場所がわからないんだ」
「穢れ……」
古い朱色のノートに書かれていた言葉だ。まさかここでその言葉を聞くとは思っていなかった。だけどギルベルト・フライクが始まりの救世主を知っているなら、穢れを知っていてもおかしくない。
「ギルベルト・フライク。穢れってなに? 不浄とは違うよね」
「穢れとは負の感情が体から溢れ出ることによって生まれる実体のない漆黒の水のことだ。そして彼女が創る前の世界の不浄は、その漆黒の水に心を蝕まれた存在のことだった。だが今この世界の不浄は、一番信じている人間に否定されることで生まれる存在となっている」
「教えてくれてありがとう。なんとなくだけど穢れと不浄についてはわかった。だけどひなたさんが創る前の世界の穢れや不浄はどうしていたの。やっぱり異世界の人間に力を与えて、みたいな感じ……?」
「力を与えるという考えは近いけれど遠いかな。異世界から喚んだ人間は、無条件で穢れを受け入れ浄化できる器にされるんだ。特に女性は最上級の器として伝えられていた」
「受け入れるって、言葉そのままの意味だよね……?」
「ああ」
「それじゃあ、ひなたさんは……勝手な理由で喚び出された上に器にされて、さらには穢れを受け入れ浄化までさせられていたってことだよね。そのときこの世界の人たちは何をしていたの。まさかただ見てい……」
ぶわっと込み上げてきた感情そのままに言いかけて口を閉じる。食道と喉の辺りに詰まりのようなものを感じて、それを外へ出すようにゆっくりと息を吐き出した。
下がってしまった目線をギルベルト・フライクへと戻すと、表情は特に変わっていなかった。だけど瞳から後悔のような色が読み取れた。
「俺は最初の頃、彼女が喚ばれていたことを知らなかった。だけど知ってからも俺は何もしなかった。回りにいた他の者たちと同じように。俺はただ彼女と他愛ない話をして日々を過ごしただけ」
「……」
「もっとちゃんと探せば帰せる道があったかもしれない。見つからないにしても、彼女に全てを背負わせるべきではなかった。俺、は……」
ギルベルト・フライクは後悔の色が深く染み込んだ言葉を発していく。その姿に思わず「ギルベルト・フライク」と強い声色で彼の名前を呼ぶ。
「っ……」
「ギルベルト・フライクもたくさんの後悔があると思う。だけど何もしなかったわけじゃない。もっと探せばよかったって、ひなたさんが帰れるように方法を探してくれていたんでしょう」
「それは……」
「ひなたさんはその優しさに気づいていたと思う。だから私はギルベルト・フライクと出会えた。もしひなたさんがあなたを恨んでいたのなら、私はあなたと出会えていなかったと思う。だって私をこの世界へ喚んだのはひなたちゃんだから」
「……っ」
「私とひなたさんは違うけど、でもきっと信じていない人と出会わせるようなことはしないと思う。だからひなたさんはギルベルト・フライクの優しさに気づいていたと思うよ」
「俺は……ただ帰る方法を探しただけだ。だが彼女が彼女である最後までその方法を見つけられなかった。そして彼女を見捨てたんだ。そんな俺に優しさが、あるはずがない……」
後悔の波に流され深く沈んでいくかのようにギルベルト・フライクの声や表情が暗くなっていく。
……今のギルベルト・フライクに私がどんな言葉を伝えたって届かない。いや、届いてしまうかもしれない言葉はある。ギルベルト・フライクを責めるような言葉。だけどそれを私は思っていないし、言うつもりもない。
後悔は後悔として受け入れるものだと思う。辛いし苦しいし、心がずっと波立って荒れる。だけどずっとそこに留まっていたら前に進めない。ただただ後悔の感情に振り回されて疲弊してしまうだけ。でも今回のことについては簡単に前を向いてと言うことは難しいしできない。
今の私がギルベルト・フライクに何か言えるとすれば……。
「ギルベルト・フライク、ごめん。よく考えたら今私が言っていたことは全部私がそう感じて思ったことだから、ひなたさん自身の気持ちはわからないってことに気づいた。だからこれだけ言うね。ひなたさんに会って直接聞こう」
「な、にを言って……」
「私はひなたさんに会いに行く。だからそのとき一緒に行って聞こう。そうすればギルベルト・フライクをどう思ってるのかわかるよ」
「……」
「だから今は自分を責めるのはやめよう。ギルベルト・フライクがどう思っていても、答えはひなたさんしか知らないんだから」
私がそう言い切ると、ギルベルト・フライクは下に向けていた視線をまっすぐ私に移した。そして「そばにいてくれるか……?」と不安そうな表情で問いかけられる。
「もちろん。最後までそばにいる」
「そうか……ありがとう」
私の返事に安心したように笑ったギルベルト・フライクの雰囲気や顔色は私が知っている、彼のものだった。




