32.向けられる怒り
一時下げた話の改稿版です。
1.5倍ほどに文字数が増えています。
先日に読んでいただいた方には申し訳ありませんが、この話の終わりは大分変えているので、もう一度読んでいただければ幸いです。
出発の日。
緑の里で補給と休息を済ませた一行に別れの見送りは少ない。
ニトローナ達が忌避されているわけではなく、プルトンの声が大猿を呼び寄せたことの影響で里の者は警備にあたっているのだ。里に侵入したのが大猿だけとはいえ、近辺に呼び寄せられた他の魔獣がいないとも限らない。緑の里の周囲には魔獣が嫌がる香草が植えられ、その御蔭で魔獣が近寄らない場所になっていたらしいのだが、大猿が戻ってこないとも限らない。その影響で数日はこの状態が続くらしい。
「約束、忘れんなよ。必ず会いに行くからな」
そう告げるのは部族の少年、ザスカラだ。彼の左頬は木を思わせる硬質な茶色ではなく僅かに赤くなっている。どうやら大猿が侵入した原因に弟が関わっていると知った兄に殴られたらしい。その上雑用もやらされているようで、服が土で汚れている。
そんな少年に答えるように、プルトンが頷いた。そして二人して笑顔を浮かべる。
別れはそれで十分らしい。
「ザスカラ。少しは反省してください」
「わーってるって。反省してるよ。だから雑用やらされてんじゃん」
「やらされていると思っているうちは反省したことになりません。私は暫く留守にするんですから、問題を起こさないでくださいね」
セロは案内役として旅に暫く同行することになった。イシュランディルが喚び出す緑蜂鳥が方角を示したとしても、危険な魔獣の生息域まではわからない。セロならば安全な道を案内できるらしく、都まで案内を頼むことになった。
そして一行は一人を加えた五人と一匹で東へと進む。
目指すは大森林を超えた先にある魔族の都だ。
大森林は外からすれば一つの森だが、里を構える緑の部族からすれば西部と東部に分かれているらしい。森を東西に分ける境は北から南へと流れる巨大な大河だ。ニトローナ達はセロの案内で大河へと向かい、川幅が細くなっている場所に架けられた橋を使って東部へと渡る予定だった。
橋までの道中はセロが先導して安全な進路を取り、出来る限り魔獣との戦闘を回避して旅を続けた。大猿が緑の里へと侵入する際に他の魔獣の縄張りを通った影響で、魔獣の縄張りに乱れが起きているようだった。縄張りから外れた魔獣との不意の遭遇を避けるために、旅の一行の進路は大幅に蛇行したものになっていた。
それから数日。
ニトローナ達は川幅が細くなった場所に掛かった橋に到着した。
およそ幅十メートルの橋が数十メートルの長さで対岸へと続いている。大分前に架けられたのか、石で出来た橋は所々苔や蔓に覆われており、酷いところは人が軽く通れるほどの穴が開いていた。
「よく崩れないな」
「数百年前に作られたものらしいですが、一度も補修していないらしいです。西側に渡る魔族は滅多にいませんし、逆に西側の魔族、といっても緑の部族だけですが、我々も東側へ行くことはほとんどありません。恐らく東へ渡ったのは数年前の私が最後のはずです」
「そんな橋がよく残っているね。崩れそうでちょっと怖いんだけど」
不安そうに呟くラギスの言葉にプルトンまで釣られたように表情を曇らせる。
だが所々崩れた橋にしては頑丈なもので、五人と一匹が橋に乗る程度ではびくともしない。渡る途中に穴を覗き込んだプルトンが顔を青くして足を滑らせかけ、ラギスに怒られるなどの問題はあったが、旅の一行は無事に東岸へと渡りきった。
そしてここからはセロの案内が難しくなる領域に入る。セロには滅多に訪れない東側の土地勘がなく、魔獣の生息域が西側とは大きく違うらしい。
「問題は、獣の部族です」
セロの言葉通りだとするのなら、獣の部族は力を重視する者達であるらしい。そして集団よりも個を重んじる気風を持ち、意思統一が難しい。仮に部族の九割に通行を認められても、反対の一割が妨害に出る可能性すらある。
最悪の場合、一戦交えることすらあるようだった。
「彼らと遭遇した場合には私が前に出ます。出来るだけ話し合いで済ませるように努力しますが、念の為に警戒は怠らないようにして下さい」
ニトローナ達は東進する。
途中、鼠にしては大きい小型魔獣や、鱗に覆われた猛禽類などに襲撃されるが、犬のセルロゥと魂の融解で嗅覚が犬並みになっているニトローナによって奇襲は防がれ、危なげなく撃退している。
ニトローナは四肢の変異と違って嗅覚が変異したままなことに不安を覚えたが、魔獣の匂いを事前に察知できる有用性もあり、不安を押しのけて旅を続けた。
そして橋を渡って五日目。
周囲に不穏な気配が漂い始める。誰よりも先んじてセルロゥが唸り声を上げ、次いでニトローナが未知の匂いに気づいた。
「何かいるな。数が多い」
先頭のセロは立ち止まり、ニトローナが前に出る。代わりに下がったセロはプルトンを背に庇うように立ち、その傍らにセルロゥが控える。旅の一行の背後をイシュランディル、遊撃としてラギスが周囲を警戒する。
一行が足を止めると周囲の匂いが濃くなった。ニトローナは荷物の入った背嚢を後ろへ放り投げつつ剣を抜き、匂いに意識を向ける。
湿った森の匂いは様々なものを内包している。土や草、石や苔、そして動物と昆虫。数多くの命の匂いが森には漂い、同時に死の匂いも感じられた。死体の腐臭や土に塗れた骨の匂い。生者も死者も一つとなって抱かれた森の匂い。
その中でも周囲を漂う匂いは特徴的だ。他種の肉を多く摂取しているのだろう。他よりも強い。周囲全てからその匂いが漂ってきている。
囲まれたのだ。そして草を踏む音に僅かに金属の匂いが感じられた。
足音は徐々に大きくなり、気配を肌で感じられるようになる。
大森林に入った初日に襲撃してきた緑の猟犬は、緑の皮膚を草や苔と同化させて奇襲を仕掛けてきた。奴らはセルロゥに気づかせないほど匂いが薄く、数と奇襲を武器にしていた。それはある意味、個が弱いために正面から戦うには勝率が薄い弱者の狩りだ。
今ニトローナ達を囲んでいるのは、弱者か、強者か。
答えはすぐに出た。
匂いでも音でもなく、木々の影から姿を表すという形で目の前に現れた。
それは一頭ではなく、一人というべきかもしれない。
二本足で歩き、やや前傾姿勢ながらも安定した足取り。人に比べて長い腕の先には無骨な鉄剣が握られている。だが体中に土色の獣毛を生やし、長い口に鋭い牙を揃えた口腔、やや斜めに立った耳に揺れている尻尾。その姿は二足歩行になった犬か狼のようであった。
「あなたは……」
セロの声は驚愕に満ちている。
だが、その言葉を聞いたニトローナは強引に意識の外に追いやった。目の前にいる何者かが強烈な殺気を放っているからだ。それもニトローナただ一人へと向けて。
剣を握る両手に力を込め、構える。
何故だ? という疑問が脳裏をよぎる。
セロが『あなたは』というぐらいなのだから魔族なのだろう。見た目からして獣の部族だということは判る。しかし会ったこともないニトローナに対して何故これほどの殺気を向けるのか。
ニトローナは剣を構えるが、それは殺気に対する反射的な意味が強い。内心は困惑していた。
豚鬼も暗殺者も大猿も、戦う相手に食欲や暗殺というわかりやすい理由があった。しかし眼前の魔族には、その理由が思い当たらない。
自分の何に、どこに怒りを感じているのか。ニトローナにはまるでわからなかった。
殺意を滾らせた黒い瞳がニトローナを射抜く。
セロはできるだけ話し合いで解決すると言っていたが、相手に話をする意志がないのは明白だ。
困惑を抱えたまま戦いに臨む覚悟を決めたニトローナの耳に、低い声が届く。
「赤い……髪」
眼前の獣の姿をした魔族の声は怒りに満ちている。何かをギリギリの所で押さえ込んでいるような声色に、ニトローナは相手が仕掛けてくることを予感した。
「赤い髪…………赤い髪の、女ァァァァァァァ!」
人の形をした獣の魔族が無骨な鉄剣を振り上げ、襲いかかってきた。
ニトローナは鉄剣を受け切れないと即座に判断を下し、右へ跳ぶ。
「ニトローナさん!」
「下がっていろ! 周囲の警戒を怠るな!」
叫びながら頭を下げるニトローナ。その頭上をゾッとするような音で鉄剣が通り抜け、赤い髪が数本千切られた。ニトローナはそのまま後退。直前までいた場所へ鉄剣が振り下ろされ、地面が弾けた。
小さいながらもそこに隙を見出したニトローナは、無骨な鉄剣を握る魔族の手を浅く切るような軌道で、剣を薙いだ。
自分に殺意を向ける理由が不明なまま相手を殺傷すれば、獣の部族全てを敵に回すという最悪な事態になる可能性が高い。そう考えたニトローナが放った戦闘不能にするための攻撃はしかし、空を切るという結果に終わる。
「ちぃっ」
相手の魔族はあろうことか武器を手放して斬撃を避け、手放した手が拳となりニトローナへと向けられる。型も技もあったものではないその拳は、身体能力のみを原動力とした単純なものだ。しかし斬撃の余韻にあったニトローナは避けられず、腕を引き戻すのが限界だった。
「ごっーーはぁ!」
腕を通して伝わる衝撃は凄まじく、嫌な音が体内から聞こえた。大柄な魔族の一撃はニトローナに耐えることを許さず、背後の木へと吹き飛ばされる。次は背中からの衝撃に、肺の空気が絞り出されるような苦しさに襲われた。
「がっひゅ……ごふ」
強すぎる衝撃にニトローナは一時的な呼吸困難に襲われた。
そして、戦闘の最中にそれは致命的な隙となる。
蹲る自分を覆う影に、ニトローナは敵の接近を感じた。その場から転がるように逃げた直後、心臓が縮み上がるような衝撃が地面から伝わってくる。直前までニトローナがいた場所には、地面へと腕を突き刺すような姿の魔族。なんと魔族の手は手首まで地面へと突き刺さっていた。
あれが自分に直撃していたらと考えるとゾッとする。ニトローナは呼吸が乱れたまま立ち上がり、左腕が上がらないことに気がつく。どうやら腕に受けた打撃で一時的に麻痺しているらしい。その上剣は吹き飛ばされた時にこぼれ落ちている。
圧倒的に不利な状態。
ニトローナは冷や汗をかきつつ打開策を考えるが、結局は一つしかない。魔術による爆轟だ。
しかし相手に致命傷を与えないように調整するというのは慣れていない。普段豚鬼相手にしか使っていない魔術故に、相手の肉体を吹き飛ばす程度の威力でしか使ったことがないのだ。
だが、魔族の眼はさらなる殺意に血走っている。
一か八かでもやるしかない。ニトローナはそう決意する。
魔族は地面に突き刺した拳を抜き取ると、牙を剥いてニトローナを睨みつける。
対するニトローナは左腕をダラリと下げたまま、腰に構えた右の掌を相手に向けた。
相手の魔族はニトローナの構えに警戒しているのか、最初のように飛び込んでくるようなことはない。対するニトローナは自分が先手を取っても片手が使えない状態では不利になると考え、待ちの姿勢になった。
そんな膠着した状態に我慢できなくなったのか、獣の魔族は足に力を入れて跳躍の姿勢をとる。ニトローナは迎え撃つように右腕に力を入れ、カウンターで一撃を入れると覚悟を決める。
そして一瞬の後。
「ガオオオオオォォォォォォォォン!」
意識を吹き飛ばさんばかりの怒号が轟いた。
余りにも強烈すぎるその声は周囲の生物全てに畏怖を抱かせるような響きをもっていた。大猿に勝るとも劣らないその轟きにニトローナは本能的な恐怖が刺激され、思わず逃げの姿勢をとっていた。
眼前にいた魔族は頭を抱えるように伏せ、どこか驚いているような表情で怒轟の発生源へと顔を向けていた。
その先にいたのは、体高三メートルはありそうな巨獣だった。
土色の体毛に空を突くようにピンと立った耳。身体を支える四肢はニトローナの胴体ほどに太く、口の隙間から覗く牙は人など容易く切り裂けそうだ。
獣がいる場所は旅の一行の傍ら。
そしてニトローナの視界には旅の一行のイシュランディル、プルトン、ラギス、セロの四人が映っており、『一匹』足りない。
ならば、この巨大な獣とはーー
「セル、ロゥ?」
その呟きが聞こえたのか、巨大な獣は眼を動かしてニトローナを見据えた。
そして呟きがもう一つ。
「兄者……なのか?」
頭を抱えるように伏せていた魔族が小さく言葉を漏らした。
そろそろ伏線回収開始……予定です。




