私のことは、放っておいて
「姫ヶ崎」
姫ヶ崎の部屋のドアの前に立ち、俺は声を掛けてみる。
「いるか?」
返事はない。
中に向かって何度か呼んでみたが、それは同じだった。
俺を、それほどまでに拒絶しているのか――。
だとすれば、なおさら会って話さなければならない。謝らないといけない。
「開けるぞ」
俺は、ドアのノブに手を掛け、ゆっくりとそれを押し開く。
女の子の部屋に入っていくのには躊躇いも覚えるが、今はそれよりも大事なことがある。
明るい色の物でまとめられた、いわゆる「女の子の部屋」。
決して物が少ないわけではないが、すっきりとした印象だ。あいつ、なかなか几帳面なんだな――俺はそんなことを考える。
でもその部屋の主は見当たらない。
「姫ヶ崎……?」
俺は、姫ヶ崎の部屋の中を歩きまわって、部屋の主を探した。
どこかに隠れているのではないか、という可能性に思い当たったからだ。どこかで蹲っているのではないか――。
しかし、彼女の姿はこの広いとはお世辞にも言えない、ボロ寮の一室のどこにもなかった。
「どっか出掛けてるのかなあ……」
俺は、諦めて姫ヶ崎の部屋を出る。
屋上かどこかにでも、いるのかもしれない――。
ドアを後ろ手に閉めて、廊下に出る声を掛けられたのは丁度その時だった。
「これはこれは、杉内鳳明じゃないか」
鷹司知紗季。今、一番出会いたくない人間と出会ってしまった。
そういえば――鷹司の部屋と姫ヶ崎の部屋は、隣り合っているのだった。
すっかり失念していた。あのゴキブリ騒動以来。
鷹司に、女子の部屋から出て来たところを見つかってしまう。かなりまずい状況である。考えうる限り、最悪かもしれない。
「あ、いや、これは……」
「姫ヶ崎君なら、さっき家庭科室に向かって行ったぞ。今この部屋に、姫ヶ崎君はいない。帰って来た気配もない。でも、その部屋からなんとびっくり、杉内鳳明が出て来たというわけか」
鷹司は、冷酷な視線を俺に容赦なく浴びせかける。
「この数少ない事実から導き出せる、単純な結論――君は、留守中の女子の部屋を物色していたというわけだ。一体何が目的だったのかな? 枕か? 下着か? それとも制服か?」
「そんなんじゃねえって……ともかく、俺は急いでるんだ。その全部はずれだということだけ言っておく」
俺が立ち去ろうとすると、鷹司が背中に向かって声を掛ける。まだこんな問答をやるつもりなのか――。
こいつに見つかった時点で予想しておくべきだったが。
「ならば歯ブラシか? きっとそうだろう。なかなかマニアックな趣味をお持ちのようだな。君が急いでいるというのなら、私も急いで連絡させてもらうが――」
こいつが話している間、ずっと立ちどまっていなければならないというわけではないのに――。
なぜか、こいつの声には俺の動きを止める作用があるようだ。
カレー大会の時とは、また違った意味でだが――。
さすがは蕭条の新女王。
そんなことを言ってる場合じゃないんだ、俺は――。
「――生徒部か? 警察か? それとも風紀委員がいいか? ああ、そうか、同じクラスの霧ヶ峰君が一番いいかも知れないな。じゃあさっそく連絡させてもらうぞ。何、案ずることはない。なるべく手短に済ませるからな。それに、姫ヶ崎君はきっと夕方まで帰ってこないよ――」
霧ヶ峰に連絡されるのが一番嫌だ――。
それ以外はどこもどっこいどっこいだが、どこに連絡されても困ったことになる。
俺はただ、姫ヶ崎の様子をうかがいに来ただけなのに。
「お、俺は何も触っちゃいないし盗んじゃいないんだよ!」
そう言って、姫ヶ崎の部屋から逃げるように立ち去るしか方法はなかった。
でも――。
なぜ鷹司に、姫ヶ崎が夕方まで帰ってこないことなど分かるのだろうか。
姫ヶ崎が自分でそう言ったのか?
まあいい――今は、姫ヶ崎と会って話すことが先決だ。
昇降口を通り、特別教室の集まる棟へと俺は駆け入っていく。
土曜日の夕方の、それも実験室などが集まった建物だ。
当然、人影は見当たらない。
たった一人を除いては――。
姫ヶ崎聖花。
俺は、家庭科室のドアを数ミリ開けて、様子をうかがうことにした。
彼女は一人、指に無数の傷を作りながら、得体の知れない、だが昨日の例のカレーよりは多少は食べ物に近い物体を無数に作り上げている。
彼女の使っているテーブルに所狭しと並べられている皿に、ことごとく何かが載っているのを見ても、 姫ヶ崎が今日ずっと料理の練習をしていたことは分かった。
姫ヶ崎は、自分の部屋に籠っていたわけではなかった。
霧ヶ峰の行ったときは、確かにたまたま部屋にいたのかもしれない。
でも、それからずっと、この家庭科室で、一人――。
「姫ヶ崎――」
俺はドアを開け、家庭科室の中へと脚を進める。
そして、姫ヶ崎の使っているコンロの前に立った。
姫ヶ崎が、驚いた眼で俺を見る。
「あ。杉内君……」
「これ……お前が全部作ったのか?」
姫ヶ崎は少し躊躇して、恥ずかし気に「うん……そう」と答える。
「失敗ばっかりだったけど。あ、でもね、食材は全部自分で買ったから心配しないで……」
「ううん」
俺は首を振る。
そういうことを言いに来たわけじゃない――。
「良く頑張ったんだな」
「上手くできるようにならなきゃいけないと思って、一日やってみたんだけど、やっぱりまだまだだよ」
この調子じゃ、あと一年半くらいかかるかもね、と姫ヶ崎は苦笑する。
「姫ヶ崎――」
俺には言っておかないといけないことがあった。
「昨日のことで気を悪くしたんだったら、謝る」
「杉内君……」
俺の行動が意外だった、というように、目を見開く姫ヶ崎。
「別に、料理がすべてってわけじゃないんだ。そろそろ日も落ちてきたし、もういい時間なんじゃないか。な、一緒に帰ろう、姫ヶ崎」
「うん……」
姫ヶ崎は頷くが、それは百パーセントの同意ではないことくらいは俺にも分かった。
いや――姫ヶ崎は同意してすらいない。
姫ヶ崎には、家庭科室を出るつもりなどないのだろう。
「あと、私昨日のことは全然気にしてないから……杉内君がそんなこと、思う必要ないよ」
首を振って言う姫ヶ崎。コンロの火は掛けたままだ。
「私……自分の実力も分かってたし、それでいいって思ってた。でも……私……」
やっぱり悔しい、と姫ヶ崎は呟く。
「だから、杉内君のせいでも、紗那ちゃんのせいでもないし――」
傷ついてなんかないよ。
そう姫ヶ崎は言った。
暗い顔をして――。
「だから、これは私の意思でやってるの」
「でも――」
「私のことは、放っておいて」
姫ヶ崎の口調は、決して激しいものでも、強いものでもなかった。いつもの姫ヶ崎と、それは変わらない。
でも、それは間違いなく拒絶の言葉だった。
姫ヶ崎は、たった一人で解決しようとしている。
それは、彼女の強さの表れなのかもしれないし、悪い事でも何でもない。
それでも――。
なぜか俺は寂しかった。
姫ヶ崎のために何が出来るわけでもないのに。
「――そうか」
俺は呟き、「でも、暗くなったら寮には戻って来いよ」と言い残して、家庭科室を去った。
姫ヶ崎の鍋を火にかける音だけが、無人の廊下に響いていた。




