生徒が困っているときに足を差し伸べるのは教師の仕事ですよ?
「一学期始まってそうそうに遅刻とはいい度胸ですね」
担任の賀茂川は俺たちを立たせたまま言う。
「……すんませんでした」
「今日は見逃してやりますが、これから遅刻一回に付き一日私のパシリとして使いますから、よく頭に叩き込んでおいてくださいね。いいですか?」
爬虫類系の眼で見据えられると、背筋が俺の意思に反して自然に伸びてしまう。やはり、この眼は苦手だ。
「わ……分かりました」
「分かればよろしい」
明日から、それを態度で示してもらいますからね……と言って、賀茂川は席を立つ。
「早く、教室に戻りなさい」
賀茂川は、そう言い残して印刷室へと向かった。
「普段の賀茂川先生もいいけど、怒った時の賀茂川先生もたまんねえな」
「おい……」
黒瀬興太郎――こいつは鬼のようなメンタルをしていると思うことがよくある。特にこんな時。
「敬語を使いながらの言葉責め……これは、遅刻者が増えるわけだ」
「それ教師としてまずいんじゃないか……」
しかもパシリって。教師が使う言葉ではないと思うんだが。
「それにあの眼――背筋がゾクゾクするようなあの視線……」
それって単に賀茂川の眼が怖いってだけの話じゃないか? と俺は思う。でも絶対同じ感覚を味わったなんてこいつには言わない。
「何を突っ立っているのですか」
しまった――賀茂川に見つかった。
「三秒以内に教室に戻らないと、学年全員分のプリントを配ってもらうことにしますよ」
つまり、プリントが五〇〇枚。
「あ、たかが五〇〇枚などと、くれぐれも軽く考えないでくださいね。今日は一人一三枚ありますから」
こんなに紙を使って、どうするつもりなんでしょうか、と賀茂川は誰に言うともなしに言う。
「つまり、六五〇〇枚……」
紙は、意外と重い。一枚はわずか四グラムだそうだが、全部で二・六キログラム。ん? 二人で運べば意外と軽いじゃないか……。
いや――職員室と教室は、棟を三つ挟んでいることを忘れていた。教室の入っている、「教室棟」と一般に呼ばれている建物は、職員室のある事務棟からはかなり離れている。
「話している間に三秒経ちましたね」
そう言って賀茂川は、俺と黒瀬の目の前に進み出てプリントを次々に二人の手の平に載せる。
「え……これを一度に運ぶんですか」
「当たり前です」
賀茂川は、何を言う、といった表情を浮かべる。
「そうしなければ、罰にはならないでしょう。私が後ろからついていきますから。もし転びそうになったら、尻を蹴って紙を落とさないようにしますから安心してください」
ボディブローのように体力と精神力を削っていく、と言うことか。賀茂川に凝視されているだけで、かなり精神力は吸い取られる。
賀茂川は、全部のプリントを俺たち二人に持たせると、「早くしてください。生徒を返せないじゃないですか」と言う。
「はいはい……分かりましたよ……」
「杉内……と言いましたか。君の態度は反抗的ですね。よろしければ、三年生のプリントも配ってもらいますが……」
そう言ってさらにA4の紙を俺に持たせようとするので、「いえ、結構ですから。早急に配ってきますので」と言って、慌てて黒瀬とともに職員室を出た。
「この変態が……」
プリントを運びながらにやける黒瀬に向かって、俺はそう呟く。
プリント六五〇〇枚が、三キロ未満なんて絶対嘘だ。もっと重いように感じる。腕が疲れて、自然に落ちそうになる。
背後に誰かの気配を感じた、その次の瞬間――。
「痛っ!」
賀茂川楓子……本当に生徒の尻を蹴りやがった。
「あなた今転びそうになってましたね? 私が体勢を立て直してあげなければ、プリントを落としているところでしたね」
「これって、体罰じゃないんですか?」
俺が抗議すると、賀茂川は「何を言っているんですか? 生徒が困っているときに足を差し伸べるのは教師の仕事ですよ?」と言う。
「足なんて差し伸べなくていいですから……」
「では何を差し伸べればいいのですか? ブラックジャックとか?」
「物騒なこと言わないでください……」
腕は疲れるし尻は痛いし、とても会話していられる状況ではないのだが、賀茂川は無遠慮に俺に話しかけてくる。
「もっと早く歩けないんですか?」
後ろから賀茂川にせっつかれる。
「賀茂川先生、なんで俺ばっかりなんですか」
俺は、賀茂川に尋ねた。
「黒瀬だって同罪でしょう」
「黒瀬は杉内ほど反抗的ではありません」
賀茂川はプリントを運びながら薄ら笑いを浮かべている黒瀬に冷たい一瞥をよこして言う。
「それに、黒瀬にはこんなこと罰にもなっていないようですから。彼は運動部でしょうか。重いコンダラーを引きずりながら階段を十三往復させられているとか」
十三階段ですね、と賀茂川は言う。
「あれはローラーであってコンダラーなんて言わないとか、そんなことしたら階段が潰れるとか、そう言った類の気の利かない突っ込みは禁止ですよ?」
言おうと思っていたことを先回りして封じられるのは、意外と精神負荷が大きいということを実感する。
「いずれにせよ、黒瀬にはもっと重い罰が必要なようですね……」
そんなことをしても黒瀬を喜ばせるだけで、全く逆効果だということを、俺は敢えて賀茂川には言わないことにした。精々、変態の対処に困惑するがいい。