私の知らないことを君だけが知っているとしたら、それは罪悪だとは思わないか?
図書館には、図書委員二人と鷹司知紗季の三人しかいなかったらしい。
少なくとも、俺の入った時はそうだった。
つまり、広い図書館に、利用者は俺と鷹司の二人きり。
これでは、鷹司の観察にならない。図書館にもっと人がたくさんいれば、気づかれないように動きを追うこともできたのだが。
鷹司と一対一で話す気など、さらさらなかった。
今の高校生は図書館を使わなさすぎるんだよ――と俺は内心悪態をつく。俺もほとんど使ったことはないから、他人のことは言えたものではないが。
鷹司は、書棚の前をうろついている。本を選んでいるのだろうということが分かった。閉館時間が近い割には緩慢な動作だ。そこには焦りも見られない。
クラスメートになるというのに――そして信じられないことに、婚約者候補にもされてしまったのだが――黙って見ているだけでは逆に不審な奴だろう。俺はそう思って、鷹司に声をかけてみることにした。
「あの、鷹司さ……」
鷹司は初めて俺に気が付いた、というように俺に視線を移す。まるで鷹のような視線だ。
睨まれたと理解するのに数秒かかった。
「同じクラス、だな」
鷹司の名前を知っていたのがそんなにおかしかったのか?
それとも、やはり話しかけたのが間違いだったか。
「私の邪魔をしないでもらえるかな。どこの誰だか知らないが」
明らかに後者だった。
しかもどこの誰かって――今、同じクラスって言っただろうが――と内心悪態をつく。
「図書館では静粛にする。小学校で習わなかったのか? しかも、掲示もしてあるだろうが。君は文字が読めないのか?」
文字が読めないのに図書館に来るとは、珍妙な奴だな、と冷笑するように言う。
「悪かったな」
俺の口調も自然と反抗的になる。
「あいにく一言も発しちゃいけないなんて教わってねえよ。それに掲示も読める」
「そうか。君はそれを知識としては持っていて、そして文字も読めるが、意味が理解できないということだな」
鷹司は言って、書棚に視線を移す。
「用がないのならさっさと帰ったらどうだ。文章の意味が取れない奴が、こんなところにいたって仕方ないだろう」
「お前な……」
用がないなら帰れというのも理屈かもしれないが、やっぱり納得は行かない。
これ以上邪魔をすると本気で怒りを買いそうなので、俺はおとなしく退散することにした。
「そこの君……」
その癖俺には話しかけてくる。俺は無視を決め込むことにした。図書館では静粛にしろと言ったのはどこのどいつだ。
俺が振り返らずにいると、鷹司は「そこの君だ、そこの君」と俺に接近してきた。
「この部屋には、私と君しかいないだろう。この状況で私が話しかけるとすれば、それは君に向かってであるということが、周りの状況から推測できなかったのか」
だとすれば、君はもっと周囲に気を配って生きた方がいいな、と鷹司は言う。
俺は仕方なく振り返ることにした。
「何だよ」
「人に話しかける時は、まず自分から名乗るという発想には至らなかったのか?」
自分から名乗るのは、人に名前を訊くときだったはずだ。
まあいい――俺は鷹司の名前は知っていたわけだし。
「……杉内、鳳明だ。俺は杉内鳳明」
「ふうん」
鷹司は、さして興味もなさそうに言う。
というかこいつも人の名前訊いたのなら自分の名前くらい言え。
「今君が何を思ったか知らないが、君は私の名前をすでに知っているのだから、わざわざ言を弄する必要もないだろう。単なるコミュニケーションのためだけに割かれる言葉、ためにする会話は意味のないものだよ」
君はそれを考えたことがあるか? と、挑戦的な目で問いかける鷹司。
――だからお前がそれをしてるんだよ今。
「私も君と円滑なコミュニケーションを取るために名前を訊いたわけではないよ。私はそう言ったことには興味がないんでね。君は誤解しているかもしれないが」
「じゃあ、何でだよ……」
「私が君を知る以上に君が私を知っているという状況が許せなかったからだ」
要はただ知りたかっただけなのか……?
「君の知らないことを私が知っていても特に問題はないが、私の知らないことを君だけが知っているとしたら、それは罪悪だとは思わないか? これはあり得ない仮定だが、仮に私がそれを許すとしても、世界がそれを許すだろうか。まあ、世界が一貫した摂理に従って動いていると仮定した場合の話だが」
随分と自分勝手な理屈だ。
しかも世界なんてものを持ち出してきた日には――。
俺は、多少うんざりして返す。
「分かったよ、名前が知りたかったってことなんだろ」
「まあ、そういうことだ」
鷹司は意外にもあっさりと引き下がった。
「ところで君はここに何をしに来た?」
鷹司は、腰に手を当ててやれやれ、と言ったポーズで問う。
「何をしに、って……それは図書館なんだから、本を返しに来たに決まってるだろ」
「それは違うな。図書館に勉強をしに来る生徒もいるぞ。本を借りずに、読みに来る者だっている。勿論、返す者がいれば借りる者もな。図書室に来たからと言って、本を返しに来たとは一概には言えないだろう」
それは君の了見の狭さだよ、と鷹司は言う。一言一言がやけに癇に障る奴だ。蕭条の新女王の名は伊達ではない。
「それに、本を返しに来ただけだったらなぜここに来た? カウンターで返却処理をしてもらえば済む話じゃないか」
「それは……」
お前が俺の婚約者候補になってるから来ました――なんて言えるわけがない。
「俺だって、本くらい読むぞ」
「なるほど。本を借りに来たというわけだな。でもあいにくだな。ここの本は借りることはできないぞ。もっともここにある本が、君みたいな人間に理解できるとも思えないが」
確かにそうかもしれない――学術書の、それも貸し出し禁止になっているような本ばかりが、ここの書棚には並んでいる。
「貸出禁止にするまでもなく、私のようなもの好き以外は誰も借りないと思うがな」
多分この辺りは、教職員向けの蔵書がまとまっているエリアなのだと思う。賀茂川のような不届きな教師が、これらの蔵書を私物化してしまうことを恐れて貸出を禁止していることは想像がついた。
でも、どうしてこいつがそんなものを。
俺が不審な目で彼女を見ていたのに気づいて鷹司は続ける。
「あまり見くびるなよ、少年。文字が書かれていて、その内容を理解できないこの私ではない」
君とは違うんだよ、と雄弁に語る視線を俺に送る鷹司。
こいつはいつもこんな感じなのだろうか。人を馬鹿にして、一段上に立ったような物言い。
だとしたら、あまり一緒に暮らしたくない奴だ――。




