兄様を馬鹿だなんて!ひどい!
「そういや今思ったんだけど、霧ヶ峰ってなんか母親っぽいよな」
黒瀬が唐突に言うので、さすがの霧ヶ峰も怒りを忘れて目をぱちくりさせている。
「すぐ怒るし、料理うまいし」
「え……いや、私なんて、そんな……じゃなくて!」
今度は別の意味で顔を赤らめたかに見えた霧ヶ峰が、気を取り直して黒瀬と俺に突っかかってくる。
「あんたらのそういう何気ない価値観がみっとめらんないって言ってんの‼」
出た、霧ヶ峰の「みっとめらんない」。この言葉には、俺たちはいつも苦しめられてきた。
「母親が料理を作ってくれるってのはいいでしょう。私も、お母さんの料理好きだったし……」
「突然そんな告白されても困るんだが」
「話の腰を折らないで頂戴! まあ、それはいいとして。私がみっとめらんないって言ってるのは、母親たるもの料理をうまく作らなくちゃいけないみたいなあんたたちの考え方なのよっ!」
女は料理が出来なきゃだめだなんて、一体いつの時代の価値観なんだか、と霧ヶ峰は腕を組む。
そして二言目には、「全く、男って何でいっつもこうなんだか」と来る。それほど男の経験もない癖に。
料理くらいはできるに越したことはないと俺は思うのだが――女でも男でも。
そういう俺は面倒だから滅多にしないが。でも、できるにはできる。
それにしても――。
こいつは、褒めるのにも一苦労だ。
それに。
「すぐ怒るところはいいのか……」
本人も自覚しているということだろう。
「それはいいとして――良かないけどそんな話してたらあと一時間は使っちゃうから一旦それはおいておくことにして、あんたたち本当に早くしないと昇降口使えなくなるわよ」
霧ヶ峰は、早々に話題を転換して俺たちを急かしにかかった。
「それに、新しいクラスも気になってるでしょう。私と同じクラスにならないか、杉内なんて戦々恐々としてるんじゃない?」
腕を組んで、俺を嘲笑うように言う。
「まあ、私はもう新しいクラス表は見ちゃったからいいんだけど」
「生徒会の職権濫用じゃないのかそれ!」
黒瀬が猛然と反発する。
「それはみっとめられるのか」
「みっとめらんないわけないでしょう!」
霧ヶ峰は、黒瀬を指さして大声を出した。
「会長職の陰になって影の薄い、誰もやりたがらない副会長職を買って出たんだから、そのくらいの特権は認められて然るべきよ」
霧ヶ峰は、胸を張って言う。
胸の前で腕を組んで。
胸の――。
「今胸がないとか一瞬思ったでしょ?」
霧ヶ峰はなぜか黒瀬ではなく俺ににじり寄った。
「ひどい言いがかりだ!」
「私はこれでも気にしてるのよ⁉」
「だから、そんなこと言ってないって……」
霧ヶ峰もまあ悪い人間ではないのだが、規則に厳しい事と、あと一つヒステリックになるのはどうにかしてほしいと思う。
去年一年間ずっとこんな感じだったと言えば、俺の苦労も分かってもらえるだろう。
「もういいわ! あんたら無駄口叩いてないで、さっさと教室に入りなさい!」
「無駄口叩いてたのお前だったと思うんだが……」
「私は始業式の直前までここに立って、遅刻してくる人たちをせかさないといけないの! 無駄口くらい叩かないとやってられないわよ」
「今日は一段と絶好調だな」
黒瀬が俺に耳打ちをするが、霧ヶ峰はそれも見逃さない。
黒瀬の言う通り、今日は絶好調だ。
あるいは、ただの寝不足による疲れハイ。
「そこ! 人の目の前で耳打ちとかしない!」
のんびりしてないで走った走った、と霧ヶ峰が俺たち二人を追い立てる。
「遅刻したら走るのは当然でしょ⁉ 今校門から入って来たあの娘を少しは見習いなさい!」
霧ヶ峰は、校門を指して怒鳴る。
確かに、全速力で走ってくる人影が――。
「ん?」
その人影に見覚えがあることに気づいて、俺は目を凝らした。そして次の瞬間、背筋の凍りつく思いがした。
「あいつ……なんで来やがった」
霧ヶ峰の言った通り、それは女子の制服に身を包んだ人影。
そして、彼女が今日学校に用事がないはずだということも、俺は知っている。
「兄様――‼」
彼女は、俺に向かって全速力を保ったまま突進してくる。近づいてくるにつれて、彼女が常人離れした速度で走っているということがだんだん分かって来た。
そして、俺は彼女をよけきれない、と言うことも。
俺の予測通り、彼女と俺はまともに衝突して、お互いに弾き飛ばされる形になった。
「……馬鹿じゃないの……」
見ると、霧ヶ峰が右手で口元を抑えて笑いをこらえている。
「兄様を馬鹿だなんて! ひどい!」
俺にぶつかって来た彼女は、全身をアスファルトの路面に打ち付けたばかりなのにも関わらず、憤然と立ち上がって抗議する。
「いや、お前のせいだよ……」
「あ、兄様‼」
彼女は、今更俺が右腕を使って身体を起こそうとしていることに気づいたように、俺に駆け寄って来た。
「兄様、お怪我はありませんか⁉」
「あんな勢いでぶつかられて怪我しないわけないだろ……まあ、お前が心配するほどのことじゃないけど」
そうだ。あんな速度でまともに衝突されて弾き飛ばされては、骨を折ったり、軽くても俺のように足を擦りむいたりするのが普通だ。
彼女の身体の構造が、こんな時ばかりはどうなっているのか分からなくなる。
「俺と一緒のはずなんだがなあ……」
だって、俺と血が繋がっているわけなんだから。
「ん? 兄様、何か言われましたか?」
俺の顔を覗き込みながら、首をかしげている彼女――彼女が俺の妹、鬼門院紗那だ。