兄様‼ もっと反応してください‼
そう、口を――。
俺は、姫ヶ崎に視線を移す。
俺と姫ヶ崎みたいな状態――こういう状態を、口も利かないと言うんだろうか。それとも、もっと深刻な状態を指すのだろうか。
一緒の寮に暮らしているのだから、こういう状態はあまりよくない、と言うことは俺にだって分かる。
でも、逆に言えば姫ヶ崎と俺は同じ寮に暮らしているだけだ。
前に俺がいた光潤寮だって、一年間住んでいたが、中にはそれほど話したこともない奴も数人いた。
一緒にカレーを作ったり騎馬戦に出たりする弘学寮の生活は、他の寮からすれば特別だと言える。
つまり。
所詮俺と姫ヶ崎は他人。
そう思ってない奴もいるみたいだが――。
とにかく、今は姫ヶ崎のことを考えるのは止めよう。
意識しすぎるから駄目なんだ――。
十秒以上の会話ができない――それが何だ。女子と会話が続かないことなんて、数えきれないほどあっただろうが――。
そんなことでいちいち夜も眠れなくなっていたら、こっちの身が持たない。
そんな俺の意識を寸断させたのは、紗那の言葉だった。
「こちらが、鷹司様なり切りセットです」
そう言って、地元・横浜の有名デパートの紙袋を持ち出す紗那。
「なり切りって……まさかお前」
「はい。兄様が騎馬戦に出られるというのは、弘学寮の中だけの秘密。兄様は、鷹司様になり切り通さなければなりません」
エントリーシートに俺の名前がないことは知っている。
エントリーしなければ、騎馬戦に出られないということも。
それにしたって――。
紗那の要求はあまりにも無茶過ぎる。
俺に鷹司を演じ通せって――普通に考えてできないに決まってんだろうが――。
「昨日、わたくしが徹夜で作り上げたのです」
紗那は、自慢げに手元の紙袋から、淡い藍色のヘアピースを取り出す。
そして、鷹司の身長に合ったサイズの体操服。
ご丁寧に胸に入れる用のパッドまである。道明寺のそれよりやや小ぶりだ。
徹夜でこんなものを作っていたのか――。
でも、紗那が本当に徹夜していたのなら、姫ヶ崎が夜中どうしているのかを聞き出すことも出来るだろう。
でも、姫ヶ崎本人のいる前だ。本人に聞いたほうが一番早い。
姫ヶ崎が言ってくれれば、の話だが。
姫ヶ崎――。
他人のはずなのに。
どうして姫ヶ崎のことなど心配して、夜も眠れないでいるのだろう。
でも姫ヶ崎のことを考えるなと言われても、多分無理だ。もう。
「兄様‼ もっと反応してください‼」
俺が疲れているのを、ただの無関心だと受け取ったのか、紗那は俺の薄い反応が心外だと詰る。
「はいはい、分かったよ」
俺は、紗那の前で手のひらをひらひらと振る。
今日はこいつにもついて行けそうにない。
甲賀沼が黙ってくれて本当にありがたい。
今日の俺は、かなり疲れているみたいだ。
「兄様の対応には不満はありますが……」
紗那は、頬を膨らまして言う。
「早速練習を始めたいと思います。兄様、早くこのなり切りセットを装着してください」
何だよ装着って――。
俺は内心突っ込みを入れながら、紗那から渡された白い紙袋を受け取ろうと手を伸ばす。
ん――。
「大丈夫ですか、兄様⁉」
その紗那の言葉で、俺の視界に入る紗那の身体が傾いていることに気づいた。
紗那だけではない。
道明寺も、甲賀沼も、そして姫ヶ崎も――。
そして、彼女たちが立っている地面も。
違う――。
俺が傾いているのだ。
次の瞬間。
俺の右頬に、砂の感触が当たる。
頭が地面にぶつかる、鈍い音がする。
そして、全身が固い地面に接触したのも分かった。
「兄様――っ‼」
紗那の叫び声と駆け寄ってくる足音が、地面に接していない方の左の耳から聞こえる。
「兄様‼ しっかりしてください‼」
俺の傍らに屈み、左の腕に縋りつく紗那。
後の三人が何か言っている声も聞こえたが、肝心のその内容は分からなかった。
そして俺が、なぜこんなことになったのかも分からなかった。
俺が、分かっていたことは一つだけ。
俺はどうやら、倒れたらしい――。




