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50.愚者の後悔



 どこをどう歩いたのか。ただ足を止めてはいけないという思いだけで夜の街を歩き続け、気が付くと目の前に巨大な壁が立ちふさがっている。街の外壁だった。

 これでは進めない。

 どうするべきかと悩むことすらせず、ニトローナは壁に掌を当てる。通らないのなら壊せばいい。

 街を守る壁を壊せばどんな結果をもたらすのか。

 三年ぶりに使う魔術に掌が耐えられるのか。

 そもそもこれほどに分厚い壁を壊せるのか。

 全てがどうでもよかった。だからニトローナは背後にいる存在に声をかけられるまで気づかなかった。


「まテ」


 喋ることが不自由な独特の口調。意識の片隅で聞き覚えがあると感じ取り、声の主へと振り返る。

 どこか悲しげな雰囲気のセルロゥがいた。


「街を出ルノか?」


 ニトローナが頷くと、セルロゥは大きく息を吸い込んだ。すると筋肉と骨が軋むような音を鳴らしながら、セルロゥの体が巨大なものへと変化していく。

 巨体となったセルロゥは軽く鼻を鳴らすと四肢を折りたたんで伏せの姿勢になった。


「乗ッテ毛を掴メ」


 ニトローナは何の思考もすること無く、ただ言われた通りにセルロゥの背中へ跨がって首筋の毛を掴んだ。


「壁を跳ビ越える。シっかリ掴まれ」


 言われて毛を掴む手に力を込め、セルロゥの胴体へ足を絡める。その直後、セルロゥの巨体は壁に向かって飛び上がり、窪みを足場にして街の壁を乗り越えた。奇しくも、その場所はニトローナとセルロゥが街へ侵入した場所だった。

 町の外へと着地するとセルロゥは東へと足を進めた。天上に輝いていた月は雲に半分ほど隠れ、濃い闇が世界を満たしている。

 数分も駆ければ街からは目の届かない森へと辿り着き、セルロゥはそこで足を止めた。


「これかラ、どうスル?」


 背中からニトローナを下ろしたセルロゥは問うてきた。だがニトローナにとってこれからの事など考えられない。既に生きる理由を失っているのだ。今はただ、セリンの要求に従っているに過ぎなかった。


「まずは、王国を出る。そこから先は……」


 考えられない。絶望を抱えたニトローナにとって自分の未来を考える意義を見出せなかった。

 だが、たった一つだけ考えたことがある。


「セルロゥ。お前は、戻れ」


 どれほど拒絶されようと、自分が愛した妹のことを考えずにはいられない。

 セリンはニトローナに対して殺意を向けたが、セルロゥには笑顔を見せていたのだから、拒絶されることはないだろう。


「元よリそのつモりだっタが、いいのカ?」

「お前だけでも、傍にいてやってくれ」


 私は拒絶された。

 その言葉は口に出来なかった。考えることですら全身を震わせる恐怖を呼び起こしてしまう。言葉として口から出すことに耐えられそうもなかった。


「主ハ……主ハ何故お前に剣ヲ?」

「この耳を見せたら、斬り掛かられた」


 セルロゥの目がニトローナの頭頂部に集中する。常人ではあり得ない獣の耳。濃すぎる魔力による変異の結果であり、魔族の証だ。


「つマり、魔族だかラか?」

「そう、なのかもな」


 だからニトローナはセリンの前でセルロゥが言葉を発する事を止めさせた。あの場でセルロゥが犬とではあり得ない行動を取れば、セリンがどう反応するか読めなかった。あの時の選択だけは正解だったのかもしれない。


「ナらば、俺モ切られルかもシレないナ」

「お前が魔族だと知られれば、そうなるだろう」

「ソウか」


 セルロゥはニトローナへと鼻先を近づける。


「これガ最後二なるカもしれなイな」

「ああ…………後を頼む」


 ニトローナのたった一言にどれだけの後悔が込められているのか。

 妹の平穏のために旅に出て、魔獣が跋扈する大森林を抜け、魔族との殺し合いの果てがこの結果だ。

 後悔だけが今のニトローナの全てだった。


「生キてイれば、マた」

「ああ」


 別れの言葉は短く、セルロゥは夜の森から姿を消し、ニトローナは一人残された。

 虫や夜行性動物の気配で満たされた森の中でニトローナは立ち上がり、一本の木の前に立つ。その木は両腕で一抱えにするほどの太さがあった。

 ニトローナはその木へと右手を横から叩きつけた。直後ーー


 森を揺るがす轟音が響き渡った。


 木の幹はまるで食い千切られたように大きく抉られ、半分以下になった幹で上部を支えきれるはずもなく、軋む音を上げて倒木となった。

 その現象を起こしたニトローナの右手はまるで内から弾けたように放射状の傷が刻まれ、水の入った器をひっくり返したかのように血を零している。


 夜の森に息づいていた生物たちは一斉に動きを止め、耳に痛いほどの静寂が周囲を包んでいた。

 一本の木が倒木になったおかげで頭上にはポッカリと穴が空き、雲が晴れた空から差し込まれた月明かりだけがニトローナを照らしている。その月明かり中、掌から落ちる血液とは違う水滴が、月明かりを小さく反射した。水滴は地面に小さな染みを作り出し、その上から次々と水滴が降り注いでいく。


「うぁ……あ…………ぐうぅぅ」


 ニトローナの目から次々と水滴ーー涙が零れ落ちていく。

 脚から力が抜けたかのように膝から崩れ落ち、地面に肘をついて四つん這いになった。口からは嗚咽が漏れ、掌から血液を流し、眼から涙が零れ落ちる。


「う”あ”あ”あ”あ”ぁぁぁぁぁ!」


 様々なものを零したニトローナは子供のように鳴き声を上げた。

 失ってしまった。決して手放してはならない存在を、失ってしまった。

 取り戻してくても、取り戻せない。自分にはその資格が無い。

 

 犬であった時に主を守れず後悔し、次こそは守り抜こうと誓った妹には拒絶され、生きる意味を失ってしまった。前世の記憶を持っていなければこうはならなかっただろう。だがニトローナは幸か不幸か犬としての悔いを残して生まれ変わってしまった。


 後悔から始まったニトローナ・ヴィルブランドの時間は後悔で終わってしまった。

 ニトローナにとって生きる全てだったセリンの隣にいることはもうできない。

 

 一体どこで間違えてしまったのか。何を間違えてしまったのか。

 三年間も昏睡状態にあったニトローナには、その判断ができない。

 だが一つだけ、このような状況になってしまった原因は解っていた。


「これが……これがあるせいで!」


 頭部に生えた獣の両耳。セリンが豹変した原因はこれだ。結果論ではあるがこれさえなければセリンに拒絶されることはなかったのかもしれない。そう思えば、自身の耳であろうと極大の憎しみが湧いてくる。

 

 ニトローナは両手で両耳を握り潰すかのように掴む。


「これさえ、無ければ!」


 耳を頭から離すように引いていく。そうなれば自然と耳と頭皮の繋がった場所が裂けて血に濡れ、そして肉を引きちぎる痛みが頭部に響く。


 ドロリ、と避けた耳の断面から血が溢れ、ニトローナの赤い髪を更に赤く染めていく。

 

 憎しみに染まった表情で頭部の耳を引きちぎろうとするニトローナには鬼気迫るものがあった。

 絶望に対する怒りの捌け口としての自傷。客観的にそう表現できるかもしれない。

 だが感情が不安定な今のニトローナにとって、魔族の証となっている自身の耳を引きちぎることは正当な代償行為だった。

 この耳の存在が妹に対して何らかの悪い影響を及ぼした。それはニトローナにとって罪であり、耳の排除は罰なのだ。


 頭部の耳から、耳自身が裂ける音がニトローナの意識に届く。半ばまで裂けた耳から流れた血は額から幾筋にも別れて顔を血化粧の如く染め上げていた。


 絶望と怒り、痛みと血臭に満たされ、ニトローナは自身の耳を引きちぎるために更に力を込めた。

 だが、そんな彼女の行為を止める者がいた。


「それ以上はやめておけ」


 しわがれた老人の声が背後から聞こえてくる。その響きに、ニトローナは聞き覚えがある。それもつい最近聞いた声だ。

 ニトローナの両手は老人の乾いた手に優しく包まれている。力の入っていない老人の手など、振り払おうと思えば振り払えた。しかし、ニトローナは自分の両手にこれ以上力を入れる事ができなかった。


「先回りするつもりだったのだがな。だが、間に合ってよかった」


 その言葉に、ニトローナは耳を掴んでいた両手から力を抜き、地面に膝をついた姿勢で背後の老人を振り仰いだ。


「イシュ……ランディル」


 ニトローナの囁きのような言葉を、老人ーーイシュランディルは頷いて答えた。


「うむ」


 ニトローナは地についた膝を上げて立ち上がり、老人と向き合った直後に胸ぐら掴み上げた。その表情には憤怒が満ちている。頭部から流れた血化粧で凄まじい形相だった。


「何が、何が間に合ったっていうんだ!? 私は拒絶されてしまった! 守ると誓った妹に拒絶されたんだ! 私が何故旅に同行したか、私が何のために戦ってきたかお前は知っているだろう!? それがどうだ、私はあの子に拒絶され、殺されかけた! 全部、全部この変異が原因だ! お前の治療が原因でこうなってしまったんだ! お前が、お前が私から、生きる理由を奪ったんだ!」


 それは泣き声であり、怒声であり、感情に染まりきった悲痛な叫びだった。

 あらゆる感情がニトローナの口から吐き出され、周囲へ響いていく。


「こんな事にならなければ、私はまだ、あの娘の傍にいられたんだ。だが、今の私ではもう、あの娘の傍にはいられない。……何故、こうなってしまったんだ。命をかけて旅した結果がこれなのか? 私は何も得ていない。全てを、失ってしまった」


 その言葉を最後に、ニトローナから力が抜け落ちる。イシュランディルの胸ぐらを掴む手は解かれ、ニトローナは膝から力が抜けたようにその場で腰を落とした。

 全てを吐き出すかのような叫びが終わり、ニトローナの表情には何も残っていない。心の中が空っぽになっている。頭部の耳と右手から流れる血だけが、死体ではない証だった。


 その姿を見下ろすイシュランディルの表情は、まるでニトローナの責めを受け止めるかのように毅然としたものだった。

 イシュランディルはその場に腰を下ろし、俯いているニトローナの頭の両側を挟むように掴んで顔を挙げさせ、視線を合わせる。感情の色が消え失せた瞳は底なしの穴のようだ。


「ニトローナよ。お主が目覚めた時に儂が言ったように、お主への治療は間違っていなかった。それ以外にお主の命を救う方法がなかったからだ」


 ニトローナの瞳が僅かに揺れた。


「何故、救ったんだ。こんな結果になるのなら、死んでいたほうがマシだ」

「妹のために生きているようなお主が死にたいというのか?」

「そうだ」


 既に結果は出ている。ニトローナの変異は戻らないと、イシュランディル自身が言っていたのだ。ならばセリンとの関係を修復することは出来ない。

 いや、例え変異が元に戻ろうと無意味だとニトローナは考えている。剣を向けてきたセリンの殺意は、人に戻ろうと行動が変わらないと悟らされるほど凄まじいものだった。


「……お主が眠っていた三年の間に、王国も大きく変化している」


 話がいきなり変わったが、ニトローナには変化がない。


「儂らが旅に出て約一年の後、国王が崩御した」


 王国貴族であれば少なからず動揺する話にも、ニトローナの瞳は動かなかった。


「そして、今の王は先王の長子ルドルフ。第二王子であったグラウバーは命こそあるが、幽閉されている」

「……そうか」

「お主と儂、そしてグラウバーとの会話は憶えているな。ルドルフは王国の北西にある教国の言いなりに近い状態だ。ルドルフは敬虔な信徒として王国を使おうとしている」


 言葉を交わしたグラウバーの幽閉。僅かに反応があったが、ニトローナの様子は変わらない。


「王国は戦の準備を始めている。食料と武器の値が上がり、税も加算されている。王国の矛先は東、大森林の先にある魔族の国だ。そしてーー」


 イシュランディルは僅かに言い淀み、毅然とした表情が崩れかけた。だがすぐさま表情を戻し、言葉を続けた。


「お主の妹セリン・ヴィルブランドは、教国により勇者として選ばれた。お主の妹は教国の道具として先陣を切ることになるだろう」


 一瞬の空白。


 そして、ニトローナの瞳に怒りの炎が灯された。

ここから徐々に未回収の伏線や設定が回収されていく、はず。

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