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29.獰猛な者達

 地を揺るがすほどの衝撃が周囲へと広がる。

 大猿は圧倒的だった。

 人の身では太刀打ち出来ない。例え剣を持とうと、大猿の命に届くことは叶わない。そう確信するほどに圧倒的だ。


「ぐっ、おぉぉ!」


 振り下ろされるてのひら。唸りを上げる拳。大猿の両腕は振るわれるだけで寿命が縮みそうな恐怖を刻みつけてくる。

 それでもニトローナは逃げない。

 怒りの宿る赤眼を睨み返し、自身の赤髪を乱れ咲かせるように縦横無尽に駆け巡る。


 大猿は体の構造が人間と似通っている。違いは前傾姿勢ゆえに重心が上半身に偏っていることだ。人間のように直立するよりも両腕を地につける方が安定する。ならば、上半身でバランスを取っている大猿が腕で攻撃するときに重心に乱れが生じる。

 ニトローナはそこを逆手に取る。


 右手で攻撃されれば身体を支えている左手を剣で切りつけた。僅かな血が流れだす程度の傷だが、気を引く程度ならばそれで十分。


「ギュォオ!」


 大猿はどこか大げさに位置を下げ、ニトローナと距離を取る。

 その痛がる仕草はこれで三度目。

 ニトローナはそこで確信する。

 大猿は痛みに慣れていない。あそこまで過剰に反応するということは、指先に傷ができることすらほとんど経験していないのだろう。


 ニトローナは剣身を赤く濡らす血液を見つめ、大猿へ見えるように剣を掲げた。

 挑発行為である。

 お前を傷つけてやったぞ、ということを示唆した動きだった。


 出来るならばこのまま小さな傷を与え続けて、ニトローナ自身に、引いては人間に苦手意識を持たせたいという狙いがあった。人間に手を出せば痛いばかりで見返りがない。そう思わせることができれば十分だ。



 唸りを上げる大猿は見事に釣られた。

 赤眼を血が吹き出しそうなほど見開き、大きな牙を怒りに震わせている。


「グオオオオオオオォォォォォ!」


 大猿の激烈な雄叫びは周囲へ轟き、振り上げた両腕を地面へ何度も叩きつけた。

 怒りの蒸気が口から漏れ出す大猿は、ニトローナを見据える。

 

 来る。


 ニトローナは直感に従って右へ跳ぶ。

 一瞬の間。

 ニトローナが直前までいた場所へ叩きつけられるのは巨大な右の拳。ならば姿勢を保っているのは左手だ。ニトローナは大猿の身体を支えている左手へ駆ける。

 次はもう少し深く切り込もうと、剣を握る手に力を込める。

 

 それが失敗だった。

 ニトローナは欲をかいた。ただ大猿の攻撃を避け続けるだけでいい。だが今後不意に遭遇した時のために、大猿へ痛みを刻み込んでおきたい、という欲を持ってしまった。


 故に、避けたはずの右拳が握りを解いて掌となって向かってくることに、気づくのが遅れた。


「ちぃっ」


 左後方から迫り来る圧力に全身が総毛立つ。何もかも吐き出しそうになる恐怖を抑えつけ、ニトローナは避ける道を一瞬の内に模索する。

 前へと駆ける前傾姿勢では背後には避けられない。横へ跳ぶにも勢いが殺しきれずに姿勢が崩れるだけだ。

 ならば、前に進むしかない。

 ニトローナは進む足に更に力を込め、只々走り抜けることだけに全力を注いだ。

 

「ぐ、おおおおおぉぉぉぉ!」


 雄叫びとともに地を蹴りたて突き進む。進む先には大猿の左腕。背後には大猿の右手。

 ニトローナは大猿へと迫る右手を置き去りにするように駆け抜け、左腕が目前に迫った瞬間に目を疑う光景を捉える。

 姿勢を支えているはずの左腕が地面から離れ、掌がニトローナの進む道を遮るように動き始めた。そして背後から迫っていた圧力が消えている。ニトローナを追っていた右手は左手の代わりに大猿の姿勢を支えているのだろう。


 欲をかいただけではない。侮りもあった。大猿は本能で動く獣であると。罠を張るはずがない、策を弄するはずがないと考えていた。

 だが大猿は罠を張った。空いた手の方ばかり攻撃してくる人間に背後から追い打ちをかけて逃げ道を狭め、向かってくるであろう場所に掌で壁を作る。そしてニトローナは、罠に嵌まりかけていた。


 大猿の左手はニトローナの進路へと壁を作りつつある。だがまだ完全ではない。僅かな隙間があった。

 ニトローナは駆ける速度はそのままに、掌と地面の間にできた僅かな隙間に滑るように足から飛び込んだ。草を削り、服が破れ、髪が乱れる。全身を細かい衝撃が何度も襲った。頭も手も足も、体中に痛みが走る。


 それでもニトローナは進み続け、掌の壁を無事に抜けることが出来た。ほとんど奇跡に近い。


「……ぐっ」


 命は助かった。

 しかし、その代償としてニトローナの手には何も握られていない。持っていたはずの剣は大猿の手元に置き去りになっている。

 そのうえ全身を痛めたせいか、手足が意識と『ズレている』ような感覚がニトローナを覆った。手に力を入れても何か咬み合わない。まるで使い方を間違えているような感覚だった。

 これでは大猿の攻撃を避け続けることは難しい。


 そんな状態の獲物を大猿が逃がすはずがない。大猿は自分の真横を駆け抜けたニトローナを追うように、体勢を左旋回させつつ、勢いに任せて左手を繰り出す。

 ニトローナに迫る左手は、まるで虫を払うように振りぬかれようとしていた。


 大猿の左手から逃れるために足に力を入れるニトローナであったが、やはりどこかおかしい。横へ跳躍するが思った以上に距離が出せない。

 いや、そうではない。先ほどの回避行動ではこれで問題なかったのだ。そして今回の動きもどこも間違ってはいない。実際に大猿の左手は避けられたのだから。


「ガアァ!」

 

 雄叫びを上げて追撃を放つ大猿。次は右手の振り下ろしだ。

 当たれば一瞬で挽肉になるその攻撃を、ニトローナは距離を取るように大きく跳び下がった。

 

 ニトローナは大猿に視線を向けながら、自分の感覚のズレを意識してみる。

 自分が思い描いた動きと、実際の動きの違い。使い方を間違えているような手足の感覚のズレ。

 それはつまり、自分の想像したとおりに動けないのではなく、肉体が出せる結果を想像が飛び越えているのだ。


 ならば、想像に沿うように自身の肉体を動かせばいい。

 そして、使い方が間違えているのなら正しい方法で動かせばいい。

 ニトローナはその方法を知っている。自分が人として生まれるよりも前、四本足の生物だった頃の記憶を手繰り寄せた。

 幼き頃に忘れ去った古い感覚が蘇る。





 両足を曲げ、前傾姿勢で両手を地に下ろす。

 そうだ、『これ』でいいんだ。こうすればもっと早く動ける。体と意識が合致する。


 自分に足りないものが見つかったような満足感が心身を満たす。すると四肢が熱を持ち、皮膚が裏返るような感覚で覆われていった。骨と筋繊維が軋みを上げて変異していき、表皮に炎を連想する獣毛が生え揃い、ニトローナの四肢は獣のそれに変化した。

 ニトローナは自分がどのような状態か理解しないまま、眼前で右腕を振り下ろそうとしている大猿へと向けて、駆ける。四肢のあった地点は爆発するように土草を散らした。


 振り下ろされる右腕を掻い潜るように地を駆けるニトローナは、あろうことか大猿の懐に飛び込んだ。そして大猿の右足へと掌を当て、溜めに溜めていた魔力を瞬間開放。掌から放たれた爆圧が大猿の体毛と皮膚を根こそぎ千切り飛ばした。


「ギィィアアアアア! ギュイイイイィイ!」


 今までにない絶叫を上げる大猿は大きく体勢を崩して地面に体を倒した。即座に離れていたニトローナはその様子を眺めつつ、このまま続けられるか思案する。

 今の攻撃は大猿の想定外だからこそ成功した。次は懐に潜りこむことは難しいだろう。そして掌で触れることすら警戒される可能性がある。

 それ以上の問題は掌の痛みだ。大猿の頑強であろう体毛と皮膚を千切り飛ばすために、通常以上の魔力を込めたせいで火傷するような痛みが残っている。緑の猟犬に追われていて時の痛みが癒えないまま無理をしたせいか、酷く痛んだ。


 出来ることならこのまま逃げ去ってほしいものだったが、大猿から怒りが溢れる視線を向けられる。まだ終わりではないようだ。



 ニトローナは足を曲げていつでも跳び出せるように構える。大猿も両手で地面を掴むような姿勢で構え、怒りが迸るような眼でニトローナを見据える。

 両者がそれぞれ跳び出せるように力を溜め始め、些細な切っ掛けで動き出すような、緊迫した空気が辺りに立ち込める。

 沈黙と緊迫。



 それを破ったのはーーニトローナと大猿、どちらでもなかった。



 構える二人の丁度中間地点。その場所に真横から襲来した一つの雷球が着弾した。

 鼓膜が吹き飛ぶかと思うほどの轟音と衝撃が周囲一帯に広がり、着弾地点から天へと上る紫のいかずちが発生する。土草は焼け焦げ、抉られた大地から煙が昇った。

 


 あまりにも唐突すぎる現象に、ニトローナと大猿はその場から大きく距離をとった。

 着弾地点には未だ紫電が迸るように帯電しており、近づくことすら危険に思える状態になっている。

 何がどうなっているのかと驚愕している両者の前に、焦りに表情を染めたイシュランディルが短剣を手にして姿を表した。

 ニトローナと大猿から真横にある位置に現れた虹賢者の足元には、恐らく帯電しているであろう紫電を纏った紫色の狐が毛を逆立てていた。


 その姿を見てニトローナは理解する。先ほどの異常事態はイシュランディルによるものだと。


「ニトローナよ、それ以上戦ってはいかん」

「……なに?」


 ニトローナとしては別に戦いたいわけではないので構わないのだが、イシュランディルの危惧をはらんだような表情が気になった。緑の猟犬に追われていた時でもあのような表情は浮かべていない。


 イシュランディルは大猿へと向き直ると、紫の光を纏わせた短剣を突きつける。そこには決して届かない距離でも刺し貫くと思わせる何かがあった。


「グラ・セッロよ、疾く去るがよい。貴様が惹かれた者はもうここにはおらぬ」


 大猿は唸り声を上げ威嚇で返すが、睨み続けるイシュランディルを見て動きを止めた。


 数秒か、数分か。両者のにらみ合いは大猿が顔を逸らしたことで終わった。逸らした先にはニトローナがおり、その姿を焼き付けるように目を細めると、重い足音を立てて森の奥へと姿を消した。


「ふぅ、どうにかなったかの」


 イシュランディルは大きく息を吐くと短剣を腰に収め、紫の狐へと手を振る。すると狐は紫電の輝きと共に姿を消した。

 ニトローナはどうにかなったと安堵の吐息を漏らして腰を下ろす。そこで自分の四肢を視界に収め、驚愕に目を見開いた。


「なんだこれは!?」


 赤い獣毛に覆われた両手足。命を賭けた戦闘が終わり、周囲の状況を意識できるようになると獣のように変化した四肢に混乱する。一体何が起こったのかと、困惑の視線を自分の四肢へ向けるニトローナ。その傍らへ歩み寄ったイシュランディルは、有無を言わせぬ口調で言葉を向けた。


「自分は人間だと考えろ。そして大切な者との記憶を思い出せ。お主なら、それで戻れるはずだ」

「大切な……者」


 混乱の渦中にあったニトローナはイシュランディルの言葉に縋るように鸚鵡返しに呟く。

 大切な者。ニトローナにとって、それはただ一人だ。

 血を分けた、たった一人の姉妹。

 思い出そうとすればいくらでも頭に浮かぶ。

 笑い顔、泣き顔、怒り顔。

 笑い声、泣き声、怒鳴り声。

 たった一人の大切な妹のことを、忘れられるわけがない。


「セリン」


 名前を呟けば、無性に会いたくなった。


「っ、熱い? ーーぎっ痛ぅ!」


 四肢が急激に熱を持った。そして皮膚がめくれ上がるような感覚で生え揃っていた獣毛が消え去り、痛みとともに軋みを上げる筋肉と骨が元の形を取り戻した。


「……おぉ、戻った」


 ニトローナが人の形を取り戻した手足を眺めていると、イシュランディルが大きく息を吐いた。


「まったく。近頃の若いもんは無鉄砲すぎる」


 ニトローナを見下ろすイシュランディルは、どこか呆れるような顔で呟いたのだった。

今回の話は疲れました。

戦闘するだけならもっと簡単なのに、明かされてない設定ぶち込んだりして難産な話でした。

想像と現実はそう簡単に合致しませんね。

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