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28.静かな慟哭

 ニトローナは冷や汗で背中を濡らしながら眼前の大猿を見据え、思考する。

 緑の体毛に赤い顔に太い牙。どうやら緑の猟犬に包囲された時に遭遇した魔獣で間違いはない。

 しかし、あの時よりも恐怖や絶望といった圧力を持った負荷が少なく感じた。


 油断なく剣を構えつつ大猿を観察していく。

 大猿は指先を切られた痛みに驚き、飛び退って距離をおいていた。指先からの流血は少ない。あれではすぐに塞がってしまうだろう。

 そこでニトローナは違和感に気がつく。


 小さい。


 最初に遭遇した大猿よりも小さく見えた。

 あの時の大猿は身の丈が四メートルはあった。しかし眼前の大猿は三メートル弱程度に見える。恐らく別の個体なのだろう。

 

 

 ニトローナは眼前を見据えつつ背後の気配に気を配る。

 大猿に切り込むときに見えたのはプルトンと魔族の少年だった。魔族の少年は腰を抜かし、立っていても動けなかったプルトンも似たようなものだ。できれば二人を連れてこの場を離れたいが、そうもいかない。

 逃げる獲物を追うのは獣の本能だ。それは魔獣も変わらないだろう。


 追跡を止める必要がある。

 傍らではセルロゥが大猿を威嚇しているが、体格差がありすぎた。大猿の足止めは現実的ではない。

 かといって今のニトローナはどこか感覚にズレが生じている。いつもの様に戦えるか不明だ。戦闘の最中に感覚のズレが致命的な隙にならないとも限らない。

 そして旅の疲労も無視できない。適度に休息はとっていたが、万全な状態とは言いがたい。体の節々に疲労が蓄積していた。


 それ以前の問題として、たとえ万全の状態だろうと、大猿がやや小型であろうと、自分が勝てるとは思っていない。せいぜい気を散らすような牽制をしつつ逃げまわることだけだ。


 ニトローナと大猿の間には、生物としてそれほどの差がある。


 とはいえ、選択肢を選んでいる時間もなさそうだ。

 大猿が自身を傷つけたニトローナに赤眼を向けている。その瞳には怒りが宿っていた。


 どうやら選択するのは自分ではなく、大猿らしいとニトローナは剣を握る手に力を込める。


「プルトン、は返事ができないか。そこの魔族の子供。歩けるか?」


 ニトローナは背後の二人が動くのを気配で感じた。


「あああ、歩ける」


「よし、ならプルトンを連れて里へ戻れ。そしてイシュランディルを、私の連れの老人を呼んで来い」


「あ、あのじーさんなら、なんとかできんのかよ」


 大猿が蹲った姿勢から上体を起こした。


「知らん。考えている時間はない、行けぇ!」


 もはや背後に気を配る余裕はない。大猿が動き出したのだ。

 大猿がニトローナに意識を向けている今なら、二人が逃げられる可能性はある。そこに賭けるしかない。



 大猿の最初の一手は、手を振り下ろすことだった。掌を下に向け、ニトローナを虫のように叩き潰すための一手だ。

 ニトローナはセルロゥと共にその場から飛び退く。


「よし」


 押しつぶにように迫る掌を避けたニトローナは、大猿の意識が自分に向いていることを確認する。その証拠に大猿はこの場を離れるプルトンたちではなく、ニトローナに視線を向けている。宿るのは怒りと敵意、そして困惑。小さな二本足の獲物が避けるとは考えていないようだった。


 ニトローナは全身から汗を吹き出し、大猿が掌で残した跡を視界に収める。ニトローナの足首どころか脛まで入りそうなほどに押しつぶされた草地。わかっていたことだが、大猿の一撃は喰らえば即死だ。例え金属製の鎧であろうと良くて瀕死だろう。それ以前に重さで動きが鈍い分、避けることが出来ずに詰む。


 不幸中の幸いか、不幸中の不幸か、今のニトローナは何の防御的価値も無い服一枚を纏っているだけだ。

 避けやすいが、死にやすい。掠るだけで状況が一気に死へと傾くだろう。

 ニトローナですらそれなのだから、セルロゥはそれ以上に危険だ。大猿との体重差は十倍以上。掠るだけで危険なのはセルロゥも同様だった。


 ニトローナは視線を大猿に固定したままプルトン達を指差す。

 

「セルロゥ、行け」


 セルロゥは唸り声を激しくしつつ、プルトンたちの方へと駆けて行った。不利な状況の中でプルトンを守ることを優先したのだろう。群れの中で子を守るのは重要な仕事だ。

 何よりこの旅はプルトンを失えば失敗なのだ。失敗の結果はヴィルブランド領が戦火に巻き込まれることを意味している。ニトローナにとってその事態は避けなければならない。故に自分一人で大猿と対峙することを選択した。

 

 大猿の視線が動き、離脱したセルロゥへと僅かに向けられる。

 ニトローナは反射的に口を開いた。


「こっちを見ろおぉぉ!」


 ニトローナの怒声に大猿の意識はセルロゥから外れる。


 これで場は整った。後はイシュランディルが駆けつけるまで耐えればいい。


 領地で待つ妹のためにも死ぬ訳にはいかないニトローナだったが、大猿の攻撃をどれだけ避け続ければいいのかわからないという状況は、なかなかに絶望的だった。


 勝利のない戦いが始まった。








 緑の里の巨木内部。その一室。

 族長と話をしていたイシュランディルの意識にある種の揺れが感じられた。イシュランディルの眉間に刻まれたシワが深くなる。


「これは……まさか」

「おおぉ、揺れとる、揺れとる。とても小さいが、綺麗な波だ」


 険しい表情のイシュランディルに対し、長の声は陽気なものだった。


「あの愚か者め」

「いいでは、ないか。どうやら、里の子が、近くにおるようだ。言葉で伝えたい事が、あったのだろう」

「自分で調整を出来るようになってからでも遅くはあるまい。今でなくてもいいはずだ。それをあの愚か者はよりにもよってこんな時に言葉を使いおった」

「大丈夫で、あろう。陛下の壁は、この程度では、崩れぬよ。とはいえ、あまり、褒められたことでは、ないのぉ」

「ならばこそ、待つべきだった。衰えたあやつに無駄な力を使わせるべきではない」

「一理ある。だが、今でなければ、伝えられない言葉もあろう? 長過ぎる星霜を経たお主は、忘れたのか?」


 僅かに窘めるような口調の長。イシュランディルは僅かに目を見開き、嘆息する。


「ふん。確かに、長く生き過ぎた儂は忘れかけていたようだ」

「若者の無鉄砲は、得難いかてとなる。無謀に手を出すなら、叩いて諌め、見守ればよい。それが、年長者であろう?」

「……いいだろう。後でしっかり叱りつけてやるとしよう」


 イシュランディルが口を歪めて悪い笑いを浮かべると、長は顔を軋ませながら笑った。


「むぅ」


 笑顔を浮かべていた長の顔が、今度は険しさに軋みを上げた。


「どうした」

「どうやら、声に惹かれた者が、おるようだ。里の外から一つ、中から一つ。おぉ、あの娘子むすめごか」

「……ニトローナが向かっているのか。では外からの一つとは何だ?」

「大きい、反応だのぉ。恐らくは、グラ・セッロ」


 長以上に表情を険しく変えたイシュランディルはすぐさま踵を返して扉へ向かう。足音は焦りを表すように荒々しい。

 そんな虹賢者の背を見ていた長は横へと視線を動かす。視線の先には今まで黙していたセロがいる。


「セロや、お主も、行くといい」

「はい。その前に、里の子というのはザスカラでしょうか?」

「おぉ、あの場にいるのは、ザスカラだ」


 セロの表情が歪み、絶望に染まった。


「あの子は、何ということを……」

「ほっほ、次代の王と、友誼を結ぶとは、ザスカラの将来が、楽しみだのぉ」

「そんな楽観できる状況ではありません! 殿下が声を出した原因はどう考えてもあの子です。もし、殿下に何かあれば私たちは……」


 取り返しがつかない最悪の事態がセロの脳裏を過った。


「ふむ、大丈夫で、あろう。あの娘子が、向かっておる」

「娘子……ニトローナさんですか? ですがあの方はグラ・セッロには……」

「うむ。勝つことは、出来ぬだろう。だが、あのたぐいの者は、経験した恐怖を、避けるのではなく、叩き潰す。特にあの娘子は、その色が強い。勝てはせぬが、持ちこたえられるであろう」


 セロは長の言葉を聞いて表情を引き締めると、部屋を出て行った。その顔には焦燥と使命感が浮かんでいる。

 

 部屋に残された長は呟く。


「陛下。もう暫く、お待ちを。イシュランディルが、我らの友が、必ずや、御子を届けます故」


 長は悲しげに目を細め、言葉を続ける。


「どうか、もう暫く、命尽きませぬよう、お願い申し上げます」


 長の言葉は虚空に消えた。

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