俺の姫ヶ崎の料理がこんなにまずいわけがない
「紗那ちゃん、昨日の夜から何も食べてないんだよね……きっと、それで……」
全く別の方向の心配を、姫ヶ崎はする。
確かに、紗那はそう言っていたが――それでいきなり倒れるなんてことはまず考えられないだろう。
でもそれを考えるのが、姫ヶ崎の天然たるゆえんだ。
「何か食べないと駄目だよ、紗那ちゃん」
ベッドに横たわる紗那に訴えかけるように、姫ヶ崎は言う。
「いえ、わたくしは大丈夫です、まだ食欲も戻りませんし……」
「でも、栄養つけとかないと駄目だよ」
それはもっと大きな病気の時ではないのか――と俺は思ったが、それを言う前に須甲先生が「無理って言ってる人に無理やり食べさせることもないんじゃ……」と控えめな助け船を送ってくれたので、ようやく姫ヶ崎も引き下がった。
きっと、姫ヶ崎も紗那を本心から心配して、そんなことを言ったのだろう。
でもあいにく、それは今の紗那にとっては何よりまして逆効果だ。
俺は強く思った――姫ヶ崎は、確かに性格も良くて優しい奴ではある。
でも、こいつを台所に立たせてはいけない。絶対に。
俺たちが保健室を後にする頃には、もう昼休みは残り三分の二を切っていた。
あと三人、姫ヶ崎の被害者がいるのを忘れていた。
黒瀬と渡辺、それに甲賀沼。
あいつらも、同じ班だったのだから姫ヶ崎の料理は食べさせられているはずである。黒瀬なんか、顔を蒼白にしながら懸命に口に運んでいるのが俺の席からも見えた。
姫ヶ崎を悲しませたいために――。
顔面蒼白になっている時点で、その目的は果たせていないだろうと思うのだが、天然抜けガールの姫ヶ崎はそれには気づかなかったようだった。
どこまで抜けてるんだ、あいつは――。
ともかく、俺は三人を心配して、昼休み残り十分を切った教室に入る。
黒瀬が机に突っ伏していた。
「大丈夫か、お前……」
俺が傍らに立つと、黒瀬は「ああ、杉内か……」と息も絶え絶えに返す。
「姫ヶ崎さんの料理で俺がこんなことになるはずがない……美少女の料理は無限に受け付ける俺が、こんな痴態を晒すわけがない……」
やはり黒瀬も、姫ヶ崎の被害者だった。
それも、かなり重篤な。
「渡辺も同じ班だったよな、あいつは大丈夫だったのか?」
俺が訊くと、黒瀬は「俺よりはな」と答える。
「あいつ、それほど食ってなかったし……」
確かに黒瀬は、あの班の中では断トツで一番姫ヶ崎お手製の珍料理・暗黒物質を腹に収めていた。
ちょうどその時、教室に渡辺が戻って来たので、俺は声を掛けてみた。
「お前――大丈夫だったか?」
その一言だけで渡辺にはそれが何を指しているのか分かってもらえたらしく、渡辺は「まあ――黒瀬よりはな」と答える。
「黒瀬食いすぎなんだよ」
「美少女の手料理を笑顔で完食できない黒瀬興太郎は、黒瀬興太郎ではない……」
黒瀬興太郎ではない渡辺は、完食できなくても良かったというわけだ。
「でも、あれは姫ヶ崎さんだけの料理じゃないだろ。もしかしたら、俺らが調味料の分量を間違えただけかもしれないし……」
「なるほど」
黒瀬が、机に突っ伏していた顔を上げる。
「そうか。俺たちは、姫ヶ崎さんの料理の邪魔をしてしまったというわけだな……」
虚空に向かって手を合わせる黒瀬。彼の眼には、そこに姫ヶ崎が清楚に微笑む姿が見えているに違いない。
「そうだよ。姫ヶ崎さんがあんな料理作るわけないし。それに甲賀沼も相当怪しかったしな」
なるほど。毒を入れているとしたら、確かにあの四人の中では甲賀沼しか考えられない。
「いや」
でもあくまで美少女無罪説を取る黒瀬は、それも認めるつもりはないようだった。
しかし、多分黒瀬の意見は正しい。甲賀沼は、ほとんど麻婆豆腐の調理には参加していなかった。あの班の料理への貢献度は、百分率で言うと一か二パーセントくらいだろう。
「じゃあ誰なんだよ……」
「多分俺だ。それか渡辺、お前だ」
「俺が触る前にはもう近寄れない状態になってたんだけどな……」
「じゃあ鍋に何か入ってたんだ」
「それか、妖怪か何かか――」
確かに霧ヶ峰の言った通り、姫ヶ崎には「あの姫ヶ崎さんが料理が上手に作れないはずがない」というイメージ――あるいは幻想が、男子たちの間には付きまとっているようだった。
いや――女子にもそれは言える。
「俺の姫ヶ崎の料理がこんなにまずいわけがない……俺の姫ヶ崎の料理がこんなにまずいわけがない……」
「誰の姫ヶ崎だって……?」
こんなことを譫言のように呟きながら教室に入ってくる奴を俺は一人しか知らない。
「いつから姫ヶ崎はお前の姫ヶ崎になったんだよ!」
城南のエリザベス――甲賀沼周だ。
「四十七クール目の第八十八話よ」
どうやら甲賀沼の頭の中では、長大なストーリーが進展しているらしかった――わけもなくただ適当に言っているだけだろう。
「突然地割れの隙間から地底人が秘密裡に建設していた宇宙ステーションが出現し、政府が転覆。そのどさくさに紛れて、姫ヶ崎さんと異国の王女が永遠の愛を誓う……こういうのって、百合って言うのよね」
「それはいいけどお前はどこ行ったんだ⁉」
俺の質問の答えになっていない。
「あと、船は女性名詞だからタイタニックとさんふらわあが衝突しても濃厚な百合シーンと言えるわね」
こいつは多分姫ヶ崎の暗黒物質をほとんど口に入れなかったのだろう。
「ともかく、姫ヶ崎さんがメインボーカルを務めれば、うちのバンドも茶道会館を本気で目指せるのに――そう私は言いたい」
正座してエレキギターを弾くのか……⁉
でも、突っ込んだら負けだ。
甲賀沼の意味の不明瞭な発言から真意を推測するに、姫ヶ崎が中心となって調理をすればこんなことにはならなかったということらしい。
本当かどうかは知らないが。
「黒瀬君も、そう思うでしょう」
「……ああ、うん……」
黒瀬は曖昧な反応を返す。悪名高き美少女ハンター・黒瀬興太郎も、エリザベス佐藤の前では形無しだった。
しかし――。
話の全体を総合すれば。
美少女と美味しい料理は、この三人の頭の中では――いや、ほとんどの人の頭の中では、切っても切り離せない関係にあるらしいということだけは、よく分かった。
そんなに単純なものではないと俺は思うけれど。




