こんなの口に入れられるものではありません
このときのために、今日は朝食を抜いて来たのです、と紗那は言う。
今は三時限目と四時限目の間だから、昨日の夜以来何も食べていないわけか。なんだ、俺と同じだ。
今日の実習は、麻婆豆腐と中華スープ。
家庭科の教科書に記載されている「調理例」そのままだ。
蕭条学園で使われている家庭科の教科書は、一般の高校で使用されているそれと同じものだ。その教科書に従って、授業計画が組まれている。
うちの家庭科の教師が中華が特別に好きだったわけではない。
「なんだか、美味しそうな香りが漂ってきますね!」
ただ一つ、姫ヶ崎、黒瀬、甲賀沼と、渡辺――同じクラスの男子生徒だか、どういうわけか俺とはあまり接点がない――のテーブルからは、一種独特の、異様とも言っていいような臭気が漂っていたが。
黒瀬は、姫ヶ崎の隣でニコニコしているからまあいいだろう。
くじ引きで机を一緒にされた渡辺はいい災難だ。
家庭科の担当教師は妙にくじ引きがお好きなようで、最初の授業が自己紹介と班を決めるくじ引きだった。
いや――もしかしたら苗字がは行の生徒への不利益を軽減するための配慮だったのかとすら思わせる。
姫ヶ崎のテーブルは、この家庭科室の中でそれほど異様な空間だった。
「では、一口ずつ味見させていただきます!」
「おいちょっと待て、盛り付けにはまだ時間が……」
三時限目と四時限目、二時間続きの実習なのだから、その間の時間に侵入しても、完成品が食べられるわけではないのだが――姫ヶ崎のテーブルが失敗したのが明らかであることは別にして。
紗那は、そんな俺の心配をよそに、俺たちの班が使っているテーブルに歩み寄る。
「おい、紗那……」
そして進路を変えると、その隣のテーブルまで移動する。霧ヶ峰たちの班が使っているテーブルだ。
俺が制止する隙も無く、紗那はスプーンを直接中華鍋に突っ込んで小皿に中身を取る。
「ちょっと、あんた何してんのよ⁉」
「熱いですね……これは熱い」
「そりゃ鍋から取ったら熱いに決まってるでしょうが⁉」
それも、火に掛かっている最中の鍋だ。
よくそんなところにスプーンを突っ込もうと思ったな――我が妹ながら不思議で仕方ない。
紗那は、今の今まで中華鍋で加熱されていた麻婆豆腐を、小皿から取って口に入れる。
「はふはふ……」
そんな声を立てながら、やっとの思いでそれを食べたようだが、
「――熱いですね。熱いです」
という感想しか紗那の口からは出てこなかった。
「あんたそんなこと言うためにわざわざ実習に入ってきたの⁉」
霧ヶ峰が紗那の行動にいちいち突っ込みを入れてくれるので、俺は紗那から目をそらす。こんなことなら、自分の妹だなんて言わなければよかった。
「霧ヶ峰様の作る料理は、熱くて味がよく分からないと……」
「ちょっと、そんな感想メモなんかに取らなくていいから!」
紗那は、例の小さなノートを出して、今口に出した内容を書き留める。そんな感想が何の役に立つのか、俺にはさっぱり分からない。
「さて、それでは気を取り直して……!」
紗那はあたりを見渡し、「御影様のお料理を……!」と言う。
彼女の眼にも、御影の長身はすぐに入ったようだった。何せ、一七五センチもある。このクラスで、女子の中では勿論全体でも一番か二番くらいに身長が高い。
さすがに今は竹刀を調理具置き場の脇のスペースに預けているが、それが彼女のものだということも明白だ。
紗那は、御影の班のテーブルへと、つつつ、と歩み寄って行った。
「御影様! お料理の進捗はどうでしょうか!」
「紗那殿か。今のところ上々だな。結構うまくいったと自負している」
それも、磯谷殿の御蔭だがな、と御影は微笑みを浮かべて言う。
彼女のテーブルには、一人料理の上手な女子がいるらしい。
「どうだ、紗那殿も食べてみては」
「え⁉ いいんですか⁉」
紗那は、本人の許可を得たことに気をよくして、スプーンをまたもや直接中華鍋に突っ込んで、それを小皿に取ることも面倒になったのか、直接口に運んだ。
「ふう……熱い熱い。このスプーンが熱されていい感じに熱いですね」
テレビのグルメレポートか何かのつもりなのか、それにしては有益な情報が殆どないコメントを紗那はいちいち残す。
それも、咳き込みながら。
「けほっけほっ……訂正します。こんなの口に入れられるものではありません」
「何⁉」
御影が驚きの声を上げる。
「それほどまずかったのか⁉ しかし、磯谷殿の料理がまずくなるはずはない……私がどこかで、調味料の分量を間違えたのだろうか……」
真剣に考え込む御影に、紗那は「あ、スプーンのことですから、お気になさらず」という。
「何だ、そういうことか。安心したぞ。そういうことは先に申されよ」
「スプーンが熱くて、お味の方はよく分かりませんでした」
「そうか……それは残念なことだ」
別に御影が残念がることはないと思うのだが。
それに、紗那には学習能力というものはないのだろうか。我が妹ながら、とんだ馬鹿妹だ。前から知っていたが改めて目の当たりにさせられた。
「では、気を取り直してもう一口……」
「紗那殿、そんなに一人で食されては私たちの分がなくなってしまうぞ」
新しいスプーンを鍋に突っ込もうとする紗那を見て、御影が慌てて咎める。
「私たちに昼食を抜かせるつもりか」
「あ、そうですね。それは失礼しました」
そう言って紗那はノートを取り出し、「スプーンが熱くてよく分からなかった。再検討が必要か」と記した。声に出して書くから、俺にも書いている内容が筒抜けだ。
俺はこいつがメモを取る意味がますますもってよく分からなくなった。
「では、次へ参りましょう」
そう言って、鷹司のいるテーブルへと移動する。
「鷹司様の料理を味見させていただきます!」
紗那は、休み時間が残り五分を切っているというのに家庭科室を出る気はさらさらないようだった。




