娘を泣かせているのは貴様か‼
そんなわけで、俺たちはプリントの山を運びながら、教室棟まで向かっていたのだが。
妙な視線を感じる――。
俺がそれに気づいたのは、教室棟の一つ手前の、理科室などの入った第二特別棟への廊下を渡っていた時だった。
紗那が、まだこの校内にいる?
紗那も今日から――正確には明日からだが、今年からは蕭条学園の生徒だ、校舎内にいても何の問題もない。でも、今見つかったら相当まずいことにならないか? 今朝みたいに飛びつかれた日には……。
「兄様――‼」
案の定、紗那の叫び声が聞こえてくる。
「おい黒瀬! 逃げるぞ!」
「な、おいちょっと待て杉内‼」
「逃げる? 私の罰から逃げるとはいい度胸ですね。しかもそれをこの私の前でのたまうとは……」
賀茂川は明らかに勘違いしていたが、それを訂正している場合ではない。この苦役から逃げるつもりはなかったんです。ただ、あいつが来たんで――。
「そこにおられたのですね⁉」
しかし俺が逃げるのよりも紗那が俺に向かってくる方が早かった。
「兄様! わたくし、兄様を探して――」
次の瞬間、俺は自分の身体が何かに激しく衝突するのを感じた。
「あーあーあー……」
賀茂川が歩み寄ってくる。
「プリントが全部台無しじゃないですか」
落としたくらいで台無しになるか――と思ったが、俺の持ち分のプリントすべてが廊下に散乱してしまったことは事実だった。
「あ、兄様⁉ 申し訳ございません!」
兄様がそのようなものを運んでいる最中だとは知らずに……と、紗那は涙目になって弁解する。
「お友達とお話中だと思ったのです。まさか、こんな掃除をさぼった罰のようなことをしているとは……」
罰だということは、紗那の見立て通りだ。
「とにかく、これを早く拾い集めなければ……」
紗那は、腰をかがめて俺と黒瀬がプリントを収集しているのを手伝おうとする。
「じゃあ、私は先に教室に戻ります。精々頑張ってくださいね。あと、新入生にちょっかいを掛けて、初日から不登校にするなんてことのないように」
その時はもっと重い罰が待っていますよ、と賀茂川は、睨みを効かせていう。あの、爬虫類的な視線だ。
「そんなことしませんって……」
俺の返事も聞かず、賀茂川は教室へと歩みを進める。
「でもわたくしがどうして新入生だということが分かったのでしょうか?」
「それは、リボンの色が違うからだろ」
蕭条学園では、入学した年度ごとにリボンの色が違う。俺たち、新二年生は緑で、紗那たち新一年生は青。制服を見れば、相手の学年が分かってしまうというわけだ。これがどんな意図で導入されたのか、それはあまり考えたくない。どうせ碌な理由ではないと思う。
「な! 何と⁉」
入学式の前に校内に潜り込んだのがバレたら母様に叱られてしまいます、と紗那は俺の腕に縋りつく。
「この三月の間、制服を受け取ったのをいいことに、母様に隠れてこの校内を物色していたことも……上手く上級生の間に紛れられたと思ったのに……」
「校内を物色……?」
「いえ、校内を散策していたことも……」
明らかに怪しい言葉を聞いたような気がしたのだが。
「とにかく、これが知れたら大変なことになってしまいます!」
紗那は、俺に泣きつく。これでは、まるで俺が紗那を別れ話のもつれか何かで泣かせているシチュエーションの図だ。
「おい紗那、人が見てるぞ、離れろ……」
俺が言うと、紗那は案外素直に離れた。
「……この鬼門院紗那、年甲斐もなく取り乱してしまいお見苦しいところを……」
「娘を泣かせているのは貴様か‼」
予想通り、厄介なことになってしまった――。
唯一、俺の予想と違っていたのは、それが生活指導の教師でも、屈強な体育教師でもなかったということだった。
目の前に立っているのは、俺や黒瀬よりも長身の少女。
その双眸からは、鋭い眼光を放っている。
それが向かう先は、紛れもなく俺たちだ。
御影千桂。
弱冠一年生ながら、蕭条学園剣道部のエースにして、それまで無名だった部の名を一気に全校生徒に知らしめた存在。
次期部長となることは、ほぼ確実視されている。
つまり、敵に回しては命が危険な種類の人間だということだ。
「大丈夫か、娘」
御影は、紗那を抱き起こすようにしながら問う。
もう一つ言っておく。
御影の口調はいつもこんな感じだ。
時代劇に出てくる侍の真似を幼少の頃からしていたら、いつの間にか身についてしまったらしいとの、まことしやかな噂もある。
紗那は、自分を助け起こす御影のただならぬ気配を察知して言った。
「あの、何か勘違いを……」
「貴殿は心配せずともよい」
安心させるように言って、御影は俺たちの方に向き直る。
「貴様らッ!」
全身から殺気を放って、一喝する。
「純真無垢な娘を手籠めにしようなどと悪辣千万! 二人まとめて叩き斬ってくれる!」
そう言ってどこから持ち出したのか、漆黒の長髪を振り乱しながら、御影は竹刀を振り上げて俺たちに挑みかかって来た。
俺は、身をよじってそれを躱す。
しかし黒瀬には、特に逃げようとする気配もない。ただ黙って御影を眺めているだけだ。
あまりの迫力に、身動きができないでいるのか――?
違う。
完全に御影に見惚れている‼
気おされているわけではなかったのか。それはそれで糞度胸だ――。
こういうときに限って黒瀬は役に立ってくれない。
俺――こんなところで死ぬのか?
一瞬でもそう思ったのは、誇張でも何でもない。