爺はほくそ笑む。この世界の傍らで。(三十と一夜の短篇 第18回)
都市伝説。それは嘘か誠か、信憑性の低い与太話の数々。いくつもの「伝説」が日々浮かんでは消えていく。その中にひとつ、「異世界屋」というものがあった。それは異なる世界への扉を開き、客を現世から切り離す店なのだそうだ。
駅前の雑踏にその店は現れる。まあ店というほど上品なものではない。道端に商品を雑多に並べた、いわゆる路上販売だ。なぜかこの店は多くの人目に付く場所にあるにも関わらず、対して人々の記憶に残ってないなかった。あるのだけどない。見えているのに見えていない。店が特殊なのか、あるいは人々がことさら興味がないのか。そこは分かりかねる。
駅前は多くの人が行き交う。なのに彼らはちらりともその店を見ない。まるで機械のようにまっすぐ目的地を目指している。店主はそれを面白そうに見つめていた。ごくごくたまに、一人二人興味有り気に視線をよこすが、それでも立ち止まる程ではない。日がな一日、店主は老いて濁った目で人々を見ていた。
ある日、一人のサラリーマンがふらりとその店の前に立ち寄った。20代後半の青年ようだ。
「いらっしゃい。」
声をかけたの店主だ。店主は小汚い爺さんで、ほとんど白に近い長髪を、頭の上の方でゆるくお団子にしている。浅黒い肌にシワがはっきりと刻まれ、目元にはサングラス、口元はもじゃもじゃのヒゲ。おかげで人相はよくわからない。垢じみて汚れたTシャツにチノパンを身につけ、ボロボロのサンダルを履いていた。その足元には敷物が広げられ、大小さまざまなビー玉が無造作に並べられていた。
サラリーマンは立ち寄ったものの、興味なさげにしていた。店に興味がない、というよりも。何もかにもつまらない、そんな雰囲気だった。能面のような顔。目になにもうつしていない。店主の爺は面白そうに目を細め、猫なで声で話かけた。
「なあ、兄さん。自分はなにか人とは違う力を持っているかもと思ったことは無いかい? あるいはこの世界に違和感を感じたことはないかい? だったらのぞいてってごらんよ。兄さんの世界が変わる」
サラリーマンの目がちらりと動いた。ゆっくりと商品の前に座り込むと、すぐ近くのビー玉のひとつを手に取った。ただのガラス玉に見えるが、なぜか内側から淡く光を発している。太陽の光に透かすと、見たこともないような世界の情景が頭に浮かんできた。西洋風の石造りの街、空を飛び交うドラゴン、金髪碧眼の可憐な娘。サラリーマンは驚いて、パッと顔を離した。
「ここは異世界屋。ワシはあちらとこちらを繋ぐ者。望むのならその世界へ引き渡す。兄さんの望む世界はなんだ? 魔法と冒険の世界か? かわいい女の子からチヤホヤされる世界か? 最近は男同士で楽しむのも流行らしいのぉ。」
ひっひっといやらしく笑い、白いひげを撫でつけてる。爺の話なんてまるで耳に入っていないようだった。持っているビー玉をジッと見つめている。サラリーマンはしばらく悩んだ後、手に持っていた青いビー玉をひとつ買うと言った。
財布を取り出そうとしたサラリーマンに、爺はまたひっひっと笑いながら首を横に振った。
「金はいらんのよ。欲しいのは、あんたの命。
この先在るはずだった、あんたの人生」
サラリーマンは首を傾げる。何を言っているのかさっぱり理解できないようだ。爺はヒゲを弄りながら、可笑しそうに目を細めた。
「ひっひっ。まあいいさ。持ってお行き。金はいらん。毎度あり」
腑に落ちない様子だったが諦めたらしく、サラリーマンは立ち上がった。表情は能面のように固まったままだったが、少しだけ、楽しそうに目を動かしている。ビー玉を指で弄りながら、再び歩き出した。店を後にしても、振り返ることなく淡々と足を進めていく。爺はサラリーマンの後ろ姿を濁った目でじっと見つめた。
「お気をつけて」
ぼそりと嘆いた言葉は、空中に彷徨うばかりだった。爺は薄い笑みを浮かべていた。
5分後。交差点でドシャっという音が聞こえてきた。大きなトラックと通行人が衝突事故を起こしたようだ。辺りは騒然となり、悲鳴と怒声が響き渡った。現場を目撃してしまった子供が大泣きしていた。トラックの後ろでは後発事故が起こっていた。そしてパトカーと救急車が慌ててかけつけるも、彼の死を止めることはできなかった。
駅前ではあの爺が相変わらず商売をしていた。事故で駅前も一時騒然としたが、爺はにやにやしていた。まるでイタズラがうまく行った子供みたいに。
そんな爺の様子を、通行人は誰も見ようとしない。彼らは忙しく通り過ぎるだけだ。誰も彼も、なんの興味もない。時間に遅れまいとひたすら歩みを進める。周りと同じように。例から漏れぬように。敷かれたレールの上を、疑うことなく歩いていく。
そうやって巨大な蠢く街は人々を取り込んでいくのだろう。組み込まれていくと言った方が正しいだろうか。だから街は、そこからはみ出す者を許さない。
またふらりと爺の前に客が一人立ち止まった。まるで隊列からはぐれた一匹の蟻のようだ。繁盛日だなと爺は内心ほくそ笑む。客はヨレたスーツを着た女性だった。
「……やあやあ、お嬢さん。
あんたはどんな世界がお望みだい?」
白髪の爺はにやりと笑った。
黄ばんだ歯が、がちゃがちゃと並んでいた。