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34.兄弟

 ニトローナに母との記憶はそれほど多くない。

 母アンシェルが没したのはニトローナが六歳の頃であり、現在十七歳のニトローナにとって遠い過去の記憶だ。

 伯爵の妻にしては活発で、家の中でゆっくりするよりも外に出ることを好んだ。達人といえるほどの剣の使い手であり、妻から母に変わるまで豚鬼オークと戦っていたと聞いている。

 母となってからは剣を取ることなく、ニトローナとセリンを育てた。その中で強く記憶にあるのは庭で剣を振るう母の姿。

 ニトローナにとって母とはある種の目標だ。あの果断と流麗をもつ剣を見た時から脳裏に焼き付いている。だからこそ、犬から人へと生まれ変わって混乱していた時期もあり、あまり家族とはいえない存在だった。

 尊敬はある。愛情のようなものもある。

 だがそれは親というよりも、師に対するものに近かった。



 獣の部族の長であり、兄を攫われた弟であるザニンギルは、アンシェルの死を伝えられると呆然とした様子で長い口を開いた。


「死んだ、だぁ?」

「そうだ。もう十年以上前になる」

「だったら、だったらてめぇはなんだ? あの女と同じ髪の色で同じ顔だぞ」

「娘だ」


 似た容姿の親子であろうとどこかしら違いはある。その差を見分けることはそれほど難しくない。だがザニンギルが赤い髪の女を見るのは十年ぶりだ。その上十年前のザニンギルが子供だったのなら細かいところまで覚えているのは難しい。ニトローナとアンシェルを同一人物と見るのも仕方がないと言える。


 ザニンギルは牙を剥きだして唸り、拳を握りしめる。


「ならあれか、俺がこの手で殺してやりたい相手はとっくに死んでいたってことか」

「そういうことになる。すまないがーー」

「それ以上言うんじゃねぇ!」


 ザニンギルは叫び、拳を地面へと叩きつけた。

 大岩すら砕けそうな一撃は地面に突き刺さり、獣の長は荒い息を吐く。拳を引き抜いたザニンギルは、未だ憎しみが篭った眼でニトローナを睨みつける。

 数秒程そのままでいると、不意にザニンギルは視線を逸らす。逸らした先にはセルロゥ。


「兄者、その女の言葉は真実なのか?」


 獣の部族の長にとってニトローナ達一行の中で信頼できるのはセルロゥだけなのだ。問われたセルロゥは弟であるザニンギルをじっと見つめ返す。

 言葉のない答えにザニンギルは大きく息を吐きだした。その行為に怒りを吐き出す意味があったのか、ザニンギルの雰囲気は落ち着いたものに変わる。鋭い目には未だ怒りを宿しているようだが、それが表に出ることはなかった。


「……わかった、兄者を信じよう。それで兄者は、部族に戻ってくるのか?」

 

 ザニンギルの言葉には、諦観と僅かな期待が漂っている。

 襲撃の際に巨獣になったセルロゥはザニンギルを弾き飛ばした。それだけで自分の兄がどちら側にいるのか理解していたのだろう。

 セルロゥは首を振って拒絶を示した。


「そう、か」

 

 期待が消え、諦観が残る。

 ザニンギルは未練を振り切るように頭を振り、背後の者たちへと言葉を向ける。


「戻るぞ」

「しかし族長……」

「いい。元々これは俺の私情によるものだ。皆に無理を言って出てきて、その上無駄に部族の同胞を減らすことは出来ない」

「ですが奴らが我々に害を及ぼさないとも限りません。それに今なら数の利があります」

「やめておけ、兄者は強いぞ。そしてーー」


 ザニンギルの瞳がイシュランディル、そしてプルトンへと向けられる。

 プルトンは震える眼でどこか強がるように見返し、イシュランディルは余裕のある笑みを浮かべている。


「厄介な匂いがする。あいつらには手を出すなよ、死ぬだけだ」


 ザニンギルが部族の者たちへ軽く手を振ると、彼らは森の中へ姿を消していった。

 その場に残ったザニンギルはニトローナへ言葉を向ける。


「てめえがあいつの娘だということは理解した。俺は同じ血族だからといって娘に復讐する気はない。だが、忘れるな。俺はこの十年間の間、最も尊敬する兄者を失っていたんだ。生きていることすら、諦めていた。地獄のような十年だった」


 怒りを絞りだすような言葉を、ニトローナは目を逸らさずに受け止める。目の前にいるのはまるで自分の映し身のように感じていたのだ。

 前世で主を失って死を迎え、この地で新たに生まれ落ちた頃のニトローナは、今のザニンギルと同じだ。

 あの臓腑を抉られるような苦しみを抱えて生きた十年とは、一体どれほどのものなのか。


「兄者の生きた姿をこの眼で見られたことには感謝しているが、お前の母親が俺にとって罪人だったことに変わりはない。どんな理由があろうと、俺は死んでも許さん」

「わかっている。私から謝罪しても、貴方は受け入れないんだろうな」

「当たり前だ。てめえはあいつ本人じゃない。娘の謝罪に何の意味があるってんだ?」

「そうだな。だが、私も大切な者を失ったことがある。貴方の気持ちが少しは理解できる」


 ザニンギルは目を見開くと、「そうかよ」と言って踵を返す。そこでセロが声を上げた。


「待ってください、獣の長殿」

「何だ?」

「あなた達部族は、これから都で何が行われるか知っていますか?」


 再度踵を返して向き直ったザニンギルの眼には、族長としての威厳が宿っていた。セロの長という言葉に、ザニンギルは個人としてではなく、一族を治める族長の立場で答える。


「理解している。そこの子供が次の王なのだろう?」

「なら協力をーー」

「断る。俺達の自由は王自身が認めたものだ。そして俺達は力無き者には従わない。その子供が王となり、力を示したのなら従おう」


 その言葉は獣の部族を従える族長の意志であり、同時に獣の部族の総意とも受け取れる。ならば緑の部族の族長補佐でしか無いセロには言えることはなかった。


「もういいか?」

「……はい」


 ザニンギルはニトローナ達に背を向け、森へと姿を消した。

 その背に向けてセルロゥが「ウォン」と一吠えする。

 数秒後、森の何処かから遠吠えが響いてきた。その声にはどこか悲しげでありながらも、再会の喜びが込められているようだった。




 獣の部族の長が去り、ニトローナ達は緊張を解く。

 ニトローナは鼻を働かせて周囲に魔族も魔獣もいないことを確認し、大きく息を吐いた。


「なんというか、疲れた」

「ハッハッハ、ご苦労ご苦労」


 肩を落とすニトローナの背後から快活な笑い声が響く。


「イシュランディル、よくも私に丸投げしてくれたな」

「あの場ではお主とセルロゥ以外部外者であろう?」

「それは、そうだが……」


 イシュランディルの言葉通り、あの場では因縁のあった三者が衝突した。とはいえ、多少の手助けをしても良かったのではないだろうかと恨みがましく睨みつけるニトローナだったが、傍らから上がった犬の呻き声に意識がそちらへ向けられる。

 

 ニトローナの傍らでラギスが腰を下ろし、セルロゥの顔を撫でたり引っ張るなどしている。興味深そうなラギスに対してセルロゥは迷惑そうに目を細めていた。


「ラギス、何をしているんだ?」

「ん? 確認よ確認。あれだけ大きくなったのに元に戻ってるんだから、どうなってるのかなって」


 そう言いつつラギスの手は顔から胴体へと動き、終点の尻尾を握った。

 その様子をプルトンまで興味深そうに見ている。


 ニトローナはその様子を意外そうに見つめた。

 セルロゥは魔族だ。それも大猿に匹敵するような巨体になれる不可思議な能力を持っている。

 大猿の恐怖を体験したラギスが、ある意味それ以上の凶暴さを宿しているように見えた巨獣のセルロゥを、忌避するのではないかと考えていた。プルトンなど大猿に二度も遭遇しているのだから、それ以上に怯えるのだろう、と。

 しかしラギスとプルトンはあろうことか興味深そうにプルトンへ近寄っている。


「怖がらないんだな」

「まあ、少しは驚いたけどね。直ぐ側にいきなりおっきな犬が現れるんだから」


 そう言いつつ尻尾を絞るように握りしめるラギス。セルロゥは背後へ回ったラギスへと迷惑そうな顔を向けるが、彼女の笑みを見て諦めるように顔を戻した。


「でも、私達が緑色の犬に襲われたとき、真っ先にプルトンを守ったのはセルロゥだったからね。信頼することにしたの」


 ラギスは傍らにいるプルトンの手を取り、セルロゥを触らせる。興味深そうにしていたプルトンは若干怯えが混ざった手つきでセルロゥの背中を撫でていった。


 まるで姉弟のようなその姿を目に収めつつ、ニトローナはセルロゥへ視線を移す。


 十年前。母はこの地へ踏み入り、セルロゥを連れ去った。

 だがそれは、強制だったのかという疑問が残る。

 ヴィルブランド邸でのセルロゥは母が没した後も飼い犬のように振舞っていた。抜け出せる隙など無数にあったはずだ。だがこの旅が始まるまでセルロゥが自分の意志で外に出たことはなかった。

 何か理由があるのだ。


 亡くなった母とセルロゥ。

 二者の間に何があったのか。理由を問おうにも母はこの世から去り、セルロゥは言葉を理解できても発することは出来ない。詳しい事情を訊くことは出来ないだろう。

 だが、妹のセリンに対するセルロゥの本物だ。


 まずはプルトンを都に送り届け、この旅を終えることだ。

 やるべきことを済ませ、セリンの元へ帰ってから考えればいい。

 今はそれだけでいいと、ニトローナは納得する。






 そして旅の一行は大森林を抜け、終着点である魔族の都へと辿り着いた。

伏線回収できてないどころか、また盛ったような気がする。

次こそ回収……したいです。

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