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声が聞こえる。
全身を包み込んで、べったりと離れないような嫌悪感を抱く声。
「……」
少し遠くの方でずっと何かを囁いているその声は、時折はっきりと私に問いかけてくる。
『ねえ。どうして無視をするの? お家へ帰りたいんでしょう? 私ね、帰り方を知っているのよ。知りたくないの?』
はっきりと問いかけてくるときだけ私の真横から声が聞こえる。そして後ろから抱き締められているような感覚がある。
私に問いかけてくる声は私の反応を見るため、顔を覗き込んでいることだろう。
私はエドさんに教えてもらった注意を守っているので反応しない。ただ前を歩くエドさんの後ろを着いていくだけ。それ以外は何もしない。大丈夫。反応してもよくなったらエドさんが合図してくれる。
「……」
『あなたも家族に会いたいでしょう? あなたの家族はあなたを探していると思うよ。早く帰って安心させてあげなきゃ。ほら、私の手を掴んで』
「……」
『あなたのお父さんは早くに亡くなってしまったのね。それからお母さんとあなた、双子ちゃんで生活してる。お母さん一人で大変そうだね。お仕事をしながらいなくなったあなたを探して、その上幼い双子ちゃんを一人で面倒見てるんだから』
全身に走る緊張感。反応しかける私をどうにか押さえ込む。
駄目だ。ここで反応したら引きずり込まれる。
どうして知ってるのか、どうやって知ったのかを聞きたいところだけど……ここはそういう世界だと思えば納得できる。だから反応しない。お母さんたちのところへ無事に且つ早く帰るために、反応したら駄目だ。
「……」
『ふうん。今のを聞いてもあなたの心は揺れないんだね。冷たい人。冷たくて意地悪。あなたみたいな人は不幸になればいいの。あなたみたいな人が幸せになるなんて許されないんだよ』
そう言われた瞬間--ぶわっと全身に鳥肌が立った。
「っ……」
そして次に、落ちる感覚。
あ、やられた。そう瞬間的に思う。
私の体は何もできずに地面に広がる黒色に飲み込まれた。
「……」
エドさんが言っていた通りだ。光一つなくて真っ暗で何も見えない。
「あー」
声を出したのに反響しないから何も聞こえない。
ただそこに闇があるだけ。
「……」
このままだと恐怖や疑心暗鬼に飲み込まれそうだ。冷静に、穏やかな心で。
目は閉じて、自分の意思で暗くしていると思い込む。声も聞こえないとわかったから出さない。
「……」
『どうして』
「っ……!」
突然聞こえた声に肩が跳ねる。そして閉じていた目を開いて辺りを見る。けれどさっきと変わらず、ただそこに暗闇があった。
自分を落ち着かせるように、また目を閉じて深呼吸を繰り返す。
そういえばこの暗闇には酸素があるんだなあ。暗くて見えないことと声が聞こえないことばかり気にしていたけど。よくよく考えたら酸素がなくて死んでいた可能性があるわけで。よかった。まだ生きてる。たぶん。自分が死んだことにすら気づいていない状態だったらなんとも言えないけど……まだ私は死んでいないと思うんだよね。うん。確証はないけど。
「……」
たくさんの声が聞こえる。年齢もばらばら。でもたぶん一人。その声がいろいろな方向から聞こえてくる。
『はやくわたしたちのところへおいでよ』
『怖くないよ。帰りましょう』
『どうして』
『どうしてみんなだけ幸せなの』
『私の幸せは?』
『ねえ、どうしてみんなだけ幸せそうに笑っているの』
『どうして?』
『私はこんなにも悲しくて苦しいのに』
聞こえてくる声を遮るように耳を塞ぐ。だけど意味がないようではっきりと聞こえる。
困ったな。このまま聞き続けたら私の精神が参ってしまう。それでなくても真っ暗で自分の声が聞こえないという状況なのに。せめて少しでも明かりがあれば。
『私ね、頑張ったのよ』
「っ……」
『痛いこと苦しいこと、怖いこともたくさんあったよ』
『早く元の世界に帰って家族に会いたかった』
『私、頑張ったよ。頑張ったら帰れるから』
『いつも通りの毎日を送りたいよ』
『お母さん……』
『お父さん……』
『帰りたい』
『かえりたい』
『カエリタイ』
どっどっどっ、と心臓が大きく動き続ける。私は守るようにぎゅっと身を縮め耳をより強く塞ぐ。それが無駄なことだということはわかってる。だけどそうせずにはいられない。
私と一緒。
楓さんと花さんとも一緒。
『私を、カエシテ』
瞬間、全身に冷たい何かが触れる。
体が、冷えていく。
心が、蝕まれていく。
今の私はここがどういうところなのかわかった。
ここは--救世主の心の中だ。
何番目か、どんな人なのかはわからない。
ただ流れてくるのは悲しさや苦しさ、恐怖。そして、怒り。果てしなく深い、怒り。
飲み込まれそうになる心をどうにか繋ぎ止めて。必死に耳を塞ぐ。
流れ続けてくるいろいろな感情に気持ち悪さや酔いを通り越して、少しずつその感情に引っ張られて染められていく。
「ゆづきおねえちゃん!」
私の名前を誰かが呼んでくれて、頬に温かくて小さな手が添えられる。
「っ……ひなた、ちゃん?」
「おねがい! ゆづきおねえちゃん! かわらないで!」
今にも泣き出してしまいそうなひなたちゃんが私を必死に呼んでくれていて。私は耳を塞いでいた手をひなたちゃんに伸ばす。そしてその体を優しく抱き締める。
「ひなたちゃん……私は変わらないよ。大丈夫」
「ゆづきおねえちゃん……!」
「ごめんね。心配をかけて。もう大丈夫」
「ほんとう?」
「うん。本当だよ」
ひなたちゃんが私の顔を覗き込んで、ふっと安心したように顔を綻ばせた。
「よかったあ。ゆづきおねえちゃんがこわいおもいをしてるっておもったの。だからわたしね、ゆづきおねえちゃんにあいにきたの。もうこわくないよって」
「ありがとう。ひなたちゃんのおかげで怖くないよ」
真っ暗なこの世界で、ひなたちゃんの姿だけがはっきりと見える。私の姿はひなたちゃんからはちゃんと見えているのだろうか。いやまあ、ひなたちゃんが安心したように笑ってくれているから見えているんだろうけど。少し不安なんだよね。ちゃんと笑えているか。ちゃんと今の私の気持ちを伝えられる表情ができているか。
「ひなたちゃん」
「なあに?」
「いつもひなたちゃんが会いに来てくれるから、今度は私がひなたちゃんに会いに行くね」
「……ゆづきおねえちゃんがわたしにあいにきてくれるの?」
「うん。私がひなたちゃんに会いに行く。だからいつもの場所で待っててほしいの」
「わかった! わたしあそこで待ってる! あいにきてね!」
「うん。約束」
「んふふ、やくそく」
笑いあって、ぎゅうっと抱き締めあう。そして私の腕の中にいたひなたちゃんがふっと消えた。
「ふー」
気合いを入れるため頬を叩く。
「ひなたちゃんが来てくれたからかな。音が聞こえるようになった」
ひなたちゃんと話しているときもだったけど、今も聞こえるたくさんの声。でももう気にならない。引っ張られない。
私は、私。
これ以上、幼い子に心配をかけるわけにはいかない。
会いに行くって約束をした。絶対に破るわけにはいかない。
「でも、どうやって帰るべきか……」
音が聞こえるようになった今ここで一番私に必要なものは、光。この世界を照らす、とまではいかないにしろ私の回りを照らすだけの光が欲しい。
「……花さんの炎だ」
今私の回りを照らせるものがあるとするなら、花さんの炎しかない。だけど照らした瞬間に爆発だなんてことになったら大変だ。それこそ生きて帰れないし、ひなたちゃんとの約束を守れない。
炎を自分の体回りに添わせて出すとか……いや、イメージだけでできるかな。難しいよね。
「……」
--ゆづ。この見習い魔法使いが生んだ炎のトカゲは、魔法使いの成長で大きな炎の竜になるんだよ。努力でトカゲが大きな竜になったらかっこよくないか。
「おと、うさん……」
過る小さな頃の思い出。まだお父さんが生きていた頃の、楽しい思い出。
「トカゲだ……」
トカゲにしよう。イメージはトカゲ。私が花さんの力を使いこなせるようになったら、トカゲは大きな竜になる。
「それは、かっこいいよね。お父さん……」
目を閉じて息を吐き出す。そして息を吸い、手元に小さなトカゲを想像する。
手元に炎が集まり、頭から徐々にトカゲの姿にしていく。
「……」
イメージを具現化。しかも自分ではまだ使いこなせていない、受け継いだ力。でもやれないなんて言っている場合じゃない。やらなきゃ、死んでしまう。
「大丈夫。見習い魔法使いもここから始まった」
目を開いて手元を見る。そこには青い光を纏った小さなトカゲがいた。
私は笑って、小さなトカゲに顔を近づける。
「よろしくね。私の青い炎」
トカゲは私の眉間に自分の頭をくっつけて、ぐりぐりとすり寄ってくれる。
ああ、大丈夫だ。私は帰れる。
真っ暗な世界を私はトカゲと一緒に歩き出す。




