実は、兄様は騎馬戦にエントリーされていないのです
でも――。
御影は姫ヶ崎とは違って、俺に声は掛けてくれる。
姫ヶ崎はずっと押し黙ったままだ。
完全に、姫ヶ崎に嫌われたのかもしれない――。
その原因は、きっと昨日のことだけではないだろう。
あの時の、カレーの一件。姫ヶ崎は、あれで相当傷ついていたのだと思う。姫ヶ崎自身、それを認めていないかもしれないが。でも、俺にはそう見えた。
そこに来て、昨日の事故だ。
姫ヶ崎の俺への印象は最悪のはずだ。
「姫ヶ崎……」
俺は、恐る恐る彼女に声を掛ける。
「今日も、頑張ろうな……」
「う、うん……」
せめて、俺を責めるなりなんなりしてくれた方が、よっぽど俺は気が楽だったかもしれない。
霧ヶ峰が姫ヶ崎と向き合う俺を睨んでいる。
「あんたが聖花のことをどう思ってるのかは知らないけど、昨日みたいなことがあったら今度はただでは済まさないからね」
俺の隣で、精一杯の威圧を込めて言う霧ヶ峰。
御影とは違った怖さがある――と言うことはさておき。
嫌々ながら御影と霧ヶ峰が俺と手を繋いで甲賀沼の足場を作り、甲賀沼がそこに足をかけて騎馬が完成した。
「甲賀沼様! 派手にやっちゃってください!」
何を派手にやるんだよ――俺が突っ込む間もなく、「骨太騎馬戦くんスーパーの恨みを晴らすわ」と息巻く甲賀沼。
いつも無表情だから、どんな顔で言っているのか気になったが、騎馬の先頭が上を向くわけにもいかない。後で紗那に教えてもらおう。
「では、わたくしが声を出しますので」
こいつクラスでもこんな感じの奴なんだろうな――目立ちたがりで仕切りたがる奴。
「せーの、一、二」
今日は誰も足を出すタイミングや出す方の足を間違えることもなく、問題なく進むことができた。
全員の息が合ったというよりは、俺以外の四人が完全に呼吸を合わせていて、俺がそれに合わせるという感じだ。
「もっと速度を上げて!」
紗那がそう要求する。
「本番では、並み居る運動部の騎馬から逃れなければならないのですから!」
こいつ逃げる前提かよ――。
まあ、それが一番現実的であるが。
というか、これは男子と女子どっちの部に出るんだ?
姫ヶ崎や甲賀沼を、屈強な男子たちの騎馬の中に放り込むわけにはいかないだろう。いろいろな意味でだが。
でも、そうしたら俺が女子運動部員たちと戦うことになるのか?
それもそれで、かなりまずいような気がする。
紗那曰く「基本中の基本」であるところの、騎馬を崩さないで運動場を一周する、という練習を五回終えて、いったん休憩に入った時を見計らい、俺は紗那に確認しに行った。
「それは勿論、女子の部でしょう」
紗那は、何をかいわんや、といった表情で答える。
「わたくしを男子生徒と戦わせる気ですか。いえ、わたくしはいいのですが、それでは兄様が心配されるのでは」
確かにあの男子連中の中に紗那を放り込むのは死んでも阻止したいところだ。
でも――。
「それだと、俺が女子の中で戦うことになるんだが」
「ええ。そうなりますよ」
当然、といった調子で答える紗那。
「ですが、ご安心ください。わたくしには奇策があると、申し上げたではありませんか」
「ああ、そういやそんなこと言ってたな」
「兄様。わたくしの言葉を覚えておられたのですね」
紗那は嬉しそうに言う。
「実は、兄様は騎馬戦にエントリーされていないのです」
それは――どういうことだ?
「じゃあ、俺が練習に参加する必要ないだろ」
「いいえ。兄様も競技に出られるのですから、練習していただかなければ困ります」
「ん? 俺は出ないんだから――」
「いいえ、兄様も出るのです。エントリーがされていないだけで」
「でもエントリーしないと……」
「兄様は、この競技の間は道明寺ほかけ様と言うことになっていますから」
「……何だよそれ……」
俺が道明寺ほかけ?
こいつ――偽名でエントリーしやがったのか。
「勿論道明寺様には許可をいただいておりますし、道明寺様なりきりセットもご用意しております。ご安心ください」
俺が心配してるのは、そういうことじゃないんだが――。
その夜。
紗那が俺の部屋に押しかけた上、そのまま眠り込んでしまったので、俺が部屋まで運ぶことになった。
確か、午前一時くらいだったと思う。
夜中までテンションの高い奴だと思ったらすぐ寝入ってしまった。そのとき、時計を見て早く寝ろだか何だか言ったのでよく覚えている。尤も、紗那はとっくに夢の中だったのだが。
姫ヶ崎の部屋から灯が漏れているのを、俺は偶然目にした。
「姫ヶ崎――」
俺は、彼女の部屋をドアの隙間から覗き込む。
こんなことをしているのがバレたら、さらに関係が冷え込むことは分かり切っている。でも、中を見ずにはいられなかった。
寮の風呂場は共同浴場だから、着替え中でもなければそうそう気まずくはならない。でも人の部屋を覗くなんてそれ自体考えられないことだ。
少なくとも、その直前まで俺はそう考えていた。
でも、俺が彼女の部屋を覗かずにはいられなかった理由。
姫ヶ崎、まだ練習してるんじゃないか――。
俺の頭に、そんな疑念が浮かんだからだ。
向こうから分からない程度にドアに近づき、中の様子に目を凝らす。
案の定、コンロを前にして立っている姫ヶ崎の姿を俺は認めた。
私のことは、放っておいて――。
姫ヶ崎の言葉が頭にこびりついて、その夜俺は眠れないまま朝を迎えた。




