兄様、それではわたくしは愛が足りないということでしょうか⁉
頭の腫れがなかなか収まらないことと、その前からの高熱で、俺はその後もしばらく部屋で寝ていることになった。
俺はそろそろ、学校にも顔を出さないとまずいだろうと思ったのだが、俺がドアを開けようとする度に紗那が「絶対安静です!」と言って目の前に立ちはだかるので、無理を言わないで休むことにした。
それに、紗那が三人に見えたし。
自分でも、とても学校に行けるような状態ではないことは分かった。
でも――一番の理由は。
姫ヶ崎の看病を無にするような結果にだけは、したくなかったから。
一応姫ヶ崎以外の面目のために言っておくと、俺を看病しに来たのは姫ヶ崎と紗那だけではなかった。
御影や霧ヶ峰もかなり頻繁に俺の部屋に来て、プリントを渡すなり熱を測るなり、俺を甲斐甲斐しく世話してくれた。
甲賀沼は看病に来るたびに、新しい民間療法を俺に教えてくれた。尤も、その有効性は極めて怪しいものだったが。
ただ一度首に沢庵を巻かれた時はさすがに辟易した。
それも、大真面目な顔で。
どんな民間療法だよ――と思って聞いたら、「これは私が考えたものよ」と言ったので叩き返した。看病してくれるのは有難いが、俺で何でも試されてはたまったものではない。
でも、やはり一番俺の部屋に来た回数が多かったのは、俺の部屋を自分の部屋と心得違いしているとしか思えない紗那を除いては姫ヶ崎だった。
姫ヶ崎は、毎日俺の体温を測りに来た。
それも、口に咥えるタイプの体温計を使って。
この形の、古いタイプの体温計しか姫ヶ崎は持っていなかったらしい。
俺も最初はさすがに断ったが、姫ヶ崎に体温計を無理やり口に押し込まれるようにして熱を測られた。
でも、これって。
姫ヶ崎と間接キスになってるんじゃないか――?
俺がそれを本人に勇気を奮って直接訊いたところ、姫ヶ崎は一瞬化学の実験で使うリトマス紙のように真っ赤になって、それから呟くように「……でもまだ使ってないから大丈夫、だと思う」と言った。
やっぱり抜けた奴。
いい娘ではあるんだがなあ――。
そんなこんなで、俺の病状は劇的な回復を見せないまま、二日が過ぎた。
「三十七・六度……」
姫ヶ崎は、俺が今まで咥えていた体温計の目盛りを見つめて言う。
「全然下がらないね……」
そんなことはない、と思う。
前は、四十度までは上がらないにせよ、三十九度何分あることもざらにあった。
それに、姫ヶ崎の部屋に行こうとして頭を打ち、保健室に搬送されたあの日よりは、だいぶ身体は楽になった。
姫ヶ崎の看病のおかげで、確実に快方に向かっている。
でも、それを言うと逆に姫ヶ崎にいらぬ気遣いをさせることになるので言わないでおいた。自分の部屋に行こうとして頭を打ったなんて姫ヶ崎に言ったらなんて謝られるか分からないし。
「どうしてお前は……」
俺は、それを言う代わりに姫ヶ崎に訊く。
目の前に、姫ヶ崎の鼻の頭が見える。
「毎日、俺の部屋に来て看病してくれるんだ?」
もしかしたら、紗那に「鬼門院の女たるもの、そのくらいのことを厭うてどうします!」とでも発破をかけられたのか。俺は、それだけを気にしていた。
姫ヶ崎――無理しているのではないだろうか。
もしそれが原因なら、回復してまずしないといけないのは紗那に説教することだ。
でも、姫ヶ崎の答えは俺の予想には反したもので。
とても単純な答えだった。
「それは……目の前で人が倒れてるんだもん、心配にもなるよ」
目の前――彼女の目の前には、多分俺もいる。そして、紗那も。霧ヶ峰たち、この寮の住人も。そして、紗那の同期の奴らも。
姫ヶ崎聖花はそういう人間だ。
抜けているくせに、こういうときは放っておけなくて――。
「そうか――」
多分、倒れて寝ているのが俺じゃなくても、姫ヶ崎はこうして献身的な看病をするのだろう。
その相手が誰であっても。
今俺がされているように。
「まして、それが……」
姫ヶ崎が何か言い掛けたが、すぐに「ううん、何でもない」と言葉を引っ込める。
それが何なのかは、気になったが。
俺は、姫ヶ崎には何も訊かずに、このまま大人しく看病されることにした。
これが姫ヶ崎自身の意思でやっていることだということが分かっただけで十分だ。
部屋を出る時、姫ヶ崎は病院に行って薬を貰って来るように俺に勧めたが、俺は断った。
紗那からもらった薬と、霧ヶ峰からもらった薬、さらに鷹司が「余っているからお前にやろう」と押し付けて来た薬で、今の俺の部屋はただでさえ薬だらけなのだ。
それに――。
姫ヶ崎がこれだけ看病してくれているのだから。
俺には、それだけで熱も下がりそうな気もしたし、頭の腫れも引きそうな気がした。
それを紗那に言うと、紗那は「そうですか、ご馳走様です……」と俺に手を合わせ、「でも、やっぱり最後は愛ですよね」と言った。
多分本人にはそんなつもりはみじんもないのだろうが、なんだか馬鹿にされたような気がしたので、紗那にこの話をしなければ良かったかもしれないと思った。
それに――。
「兄様、それではわたくしは愛が足りないということでしょうか⁉」
「いや、お前に足りないのは愛じゃなくて俺を寝かすことだ」
その翌日。
いつものように姫ヶ崎が体温を測りに来た。なぜか霧ヶ峰と紗那、それに道明寺がついて来た。
「体育祭には出られそうだね」
姫ヶ崎が、俺の体温計を見て言う。
三十六・三度。平熱だが、姫ヶ崎には「大事を取って休んだ方がいい」と言われた。
「そうだな。そうするよ」
「ちょっと、あんたねえ」
不満げに俺と姫ヶ崎の間に割って入ってくる霧ヶ峰。
「やけに聖花には素直じゃないのよ。私の言うことなんて、ちっとも聞かないくせに」
俺の顔に向かって、人差し指を突き出す霧ヶ峰。
「ちょっと聖花が優しいからって、図に乗るのもいい加減にしなさい‼」
どうして姫ヶ崎の言うことを聞いただけで「図に乗っている」と判断されたのか、俺は理解に苦しむ。
「何だよ霧ヶ峰、お前こそ病み上がりの俺に難癖つけてきやがって……別に俺が姫ヶ崎のアドバイスを聞いたって問題ないだろ」
俺はそう霧ヶ峰に反論する。
「妬いてるってんだったら話は別だが……」
まさか霧ヶ峰も、姫ヶ崎が自分を捨てて俺に接近しているなんて思うはずもあるまい。
「や、や、妬いてるだなんてそんな、そんなことあるわけないじゃない、そりゃ私だって多少は、って何言ってんのよあんたはっ⁉」
霧ヶ峰は、顔を真っ赤にして拳を握る。
やはりこいつに関しては、リトマス紙というより茹蛸の方が適切な表現だと思う。
「ミニ風紀委員長の鉄拳制裁だ‼ 逃げろ‼」
言っても逃げられないのが、困りものだが。
霧ヶ峰も病み上がりの俺を殴るなんてことはしないはずだ。多分。
「勝手に昇格させてんじゃないわよっ‼」
道明寺と紗那が後ろで声をひそめて何か話し合っていたが、この短髪眼鏡風紀おばさんがうるさくて良く聞こえなかった。
でも、姫ヶ崎が俺の寝ている布団の傍らで、声を潜めるようにして笑っているのは分かった。
紗那も、俺を見て微笑んでいる。
何が面白いのかは、分からなかったけれど――。
そんな二人を見て、俺の顔も自然に綻ぶ。
「ちょっと、何笑ってんのあんたたち……杉内は笑ってる場合じゃないでしょうがっ⁉」
霧ヶ峰が俺たちの輪の真ん中で、一人口をとがらせている。
ちょっとだけ、こんな時間が長く続けばいいな、と思ってしまったことは、否定できない事実だ。




