5.ニトローナの過去
その世界は石や鉄で溢れていると言ってもいい。首を真上に向けなければ先が見えないほどの石の塔。往来を悪臭を撒き散らしながら走る鉄の箱。そして数多くの人々。
灰色の視界を持つ『彼女』は数多くの匂いで世界を捉え、生きていた。四本足で尻尾を生やし、全身は毛に覆われた生き物。それが『彼女』だった。
彼女は一人の主人に拾われ、養われ、愛されていた。そのお返しとして彼女も主人を愛し、忠を持って尽くした。
だが主人は死んでしまった。彼女は守れなかった。
主人は何者かに腹部へと鋭利な何かを突き入れられ、大量の血臭と血液を零す。それは主人に害する行為だ。だから彼女は報復として何者かの喉笛に噛みつき、食い破る。不愉快な血液に口内が満たされた。
そこで彼女は自分の腹部が熱を持っていることを意識した。直後に激烈な苦痛。顔を腹部を向ければ、鋭利な何かが自身に突き刺さっていたのだ。激痛により漏れる苦鳴。彼女は自身の死を予感した。
倒れた主人の側によれば、自身と同じような状態だと匂いで理解できた。余りにも濃い血臭は、命が喪失するような匂いがしていた。
「め……ご…………め」
苦痛に顔を歪ませる主人の傍らに身を寄せると、聞き取れない小さな声が耳に届く。そしてまだ暖かいやさしい手の感触が頭を覆った。
彼女はいつもの癖で主人の頬を一舐めする。撫でられたから、舐め返す。愛情を向けられたから、愛情で返す。彼女にとって、主人への愛情を示す行動だった。
そんないつもの行動のおかげか、苦痛に歪んでいた主人の表情が柔らかな笑顔に変わったことを彼女は感じた。
そして二つの命が終わる。
そこで終わったはずの彼女の命が、別の世界で新たに生まれ落ちた。
彼女はニトローナと名付けられ、ヴィルブランド家の長女となる。
以前とは違う肉体。理解不能な言語。幼児特有のぼやけた視界。ろくに移動もできない未熟な四肢。
幼児期の彼女は混乱に次ぐ混乱の中を過ごしたと言ってもいい。何せ四本足だった以前とは感覚が違いすぎた。筋力の発達も遅く、五感も鈍い。
視界が鮮明になる頃、彼女は自身の現状を理解した。かつて四本足で地を駆けていた種族ではなく、主人と同じ人間として生まれ落ちたのだと。
そこからも混乱は続いた。四本足であった頃の意識で動くことは叶わず、這いずることしか出来ない。四肢の感覚に苦労している彼女の周囲の人々は、その光景を見て笑顔を受けべていた。その笑顔が赤子を見守る慈愛に満ちたものだと、慣れない視界で感じ取れたが、彼女には受け入れることが出来なかった。
そんな彼女も一歳になる頃には人間としての感覚に慣れ、二歳になる頃には言葉を少しづつ理解できるようになる。三歳になれば行動範囲も広がり、屋敷の庭を駆け回れるようになった。
そして四歳になり、妹であるセリンが産まれる。
初めは戸惑いを持ちながら赤子のセリンと接していた。例え四年の月日を人間として過ごそうと、彼女の内には別の種族として生きていた記憶がある。そんな彼女にはセリンを自分の妹として見ることが出来なかった。彼女の混乱は四年が経過しても身内でくすぶり続けていたのだ。
変化が訪れたのはセリンが一歳になった頃だった。
彼女は五歳になり、セリンと過ごす時間が日常に組み込まれた。普段は乳母や母に世話をされているセリンだが、屋敷の庭で菓子を食べるときは彼女に抱っこをせがむようになっていた。ほとんど世話をしない自分が何故? と彼女は疑問に思うが、幼子でも親しい存在を理解しているのだろうと考えた。
しかし彼女はセリンに妹として接することができていない。未だ人間を別の種族としてしか捉えることができなかった。
そんなある日のこと。
その日も彼女はセリンを抱きかかえ、侍女から受け取った幼児用に摩り下ろした林檎をスプーンで口元に運ぶ。そんな行動を機械的に行っていた。周囲からはほほえましい光景だったようだが、彼女にとってそれはただの餌付けにしか感じられなかった。その後はいつもどおりに欠伸を漏らしたセリンを屋敷内の寝台へ運び、その傍らで彼女は妹の昼寝を見守る。あとは自由に春の午後を満喫するーーはずだった。
普段昼寝をしない彼女はこの日、セリンを寝台に運ぶと欠伸を漏らした。
セリンの眠気につられたのか、春の陽気に誘われたのか。彼女は眠気に抗えず、セリンの横で同じように眠りに落ちていく。
彼女は暖かな夢を見た。愛した主人に拾われ、共に生きたかけがえのない日々。
そこから一転、夢は闇に覆われる。主人の苦痛に染まる声、むせ返るほどの血臭、死を予感させる喪失の匂い。主人を傷つけられたことによる憎悪に染まった報復。そして最後に瀕死の主人との愛情の交換。
それらが鮮明に再現される幸福と悪夢が、彼女の意識を覚醒させた。
目を覚ました彼女は、自身が大量の汗をかいて呼吸が乱れていることに気づく。視界は涙で歪み、汗で冷える以上に悪夢の恐怖が体を震わせていた。
そんな中、頭にとても暖かな感触がある。
彼女は仰向けのまま視線を上げると、小さな手のひらが自分の頭を撫でていた。手の主は隣で寝ていたはずの妹。セリンは悪夢にうなされている姉の頭を撫でていたのだ。
自身の頭を撫でる小さな掌の優しい暖かさ。彼女にとってそれはとても懐かしい感覚だった。自身が人に生まれ変わるよりも前、人を主人として愛していた頃の感覚が恐怖に震えるの心を満たした。
セリンは幼さゆえに人としての意識よりも本能で動く赤子だ。しかし彼女は、かつて失った主人と同じ優しさをセリンから感じていた。
瞳から歓喜の涙が溢れ、汗に濡れた頬を伝う。そして口からは五歳の子供らしい鳴き声を響かせた。
喪失の悲しみを乗り越え、新たな主を得た歓喜の涙が彼女の頬を伝った。
この日、『彼女』はようやく『ニトローナ・ヴィルブランド』として生まれ変わることができたのである。
序盤の勢いが重要なのに全然話が進まない……\(^o^)/
2016/12/22ちょっと改稿




