48.変貌
ヴィルブランド領の領都トルエンは壁に囲まれている。壁の上は人が行き来出来る程度の幅があり、戦を想定した造りになっていた。壁の上には昼夜に関わらず見回りの兵士が立ち、外から来る者に目を光らせている。
特に南を豚鬼の領域と接している分、南の警備は厚い。西と北はそれに次ぐ警備体制を敷き、北西からくる商人や北の林檎畑に警備の目を向けている。しかし残りの東は他の三方に比べるとおどろくほど警戒がゆるい。
東に面した場所は遠目から見ても穴が分かるほどだ。
領都はヴィルブランド領の中でも南東寄りであり、南の豚鬼と北西にある街道からの商人以外は来る者がいないのだ。東には数百年間禁域に指定されている大森林だけが存在し、そこから何者かが来ることはない。そうなると自然に東に配置される兵士は少なくなる。結果として、警備しているという体裁を維持する程度の人数しか配置されない。数百年間代わり映えのない東に兵を割くだけ無駄ということだ。
そして、東からは誰も来ないという認識が数百年に渡って積み重なった結果ーー
「ははっ、案外行けるものだな」
「随分ト、ヌルいナ」
巨大な獣と、それに跨った伯爵令嬢の侵入を許した。
*****
これほどの巨体なら、領都の壁を越えられるのではないか?
そんな疑問を実行に移してみると、予想以上に軽々と越えてしまった。
領都の壁とはいえ長い年月を重ねればどこかしら風化が始まることは防ぎようがない。東の壁には所々窪みのように石材が欠けた場所があった。
人間や豚鬼ならば問題なかった。壁を上れるほど窪みが多いわけではないし、距離も離れている。
だが巨体となったセルロゥには十分過ぎる足場となった。
ニトローナの両手を縛る布を首にかけたセルロゥは、壁の上に警備の兵がいない場所へと近づき、軽い助走を加えて跳躍する。そして劣化した窪みへと足をかけ、そこから這い上がって胸壁の狭間(弓兵が矢を射るための隙間)に辿り着き、体を引き上げて壁の上に侵入を果たした。
そこからは巡回の兵が来ない内に人気のない道へと慎重に飛び降り、静かに着地する。しかし流石に巨体となったセルロゥの落下を石畳が支えきれず、ひび割れるような音を辺りに響かせた。
これは不味いとばかりにニトローナはセルロゥを促し、人のいない道へと走らせた。
領地を治めるヨーゼフ・ヴィルブランドの娘という立場でありながら、まるで盗人のような行動をしなければならないことに笑い声が漏れる。
正式な手順を踏みさえすれば、ニトローナは領都に迎え入れられるだろう。だがその正式な手順を踏んでいる時間すら惜しく、そして頭部に犬のような耳を生やしている状態で身を改られるわけにはいかず、このように進入することになってしまった。
身分も資格もありながら、おかしなものだった。
セルロゥは頻繁に匂いを嗅ぎながら道を走り続ける。人のいない道を選んだために蛇行するような道順になってしまっていたが、目的地には確実に近づいていた。
そしてとうとう、辿り着いた。いや、帰り着いたのだ。我が家へと。
セルロゥは邸宅の外壁を軽々と跳び越える。
静かに着地した敷地内は、旅に出た時と比べてどこか変わっていた。だが夜の闇の中でははっきりと見えず、強化された嗅覚だけではわからなかった。
「どうシた?」
「いや、少し変わったか」
「そうダな。草の匂いガ強くなっテいる」
「草? まあ……いいか」
変化があるのはそれだけ家から離れていたからだろう。ニトローナはそう結論づけ、玄関へと足を進める。手を縛っていた布は解き、町娘のように頭に布を被って犬の耳を隠した。
「先に行ってもいいか?」
「俺ハ後で構ワん、庭デ待つ。三年待つコとに比ベたラ、短いものダ」
セルロゥは体から蒸気のようなものを吹き出し、巨体から大型犬程度の置きさに戻っていく。そして庭へと繋がる通用口を飛び越え、家の裏手へと姿を消した。
そんなセルロゥの気遣いに感謝しつつ、ニトローナは邸宅の扉へと手を伸ばし、ドアノッカーを叩く。たとえ深夜でも使用人が誰かしら起きているはずだという判断だった。
だが反応がない。
「……誰もいないのか?」
ヴィルブランド領は南を魔族領域と接している。だからこそ、いつ連絡が来てもいいように邸宅内の玄関付近で使用人が夜番している筈なのだ。それなのに反応がないとは、一体どういうことなのか。
ニトローナは試しに、とばかりに扉をほんの僅かに開いてみる。鍵がかかっていないことに驚きつつ覗きこむように視線を向けると、薄暗くて殆ど見えなかった。蝋燭の灯がないということは夜番がいないということだろう。
そのまま扉を引き開ければ、どこか懐かしい自宅の匂いに埃っぽさが感じられた。
外の月明かりから薄暗い室内に目が慣れると誰も居ないことが確認できる。どうやら居眠りしていたという訳ではないらしい。
ニトローナは疑問符を浮かべつつ玄関ホールを見渡し、静か過ぎることに違和感を感じた。
この邸宅には住み込みの使用人がおり、旅に出る前は深夜でも誰かしらの気配やイビキが感じ取れた。だが今は音や気配どころか、強化された嗅覚でも匂いを感じ取ることが出来なかった。
だが、嗅ぎ慣れた匂いが一つだけ濃く残っている。三年前とは少し変わっていたが、間違えるはずがない。ニトローナは扉を閉め、薄暗い中邸宅の中に歩みを進めていき、とある部屋の前で足を止める。
緊張に震える手で扉を開き、視界に広がる光景に全身を硬直させた。
薄暗い室内で唯一、窓辺だけが降り注ぐ月光に照らされ、椅子に腰掛けている女性を神々しい絵画のように描き出している。
女性は赤い髪を首の後で一つにまとめて右肩から前に流し、地味な緑のドレスを身に着けている。だが地味だからこそ着ている人物という素材を際立たせていた。
憂いを帯びた青い瞳は月夜を見上げ、白い肌が月光を反射しているのかまるで淡く輝いているようだ。
三年前はまだ少女だった。だが十三歳から十六歳となり、少女から女性へと輝かしい変貌を遂げていた。
「……セリン」
ただ一言。愛しい妹の名を呟く。
すると、椅子に腰掛けていた少女ーーいや、女性であるセリンは月夜を見上げていた視線をニトローナへと移す。
「……え?」
呆然とした呟きを漏らしたセリンは数秒硬直し、震え始めた唇を動かした。
「ねえ……さま?」
甲高さがあったセリンの声は幾分低みを帯びており、大人へと近づいている。
まるで、それだけの時間を離れていた事実を突きつけられるようで、ニトローナは無意識に口を動かしてセリンに答えた。
「あぁ……長い間、一人にしてすまなかった。ただいま、セリン」
ニトローナはゆっくりと歩みを進め、セリンは椅子から立ち上がる。
「本当に、姉様なの?」
「少し、痩せてしまったからな」
少しどころではないのだが、ニトローナにとってはどうでもよかった。
ただ言葉を交わすだけで、姿を目にするだけで、胸の内から嬉しさがこみ上げてくる。
「三年も、帰ってこないで……心配させて!」
眼から涙を溢れさせたセリンは感極まったようにニトローナへと飛び込んできた。
どうやら身長も随分と伸びているようだ。ニトローナの胸までしか無かったセリンの身長が、今では顎のあたりまで来ている。
「ずっと、ずっと待ってたのに! 手紙も何もなくて、死んだかと思ったんだよ!?」
嬉しさがたちまち罪悪感へと変貌した。
自分がどれだけ待たせたのか。どれだけ不義理な行いをしたのか。
例え死にかけて昏睡状態だったとしても、それはニトローナの行動が招いた結果であり、待たされていたセリンには何の関係もない。全てはニトローナの落ち度だった。
「すまない。本当に、すまない」
何を言っても言い訳にしかならない。だから、泣きわめくセリンへと真摯に謝罪の言葉を口にするしか無かった。
*****
どれだけ経ったのか。
ようやくセリンの嗚咽が止まり、幼子が抱きつくような抱擁が解かれた。眼と鼻を赤くしたセリンがニトローナを見上げる。
「おかえり、姉様」
「ああ、ただいま」
それは三年前、ニトローナが豚鬼との戦いから帰還した際にも交わした言葉だ。
三年という月日の隔たりを埋めるために必要な言葉を、二人は選んでいた。
「ずいぶんと、背が伸びたな。もしかしたら私を超えるかもな」
「このままでいいよ。こうして近くで見上げるのは妹の特権だから。姉様はだいぶ痩せたね。まともな食事してなかったの?」
「いや、これはいろいろと理由があってな。話すと長い。というか、話していいものか……」
そこでニトローナは疑問に思った。第二王子グラウバーの要請は果たしている。プルトンを無事に魔族の国へと送り届け、王位継承までさせたのだ。魔王の世代交代に王国の人間が関わっていたという結果を出したのなら、三年の間に色々と変化があったのではないのか。
だが先ほどセリンは言っていた。手紙も何もなかった、と。
それはつまり、グラウバーは未だ大きく動いていないということなのか。
ニトローナは現状を思案しつつ、頭頂部の耳を隠す布で覆われた頭を掻く。その際に耳元を覆っていた髪の毛が乱れ、奥に隠れていた耳のない側頭部が顕になり、セリンが驚くように目を見開いた。
「姉、様……耳はどうしたの?」
セリンの言葉にニトローナは体を硬直させる。
まずい。非常にまずい。
どう言えばいいのか。魔族との殺し合いで負傷した傷を治したらこうなってしまったと、頭に生えた犬の耳を見せれば納得してくれるのだろうか。いや、そもそも魔族の存在を知らない様子のセリンに、大森林を超えた先に魔族の国があるなどと、王国の国家機密を漏らしてもいいのか。
しかし見られてしまった以上、隠し通すのは不可能だ。特に頭頂部に生えた耳はいずれ確実にバレる。同じ家に暮らして頭を常に布で覆うなど不自然極まりない。
そして何よりーー
「姉様?」
姉を心配そうに見つめてくるセリンに、嘘をつくことの罪悪感が凄まじかった。
三年も待たせ、さらに嘘をついて騙すなど出来ない。
ニトローナはまず表情を引き締め、セリンへと語りかける。
「セリン。私はこの三年で、変わってしまった。この変化は、王国ではとても普通の事とは言えない変化だ。だが私はセリンの家族で、姉であるという事実に変わりはない。私はセリンのことを大事に思っている。それは信じてほしい」
真剣な表情のニトローナから告げられたその言葉に、セリンは表情を固くして頷いた。どこか不安でありながらも、信頼を感じられる顔だった。
「……ありがとう。では、少し驚くかもしれないが、覚悟してくれ」
ニトローナは頭を覆う布の結び目を解き、頭部を空気に晒した。
布から解き放たれた耳は、ピンッと天を突つくように立っている。半分を毛で覆われた尖り耳は、明らかに人間のものではない。それをニトローナは、ただ一人の妹に晒す。
信頼と愛情ゆえの選択だった。
人のものではない獣の耳を生やした姉を見たセリンは、たった一歩、姉から距離をとる。
そのたかが一歩にニトローナは動揺した。セリンの目に警戒の色が見えたからだ。
「……そう、そういうことだったんだ」
ニトローナの動揺を他所に、セリンは別の方向へと足を進める。向かう先は部屋の壁に掛けられた細長い金属。薄暗い部屋では細部の判別ができないが、それは明らかに剣だった。
セリンは剣を手に取り、ニトローナへと向き直る。その表情はまるで仇敵を前にしたという言葉が似合うほど険しく、ニトローナは内心の動揺を混乱へと悪化させた。
「せ、セリン?」
ニトローナの呼びかけに応えたのは言葉ではなく、真上から振り下ろされた剣閃。
まるで信頼と愛情への答えだと言わんばかりの斬撃。
ニトローナは今、最愛の妹に剣を向けられたのだ。
ニトローナは予想すらしていなかった。
自分が三年も寝ていた間にどれだけの変化があったのか。妹がどれほどの変貌を遂げたのか。
自分の選択がどのような変化をもたらしていたのかを。
僅かな月光を反射した刃を見るニトローナは、未だ理解の外にあった。
やっぱり長くなった……




