吐露
しばらくして扉が軋みながら開いた。兄は黙って貴樹をもう一度部屋の中へと入れた。
もちろん気まずい沈黙が二人の間に訪れる、決して兄弟仲は悪くなかった、むしろ結構良かったはずなのに。一体自分は兄に対して何をしてしまったのか、それともこれは二人の問題ではなく兄一人の問題なのだろうか。
「これを言ったら」
ポツリと兄が言った、貴樹は何も言わずに兄の言葉を聞くことにした。
「これを言ってしまえば俺たちは兄弟ではいられなくなる」
「……何で」
顔を上げた兄は諦めと悲しさを混ぜた複雑な表情をしていた。
「……俺はな、貴樹」
「うん」
何を言われても受け入れよう、感情に波風を立てない為に貴樹は深呼吸をした、その様を兄はじっと見つめていた。そして貴樹が落ち着いた頃合いを見て言った。
「俺はお前が好きだ」
何だ嫌われてなかったんだと安堵したのもつかの間、疑問が次々と沸いてきて嫌な予感も胸を過る、困惑し始めた貴樹に兄は説明をし始めた。
それは貴樹が予想もしていない衝撃のものだった。
「もちろん、その……兄弟ではなく恋愛の方で」
そんなことってあるのか、男同士でそれに兄弟で、貴樹は理解に苦しんだ。兄がどんなことを話しても落ち着いて受け入れられると思っていた、だけどこれは、落ち着けと言う方が無茶だ。いきなり兄弟に愛の告白をされても何も言えない。
そんな貴樹を見て兄は自嘲気味に笑った、兄は貴樹の反応を想定していたのだろう、余裕を持っている。
何故、どうしてとは聞かないことにする。そんなことを聞いてもどうにもならないだろう。
それでも貴樹には一つ言っておきたいことがあった。
「兄貴は、おかしくない」
「どこが?どこの世界に弟を好きになる兄貴がいるんだよ」
「……それは、わかんないけど」
「いいんだよ別に、慰めてくれなくて」
兄の横顔がやけに遠くに見えた。そしてそのまま溶けて消えてしまいそうな気がした、タバコの煙のように。
自分は兄のことを恋愛目線で見たことはない、憧れはあった、兄に近付きたいと思った、それでもそれは恋愛感情ではない。それだけは無情にも確かなことだった。
「ごめんな、貴樹」
兄は伸ばしかけた手を引っ込めた、たぶん怖がらせないためだ。
ああ、やっぱり兄は何年たっても変わらずにバカなんだと思った。どうして弟なんかに恋なんて抱くのだ、どうして何も言ってくれなかったのだ。
わかってる、こんなこと誰にも言えないだろうことなんて。
それでも兄は死にたがるほど苦しんだのだろう。
貴樹は当たり前に苦しく辛くなった。胸が張り裂けそうなほど痛んだ。
「……そういうことだから、お前は帰ってくれ」
「ま、間違いだろ、何かの」
震える声の抗議は何とか自分達を兄弟に戻したいとの願いからのものだ、もしかしたら同意してくれるかもしれない、今ならまだ間に合う、兄弟に戻れるかもしれない。
「ああ、間違い……」
けれども貴樹の期待は呆気なく壊される。
「……だったらどんなによかったか」
頭をガツンと殴られたかのような衝撃が貴樹を襲った。貴樹はどこかで信じていた、兄は冗談を言っているのだと、信じたかった。
溜め息混じりにそう言って笑う兄はタバコを吸うときの表情をしていた。諦念と絶望の表情でぼんやりとした顔、どこも見ていない空虚な目。その目をゆらりと動かして貴樹を見る。
ああ、兄は今死にたがっているのだ、貴樹は悟った。
「そういうわけだ、だから帰ってくれないか」
兄はベランダへと出ていく。ふと時計を見ると昼を過ぎていつのまにか夕方になっていた、空は夏なだけあってまだまだ昼間のように明るいままだ。
まだ電車はあるし、この気まずい部屋にはいたくない。兄の顔を見たくない。それでもこのまま帰ってしまえば兄とは二度と会えなくなっしまうような気がした、兄は自分が帰った後ひっそりと死ぬのではないかと思った。
最悪のシナリオを考えると帰るに帰れなくなった。玄関に向かっていた足はぴたりと止まった。
兄はこちらを見ようともしない。タバコの臭いが風に乗って微かに貴樹の鼻腔をくすぐった、やっぱり苦いと思った。こんなもの美味しい訳がないと。
「俺、やっぱり帰れない」
兄が振り向く、先程出会った時のように驚きが隠しきれていない顔をしていた。
「兄貴、俺が帰った後死ぬだろ」
「……死なないよ、だから」
「タバコ、たくさん吸うだろ」
「……吸わない」
「嘘つき」
「は……」
やっぱり兄は嘘はつけないんだなとおかしくなって貴樹は笑った。
「俺、兄貴のことはちゃんと分かってるからな」
「っ……」
「目の前で死にそうな家族をほって帰れるかよ」
「嫌じゃ、ないのか」
「何がだよ?」
「……俺はお前をそういう目で見るかもしれないんだぞ」
「……」
いい気分はしない、えもいわれぬ不快感が心の中をさ迷っている。そんなことを弟である自分に真剣に言っている兄を殴りたくもなった。それでもやはり家族だから見捨てるなんてことはできなかった。
「分かんねー」
それが今の貴樹の本音だ。
「取り合えず、腹減った」
貴樹はぎこちなく兄に笑いかける。兄は何故か傷ついたような泣きそうな顔になっていた、馬鹿兄貴、泣きたいのはこっちの方だ。
空腹なのは本当だった、それもあるが気まずいままこの部屋にいるのは居たたまれないのもある。
兄は先程までの表情が嘘のように笑った、昔の今まで通りの貴樹に向ける兄としての顔になった、そのことに密かに安堵する。
「じゃあ近くのファミレスにでも行くか」
「うん」
アパートからファミレスまで徒歩で五分近くかかった、もちろんその間二人の間に会話はなくぎこちなく距離も開いていた。兄の二歩後ろを歩く貴樹は俯けていた顔を上げた。
馬鹿だ馬鹿だと思っていたが自分の兄が弟に恋するまでの大馬鹿だとは知らなかった。
自分にはまだ恋というものが何たるかはいまいちよく分からない、だけどこれだけははっきり言える、自分はきっと兄を恋愛対象として見ることはないだろう。男同士と言うだけでも無理なのに、ましてや兄弟、禁忌にもほどがあるだろう。
貴樹たちの暗さとは反対にやけに甲高く明るい店員の声が耳をつんざく。禁煙席に通してもらい窓際の席に着いた。
正直顔を見合わせて食べるご飯は味がしなかった、砂を食べているかのようで美味しくなかった。それは兄も同じなようで頼んだサンドウィッチのほとんどを残している、貴樹は何とかパスタ一皿を胃のなかに押し込んだ。奢ってもらう手前残すのも面目ない。
「なあ、兄貴」
「ん?」
「……その、聞きづらいんだけどさ」
兄は頬杖をついたままじっと貴樹を見つめている。視線を逸らしてずっと聞きたかったことを訊ねてみた。
「俺のどこがいいわけ……?」
「んー……内緒」
「内緒って」
「言うの恥ずかしい」
「今更だろ……まあ、いいや。じゃあいつから、弟として見なくなったわけ?」
「……気付いたのは五年くらい前」
「そうですか」
店内が込み合ってきたのでそろそろ出ることにした。外に出ると夏の生ぬるい風が貴樹の頬をそっと撫でた。