ちょ、ちょっと待て、落ち着け姫ヶ崎!今自分が何をしようとしてるか――
俺が次に目を開くと、頭の痛みはだいぶ引いていた。
外が明るくなっているようなので、壁にかけてある時計を確認する。
七時十七分――。
もう朝だ。一晩、保健室で寝ていたというわけか。
俺は、保健室の中を見渡す。須甲先生は、まだ来ていないようだ。
須甲先生は、いつもは何時くらいに出勤するのだろうか。
以前に卓球部が、珍しく大会に向けての朝練に取り組んでいた時、突き指をした奴がいて、そいつを須甲先生に診てもらったことがあった。
その時は、今くらいの時間だったはずだ。
単なる寝坊なのだろうか――いや、あの人ならありうる。
それにしても、今週二回も保健室に運ばれて、一度も須甲先生の顔を見ることができなかったのは、率直に言って残念だ。
俺も須甲先生に診てもらいたかった――。
いや。多分須甲先生が俺の容態を確かめている時、俺は昏睡状態だったのだろう。そして、俺が目覚めた時にはもう帰ってしまっていた。
巨大な眼鏡と白衣とその下に着こんだニットが蕭条学園で一番似合う須甲先生に寝ているところを見られるというのは、俺としても気恥ずかしい。
しかし、確かに足音は聞こえる。
俺は、その主の方に目線を動かした。勿論、身体を動かすことはまだできない。
結論から言えば、それは須甲先生ではなかった。
髪をふんわりカールさせた、今ではすっかり見慣れた顔の女子生徒。
「姫ヶ崎――」
ずっと、俺を看病してくれたのだろうか。
「私は大丈夫。実は、ちょっとベッドで寝かせてもらっちゃった」
そういう問題ではない――のだが、姫ヶ崎の好意は素直に受け取っておこう。
コンロに、火をかけている音が聞こえる。
「先生に見つかったら怒られるかもね」
姫ヶ崎が言う。
「今、お粥作ってるところ。今回は、上手く行くと思う」
道理で、いい香りが部屋の中に漂っているわけだ。空腹を催す類の、心地いい香りが。
姫ヶ崎は火を止めて、コップに粥をよそう。
「もっと欲しかったら言ってね……って言えるほどうまくできたかどうかは分かんないけど」
そう言って、俺のそばに寄ってくる。
俺に、自分で食べられるかどうかを聞く前に、姫ヶ崎はコップの中にスプーンを差し入れた。そして粥を一口分掬って、俺の口に運ぶ。
俺も口を開けて、それを流し入れてもらった。
「――どうかな?」
姫ヶ崎が、俺と二十センチの距離で、首をかしげて訊く。
「うん……」
あの時の道明寺みたいに、気の利いた感想は言えないけれど。
「美味しいよ。姫ヶ崎の手作りの粥って、優しい味がするんだな」
俺が言うと、姫ヶ崎は顔を赤らめて、「そ、そんなこと……」と手を小さく振る。その拍子に、コップを落としそうになって、慌ててそれを握りなおした。
「それに――」
姫ヶ崎の粥がまずいと言うわけではない、と俺は前置きして言う。
「俺は、姫ヶ崎が料理の練習を徹夜してまで続けてることも知ってた。勿論、それは俺たちの――俺のことを思ってやってくれてることなんだってことは分かってたし、その努力を否定するつもりもこれっぽっちもない」
でも――。
「俺、ずっと引っかかってたんだ。何だか分からなかったけど――でも、今俺にはそれが分かった」
料理を作ることなんて。
下手でも、技術がなくても構わない。
「姫ヶ崎は、俺のことを本気で思って作ってくれた。それだけでいいんだ、って」
もしも、鬼門院の家の人間が姫ヶ崎の作る料理を否定したって。
そんなの俺の知ったことじゃない――。
たとえ姫ヶ崎が鬼門院の家で料理を作って、それが無茶苦茶にこき下ろされるような時だって、俺は、俺だけは、姫ヶ崎のその気持ちをきちんと受け取りたいと思う。
姫ヶ崎を見ると、彼女は肩を震わせていた。
泣いているのか――そう思ったが、どうやらそれは違ったようで。
ベッドに横たわる俺に抱きついて来た。
「ありがとう……嬉しい」
ずっと、お前の料理はまずいなんて言われ続けて来たのだろう。
そんな姫ヶ崎が、俺のために。自分に出来ることは、それだけだからと言って。
嬉しいのはこっちの方だ。
「く、苦しい……」
しかも顔に胸とか当たってるし――。
俺が頭から突っ込んだ時は、意識したって言っていたのに。今の状態は、意識しなくてもいいのだろうか?
しかも、何か冷たい感触も――。
「あ」
姫ヶ崎は、俺の胸の上から何か取り上げる。
「スプーン……」
まさかそれを粥の入った状態で――。つまり粥を、俺の上にぶちまけたのか。
それでこの冷たい感触……。
「今すぐ着替えて、杉内君!」
姫ヶ崎が俺の衣服を脱がそうとする。
寝巻姿なので、抵抗しなければ容易に脱がされてしまう。あの体操服の時のように――。
「ちょ、ちょっと待て、落ち着け姫ヶ崎! 今自分が何をしようとしてるか――」
俺が言うと、姫ヶ崎は手を止める。そして、自分の手に持っていたものを改めて見る。
それは、俺の寝巻で――。
それに気づくと、姫ヶ崎はものすごい勢いで顔を紅潮させた。顔から煙を吐くのではないかと、俺が心配になるほどに。
「ご、ごめんね、私ったら、でも全然そんなつもりじゃなくて……」
「――あんまり深く考える必要はないと思うぞ……」
やっぱりこいつは、ちょっとどころではなく、だいぶ抜けている。
俺の知っている、姫ヶ崎聖花だ。




