期待してないから
アパートに帰ると部屋の時計は午後七時半過ぎを指していた。沈黙に耐えきれずに貴樹はテレビを付けた、画面の向こうでは真面目な顔をした政治家が今後の日本の行く末について話している。日本の行く末もだが自分の行く末も教えてほしいものだ。
自分は、自分達はこれからどうしていけばいいのだろうか。
こればっかりは神のみぞ知る、だと自嘲気味に笑った。
ふと窓の外を見るとまたベランダで兄がタバコを吸っているのが見えた。またそうやって傍目には分からない自殺行為をしているのか、注意してやろうとしたがやめた、今は下手に兄に話しかけられない。
緩やかに死のうとしている兄を誰にも止められない。
それに外に出ていると蚊に刺されたりするし何より暑いのではないか。一つ心配し始めると次々と心配事が浮かぶ、世話焼きな弟の悲しい性である。
貴樹は立ち上がると窓ガラスをバンバンと強めに叩いた。すると兄は幽霊のようにゆっくりと振り返り窓を開けた、タバコの臭いが鼻につく、苦くて臭くて良いところなんて一つも見つからない。
「臭っ!」
「ああ、ごめん……」
そう言って窓ガラスを閉めようとする兄を止めた。
「……タバコは吸いすぎるな、肺が真っ黒になるぞ」
「もう真っ黒だよ」
「一日にどれだけ吸ってるんだよ」
「さあ、わかんないけど吸えるだけ吸ってる」
「……馬鹿だ」
貴樹が言うと兄は口許だけで笑って見せた。
「暑いだろ、外」
「別に、夜だしそんなには」
「嘘つけ」
貴樹は狭いベランダに出てみた、自分の住んでいる街よりいくらか都会であるここは街の明かりが強すぎて星が見えないし月の光りもどこか弱々しい。
ベランダに置かれた灰皿には吸い殻が山ほど積まれている、その分だけ兄の体は毒素に蝕まれている。着実に病気へとなりつつある。
外は蒸し暑かった、生ぬるい風がじっとりとかいた汗を乾かす。
兄が隣に立った、けれどもその距離は今までとは違って遠かった。
「何で」
貴樹は目線を街の明かりに向けたまま兄に問う。
「何で死にたがってるんだよ」
兄は少し躊躇った後で乾いた笑いを漏らした。
「お前に迷惑かけると思って」
「……」
何も言えなかった。ここで嘘でもそんなことないと言えたらいいけれども兄と同じく嘘の苦手な貴樹は言えなかった。ただ黙って夜の街を見ていた。
「家に寄り付かなくなったのもそれのせいだったのか」
「まあね」
「……」
「明日は帰れよ」
兄は無表情で貴樹に告げた、もう取りつく島もない。兄は明日には貴樹を追い出すだろう、そしてまたひっそりとタバコを吸って寿命を縮める。自分はそれを指をくわえて見ていることしかできない。
情けない弟だ、いやそれは目の前の兄も同じか。情けない兄弟だ。
「安心しろ、直ぐに死んだりしないから」
「……でも」
「じゃないとチューするよ」
おどけた一言に背筋が凍った、言葉も表情もおどけているが声音は真剣だった。
「分かった、帰る!」
観念して言うと兄は満足げに笑った。ここに来て初めて兄らしい顔が見られた。笑う兄を見てなんでこの人は自分なんかを好きになってしまったんだろうかと貴樹はしみじみ考える。
貴樹が言うのも何だが兄は顔も整っている、背も高く少し影のある雰囲気は世の女性を魅了することだろう。実際に貴樹が見ていた兄は多くの女性に好意を持たれていた。何度か家にも彼女らしき人を連れてきていたこともあった。
それなのに何故自分なのだろうか、不思議に思う。これをそのまま兄に伝えたらまた困った顔をするのだろうか。
隣にいる兄の横顔を眺める。何を考えているのか分からない、ただ真っ直ぐ街を眺め煙草を吸っている。
兄の耳についてる数多のピアスが街の灯りに照らされて輝いている。その弱々しい光は兄の命の灯火のようにも見えて貴樹は兄に向けていた視線をそらした。
「俺がさ、いなくなったら兄貴は実家に帰ってくれるのか?」
「…」
「俺が、俺が…兄貴のこと好きだって言ったら母さんと父さんに会いに行ってくれるのか?」
自分が何を言っているのか分からない。貴樹はいたたまれなくなり顔を俯ける、兄が自分を見ているのが分かる。
「そんなことあるわけないだろ」
「え…」
「お前が俺を好きになるなんてあるわけないだろ」
そう言って兄は笑った。その笑った顔がどことなく寂しそうに見えて胸が痛んだ。
「あるはずねぇよ、兄弟を好きになるようなバカ、2人もいてたまるかよ。俺がおかしいだけなんだ、お前はおかしくないから」
「分かんないよ、もしかしたら…」
その次の言葉は兄の手によって塞がれた。
「それ以上言うな、何も」
「…」
貴樹は自分の目線にまでしゃがんで子供に諭すように笑う兄を睨む。
「期待してないからさ」
兄は真剣な表情でそう言った。期待していないというのは本心な様で貴樹の目を今までにないくらい真っ直ぐに見据えている。
期待していないと言われて貴樹は安堵したと同時に何故だか切なくなった。何故自分がほんの少しでも兄に罪悪感を覚えてしまうのか、貴樹には不思議だった。
「今、安心しただろ」
「…してない」
「お前の考えてる事はなんだってわかるよ、兄貴だからね」
最後の兄貴だからという言葉はどこか自分に言い聞かせているような響きだった。
兄はまた新しい煙草を取り出して火をつける。夜の闇に煙草の火が小さく灯る。ゆらゆらと煙が闇に溶けていく、どうか兄の自分に対する思いもこの煙草の煙のように闇にゆっくりと溶けていけばいいのに、そうすればきっと貴樹もここで緩やかに自分を責めている兄も楽になるのにとぼんやり考えた。