51.内なるざわめきと決意
天頂に浮かぶ月が世界を見下ろしている。
降り注ぐ月光は僅かながら闇を払い、どこか神秘的な景色を作り出していた。
ヴィルブランド領の領都トルエン。その領主の館の庭で、緑のドレスを纏った女性が椅子に腰掛けて月を見上げていた。傍らには剣が立てかけられている。剣身の根本には青い十字の紋章が彫り込まれており、ヤスリで削られたように荒い断面を晒していた。
赤い髪に青い瞳の女性ーーセリンは、雑草に埋め尽くされた庭でたった一人だった。周囲には人の気配がない。
部外者が見れば美しい姿で人を誘う亡霊に見えるだろう。今のセリンはそれほどに美しく、同時に不気味な空気を纏っていた。
そよ風に揺れる草の音で満たされた庭に、獣の足音が混ざる。ニトローナへ別れを告げたセルロゥが戻ってきたのだ。
足音に反応しないセリンの隣へ移動したセルロゥは、そこで四肢を畳んで伏せの姿勢を取る。
庭は再び草がこすれ合う音に包まれた。それから数分後、月を見上げていたセリンの顔が動き、隣に伏せているセルロゥへと向けられる。
「戻ってきたんだ」
意外そうな主の声。セルロゥは畳んでいた四肢を伸ばして椅子に座るセリンの前に移動すると、主の膝へと顔を乗せる。
その行為はセルロゥの撫でろという合図だ。ただしそれは三年前までの話だった。
今のセリンにはどのような結果になるかわからない。
魔族に変異した姉を殺そうとしたセリンが、犬にしか見えない魔族のセルロゥ相手にどんな反応をするのか。最悪傍らにある剣で切られることも、セルロゥは覚悟していた。
セリンは薄く細めた目でセルロゥを見下ろしている。そしてどこか躊躇うように手を動かし、セルロゥの頭を撫でた。
「……久しぶりだね、セルロゥ」
懐かしげに呟くセリンの口には小さな笑みがあった。
セルロゥは喜びに尻尾を振り回し、自身の頭を撫でる主の手に頭を擦り付けた。
それはセルロゥにとって至福の時間であった。
ニトローナと東への旅に出てから三年と少し。旅立ちの際に言われたセリンの言葉を忠実に守り、ニトローナと共に帰還を果たした。
ニトローナの昏睡した三年は長く、何度城を飛び出してセリンの元へ帰ろうと思ったことか。だがその度に主の言葉を思い出し、ニトローナの目覚めを待った。
そしてようやく再会したのだ。例え主が姉に斬りかかるほどに変化していようと、セルロゥにとっては敬愛する主との再会だ。喜びを全身で表すのは当然だった。
ーーだが、
「ぐっーー痛っ」
セルロゥの頭を撫でていた手が離れ、セリンは苦痛に表情を歪めた。
椅子に座りながら屈みこむような姿勢になったセリンは、両手で頭を抱えて苦しみだした。
「あぐぅっ」
突然苦しみだした主にセルロゥは一体何が起こったのかと慌ててしまうが、犬の身では何も出来なかった。
セリンは姿勢を崩して椅子から落ち、雑草の生えた庭で頭を抱えて蹲ってしまう。セルロゥは苦しむ主を見て、深夜だろうが関係なしに高い吠え声を上げた。
犬の自分ではどうしようもないが、人間ならどうにか出来るかもしれないと、邸宅に向かって呼び声を上げたのだ。だが闇に包まれた邸宅から誰かが出てくる気配はない。どの窓にも明かりが灯らないところを見ると、使用人は誰も居ないようだった。
苦しむ主に何もしてやることはないのかと、セルロゥは無力感に包まれる。
こうなったらセリンに切られる覚悟で体を巨体化し、街中に声を響かせようかと考えたところで、背中を撫でられた。振り返ると、額に汗を浮かべたセリンが小さく笑みを浮かべていた。
「もう、大丈夫だから」
そうは言うものの、時折顔を歪ませている様子では信じられない。多少は苦痛が収まったのだろうが、未だ痛みに苦しんでいるのは明白だった。
「よくあること、だから」
痛みに乱れた呼吸が収まると、セリンは大きく息を吐いてセルロゥの頭を撫でた。
「大丈夫だよ」
セリンは安心させるような優しげな声をセルロゥに向ける。だがセリンは立ち上がらない、というよりも立ち上がれないほど消耗しているように見えた。
一体どれほどの苦痛だったのか理解できないセルロゥには、セリンの傍らにいることしか出来ない。これがニトローナだった場合ならどうしただろうかと、半ば無力感に包まれ始めたセルロゥを、セリンは抱き寄せる。
「ありがとう、セルロゥ。もう大丈夫だから、ね?」
前足だけを立てた体勢でセルロゥはセリンに抱擁される。
魔族として傍らにいることは叶わず、犬としてのみ侍ることを許される。それはセルロゥにとって酷くもどかしいものだったが、自分が斬り殺されるわけにはいかない。絶望も葛藤も押し殺してセリンから離れたニトローナのことを考えれば、この程度に耐えられないようでは合わせる顔が無いのだ。
どれほどの無力感に襲われようとも犬として主人の傍らに居続ける。セルロゥは覚悟を決めた。
そしてーー
「うん。大丈夫。必ずやり遂げるから」
セリンはまるで見えない第三者に話しかけるように、熱のこもった言葉を紡いだ。
ゾワリと、全身の毛が逆立つような悪寒がセルロゥの全身を包む。自分を抱擁する主は一体何に向かって話しているのか。
「私がやり遂げて、全部取り戻すんだ。ずっと昔の人でも、とても強かった母様でも出来なかったことを、私は絶対にやり遂げる。そして全部取り戻すんだ。父様も、あの人も、あの子も。だから私が魔族を殺すところを見ていてね。うん、もうすぐだよ。もうすぐ魔族を全部全部殺してやるんだ。私が勇者として人間の敵をーーこの世界から消し去ってやる」
抱擁で顔の見えないセリンはどのような顔をしているのか。
魔族を殺すという言葉には喜色と狂気、そして憤怒が混じっており、小さな笑い声すら聞こえてくる。
三年という時間を眠り続けていたニトローナは酷く後悔していた。
そしてセルロゥも後悔することになった。
何故三年もの間、主の傍を離れる選択をしたのか。
何故主の願いよりも、主の傍にいることを選ばなかったのか。
何故あれほどの時間を無為に過ごしてしまったのか。
全ては遅すぎた。
敬愛する主人は、内に理解できない『何か』を宿してしまっていた。
セルロゥには新たな決意が必要だった。
主の傍らで共に歩み、道の先にある結果次第では主の意に背く決意が。
その代償は命だろう。だが、主が進むべきではない道を進むことを命一つで止められるのなら、安いものだ。
ーーすまぬ友よ、俺が死んだ後、主を頼む。
死を覚悟したセルロゥの思いは、この地を離れるであろうニトローナへと向けられていた。
心折れた友が、いずれ戻ってくること信じて。
今更ですが、頭の上に獣耳を生やしたぐらいの獣人って、ファンタジー系の作品(主に漫画やゲーム)では必ずと言っていいほど長髪で頭の横が隠れているんですよね。この小説の場合は後天的に獣耳になっていますが、生まれながらの獣人だと頭の横が毛で覆われているのか、それとも耳の部分だけ毛がないのか……。一体どっちなんでしょうかね。




