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45.目覚めと始まり

**7月3日の昼に加筆修正しました。話の後半に千文字追加しています**



モチベーションが下がったと宣言したな、あれは嘘だ。


……宣言したらなぜかそれなりに書けたので投稿します。

「◯◯」


 懐かしい自分を呼ぶ声。


「◯◯」


 目を開けて顔を上げれば、最愛の主人が腰を下ろしてこちらを見下ろしていた。

 肩を出したトップスに脚の形がわかるようなタイトなレギンス。肩まで伸ばした髪を片手で掻き揚げ、主人は微笑んでいた。もう片方の手には二メートルほどの紐。


「散歩いこ?」


 その言葉が合図だったかのように『◯◯』は勢い良く体を起こし、愛する主人の頬を一舐めする。そしてお返しのように頭を一撫でされる。


 それが一人と一匹の間にある親愛を示す行動だった。





 傾いた太陽から黄昏の光が差し込まれた公園。

 一人と一匹は芝生の中に敷かれたコンクリートの道を歩いている。道の両側には樹木の列が並び、住宅街の中でも自然の中にいるような空気を演出している。

 『◯◯』は舌を出しながら主人の隣を歩き、いつもの通り道を満喫していた。

 時折すれ違うジョガーや子どもたち。遠くに聞こえる車の音。雑多な匂いの中にある青臭い草の匂い。

 愛する主人と歩くこの道は、『◯◯』にとって大切な日常だ。時折別の道を歩いてみても面白いのだが、何故か此処に戻ってきてしまう。


 道の途中にある自動販売機が近づいてくると主人は財布を取り出す。自動販売機の前で同時に立ち止まる一人と一匹。ここで飲み物を買うことも日課だった。

 主人は二枚の硬貨を投入口へと入れる。ボタンが押されて出てくるものは水が入ったペットボトル。自動販売機からペットボトルを取り出した主人は、近くに設置されたベンチに足を向ける。『◯◯』も主人に続いた。ベンチに腰を下ろした主人はキャップを捻り開け、片手を器を作るような形にしてそこに水を注ぐ。


「はい」


 差し出される水の入った手の器に『◯◯』は顔を近づけ、舌で水をすくって喉の渇きを癒やす。手の器から水がなくなれば主人が追加の水を注ぐ。そうして『◯◯』が水を飲み続け、ペットボトルの水が半分ほどになれば、主人は器にしていた手を少量の水で洗い流し、残りを自分の喉に流し込む。


「ふぅ」


 一息つく一人と一匹。ここで小休止するのもいつものことだった。

 

 だがーー


 主人は徐に『◯◯』の首に両手を伸ばし、首輪に繋がれていた紐の縛りを解いた。

 いきなりの行動に『◯◯』が不安そうに鼻を鳴らすと、主人は笑みを浮かべて口を開いた。


「◯◯。ここからどうするかは、あなた次第だよ」


 そう言って主人は日課で歩く道の先を指差す。そこには両側を木で挟まれた道ではなく、どこまでも続くような白い空間が広がっていた。


「このまま進めば、戻ってはこれないけれど、ゆっくり休むことが出来るよ」


 主人は次に、ここまで歩いてきた方向を指差す。そこには公園の入り口へ続く道ではなく、真っ赤な林檎を生やした木が並ぶ景色が見えた。奥には小さな人影も見える。


「それとも戻る? やり残したことがあるのなら、戻ってもいいんだよ」


 『◯◯』が困惑を深めたように「ウォン」と小さく鳴くと、主人は笑みに小さな悲しみを混ぜた表情で『◯◯』の頭を優しく撫でる。


「あなたが決めるの。私は、此処で待っててあげるから」


 主人は『◯◯』の頭から手を離し、ベンチの背もたれに上体を預ける。その様子は選択を迫りつつも気長に待つ母親のような、慈愛を感じさせた。



 『◯◯』は二つの道へ視線を向ける。

 白い空間へ先へ進むか、林檎の木が広がる光景へ戻るか。

 『◯◯』は戻る道の先へ、遠くに見える人影へと目を凝らした。

 主人よりも小さい体躯に、林檎のように鮮烈な赤の髪。その人影は小さな体躯を蹲って小さくし、泣いているように見えた。


 その姿を見た『◯◯』は、自分がまだ休んではいけない理由を思い出した。

 

 ーーそうだ。あの人影を、あの娘を泣かせたままにしてはいけない。約束通り帰るんだ。


 『◯◯』は眠るように目を閉じた主人へ振り返り、その頬を一舐めする。そして戻る道へと、蹲っている小さな人影へ向かって、全力で駆けた。


 ーー泣かせてはいけない。

 ーー帰るんだ。セリンのもとへ。







 迷いなく駆けていく愛犬の後ろ姿を、主人は愛おしそうに見つめていた。


「それでいいんだよ。私は此処で待ってるからね、メイ」


 主人はベンチに腰を下ろして背を預けたまま、眠るように目を閉じたのだった。











 それは目覚めと言うには酷く難儀なものだった。まるで粘性の泥の沼から這い上がるかのような、思い通りに動けない場所で藻掻いているような感覚が、全身を包んでいた。

 瞼すらとてつもなく重たい。鉛を乗せているかのようだ。

 

 だが突然、額が心地よい熱に覆われる。その熱は額から瞼、瞼から鼻へと下っていく。そして、熱の通りすぎた後にはすっきりとした清涼感だけが残された。

 鉛のような泥が取り払われた感覚に、軽くなった瞼が僅かに開く。

 薄く開いた視界は真っ白な輝きに包まれ、そこから明順応によって徐々にはっきりとしてくる。

 体の感覚からして、仰向けの体勢であることは理解できた。そして視界に映った人物が自分の世話をしているであろうことも。


 顔が識別できるほどになった視界には、頬が鱗に覆われている女性が映る。黒い質素な服に白いエプロンという服装からして侍女なのだろう。

 声を出そうとした喉に痛みが走る。相当に乾いているようだった。

 小さく漏れた吐息に侍女が反応。感情の色が見えなかった無表情が、小さな驚愕に染まる。


「ニトローナ、様?」


 動揺に震えた声が、自身の名を呼んだ。

 答えようとしたニトローナの喉は小さな吐息を漏らすだけだったが、侍女は薄く開いたニトローナと視線を合わせると、すぐさま踵を返して視界から消える。

 遠ざかる足音を聞きながら、ニトローナは自身の体がひどい状態になっているのだと理解した。体を覆う毛布は重く感じられ、指は動いても関節が軋みを上げるように小さく痛む。腕に至っては重いとすら感じた。足も同様で、膝を少し浮かせるだけで関節が軋む音を耳に届けた。


 自分は一体どうなってしまったのか?


 疑問が脳裏を埋め尽くした時、駆ける足音を響かせた侍女が水差しを手に持って戻ってきた。

 侍女は小さな水差しを右手に、寝台へ横たわるニトローナへと近づく。侍女はニトローナの首の後に左手を入れて上体を軽く起こし、右手に持った小さな水差しをニトローナの口元へ近づけた。


「少しづつ、口の中を湿らせるようにしてお飲みください」


 注意を促した侍女が水差しを傾ける。

 流し込まれる水が乾いた口内を潤していき、喉に流れ込んでいく。


「ーーけほっ」


 軽くむせては休憩を挟み、乾いた喉の痛みを潤いが和らげていく。


「どうですか?」

「少しは……楽に、なった」


 侍女はその答えに頷くと、慎重な手つきでニトローナの起こした上体を元に戻した。


「直に虹賢者様が来られますので、暫しお待ち下ーー」


 侍女の言葉の途中で駆ける足音が耳に届く。その足音は人にしては軽く、音が多い。耳では足音を判別できない。だがニトローナには判る。嗅ぎ慣れた匂いが届いたからだ。

 侍女が開いたままの扉に目をやると、耳をピン立てた犬が走りこんでくるところだった。


「セルロゥ様。埃が舞うので走らないでください」


 嘆息しながらそう告げる侍女。だがその様子はどこか諦めが感じられた。部屋に駆け込んできた犬ーーセルロゥは、どうやら何度も注意されているらしい。セルロゥはバツが悪そうに侍女と視線を合わさずに寝台へと歩いてくる。


「セル、ロゥ」


 ニトローナに名を呼ばれたセルロゥは、答えるように彼女の頬を舐める。


「すまない。私のせいで、帰れてないのか」


 ニトローナがこうして魔族の侍女に世話をされてるということは、ここは王国ではなく魔族の国だということだ。あまり定かではない記憶では、近衛兵長アジャーロと相打ちに近い形でプルトンを守れたはずだ。ならばプルトンの王位継承は成ったはずだ。これでニトローナの旅の目的はほとんど完遂されている。セルロゥが単身で王国へ帰ろうと、ただ一人を除いて誰も責めはしない。

 セルロゥはただ、忠実であろうとしているのだろう。



「気にするナ。主から頼マれたことダ」



 そう、旅立ちの朝にセリンはセルロゥへと姉を頼むと言っていた。セルロゥはその言葉を忠実に守ろうとしているだけなのだ。なのだがーー


「今のは、お前の声か? セルロゥ」


 ニトローナは一瞬、幻聴を疑った。実は魔族だったとはいえ、十年は一緒に過ごしてきた犬がいきなり言葉を話したのだ。


「そうダ」


 どうやら間違いないらしい。セルロゥは言葉を返してきた。


「喋れるように、なったのか」

「アあ。久しぶりノ言葉ハなかナか、難シイ」


 所々発音がおかしいが、意思疎通を図るには十分な出来だろう。

 

 自分が寝ている間にセルロゥが喋れるようになっていた事態に驚くニトローナは、ふと思った。

 いったいどれほど眠っていたのか?

 脳裏に浮かんだその疑問を口に出そうと口を開くと、部屋へ新たな入室者が現れた。


「おぉ、目覚めたか。ニトローナ」


 喜びの言葉と共に入ってきたのはイシュランディルだった。

 頭を下げて迎える侍女の横を通り、イシュランディルは寝台に横たわるニトローナと目を合わせる。


「色々と聞きたいことがあるといった顔だな」

「ああ。色々とな。話して、くれるか?」

「よかろう」


 頷く虹賢者は近くにあった椅子を寝台の横へと置き、そこに腰を下ろした。


「起きたばかりなのですから、長時間の話は体によくありません。出来るだけ手短に」

「うむ。わかっておる」


 侍女の言葉に肯定で頷くイシュランディル。その横にセルロゥが後ろ足を曲げて床に腰を下ろした。


「さて、まずは継承の儀の話といこう」


 ニトローナは思わず顔に緊張を滲ませる。あの時にプルトンを守れたという自信はあるのだが、アジャーロの眼窩に爆轟を打ち込んだ後の記憶が全く無いのだ。あの後に何があったのか、気にならないといえば嘘になる。


「結論として、継承の儀は成功した。プルトンは無事に王位を継ぐことが出来たぞ。お主は魔族の王、プルトンの命を救った英雄だ」


 プルトンを守れた。

 その事実にニトローナの口から緊張がため息として抜けていく。


「そうか。私は、やり遂げたんだな」

「うむ」


 顔をほころばせたイシュランディルの背後では、頬の一部が侍女が薄く目を潤ませている。

 どこか緩くなった雰囲気の中で、セルロゥだけは何も言わずに佇んでいた。


「それでは、私の役目は、終わったんだな」


 ニトローナの言葉に、イシュランディルはどこか体を緊張で固くして頷く。


「……そうだ」

「なら、早く帰らないとな。セリンが待っている」


 関節の痛みを無視して腕を持ち上げようとしたニトローナは、額に汗を浮かべながら起き上がろうと体を動かす。


「いけません!」


 それを止めたのは頬が鱗に覆われた侍女だった。彼女は慌てた様子で制止の声を上げ、起き上がろうとしたニトローナの体を押さえる。


「ニトローナ様、貴方は長い間眠っていたのです。急に動いてはいけません」


 その侍女の言葉に疑問が浮かぶ。


「長い間、だと? 私は一体、どれだけ眠っていたんだ?」


 自身の体の状態。侍女の言動。イシュランディルの態度。

 湧き上がる嫌な予感に、虹賢者が答えた。


「継承の儀から既に三年は経過している。お主はその三年間、絶えず眠り続けていたのだ」


「三……年?」


 呆然と呟くニトローナの視界に、毛布から出ている自身の手が映る。ヴィルブランドという貴族家の長女でありながら、訓練と実戦で数多く刻まれた傷と剣胼胝けんたこの手が、今では肉が削げ落ちてまるで老人のように細くなっている。

 指から繋がる腕、胴体、脚まで同じような状態なのだろう。三年という眠りで、妹を守るために鍛え上げた肉体は力を失っていたのだ。


「これでは……どうやって、守れるというんだ」


 悔しげに目を瞑り、嘆きを零すニトローナ。

 そんな彼女の様子を目にしたイシュランディルは、侍女に言葉を向ける。


「鏡はあるか?」

「ありますが……イシュランディル様、何も今でなくとも」

「今だからこそだ。時間を空けようが事実は変わらぬ」


 不承不承といった様子の侍女は頷き、ニトローナから離れた。

 

「ニトローナ。アジャーロに負わされたお主の傷は深く、出血も酷かった。あのままでは医者を連れてくる間にお主は死ぬと判断し、儂が魔術で施術した。出血を止め、肺に空気を送り込み、医者が来るまでお主の状態を安定させるように務めた。結果として、お主は医者が来るまで持ちこたえ、今も生きている」


 戻ってきた侍女から鏡を受け取ったイシュランディルは、ニトローナの顔を映すように鏡を翳す。


「儂はあの時の施術が間違っていたとは思わん。だが、あの施術があったからこそ、お主の体に外部の魔力の影響を受ける穴を開けてしまった」


 イシュランディルの重苦しい口調に、ニトローナは目を開け、鏡を見上げる。

 そこには赤い髪をの痩せこけた自身の顔が写っている。あまりにも変化してしまっている自分にニトローナは呆然とし、次にあり得ない違和感を視界の端に捉える。

 頭頂部に人ではない耳があった。犬の耳である。

 元々あったはずの人の耳が、頭の形に沿って頭頂部へ移動し、犬のそれへと変異していた。


「ニトローナ、お主は変異が始まっている。時間が経ちすぎて、大猿グラ・セッロとの戦いの時のようには戻れないだろう」


 三年の眠り。

 鍛え上げた肉体の衰え。

 そのうえに、人から魔族への変異。


 ニトローナは自分があまりにも変わりすぎてしまったことを理解し、絶望の淵に横たわっていることを感じた。

 人から魔族へと変異し始めている状態で、一体どのような顔で妹に会えばいいのか。


 あまりにも暗く、見通すことが出来ない自身の未来。

 ニトローナは故郷で妹と再会する光景を思い浮かべることすら出来なかった。

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