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27.惹かれた者

 森の中を歩く少年二人。

 プルトンは好奇心旺盛な顔で質問をぶつけてくるザスカラへ頷いた。


「へぇ、西の果てにはでっけー川があるって本当なんだな」


 ザスカラが訊いてきたのは海のことだった。直接見たことはなかったプルトンだが、イシュランディルに教えられている。

 視界に収まらないほど広大で、独特の匂いと塩辛さに満たされた巨大な川。夜には姿を変え、あらゆるものを飲み込むような闇を内包する危険な存在。それがプルトンのイメージだった。


「いつか見てみてーな。俺ほとんど里から出たこと無くてさ、森の外がどんな所なのか知りたいんだ。だけど大人は皆して俺を外に出させねえんだよ。お前が大人になるまで待てって言うけど、大人になるまで待ってられるかってんだ」


 ザスカラの身長はプルトンよりも上だが、他の魔族を見た限りでは低い。言葉で聞くことが出来ないプルトンだったがザスカラが子供であるとは理解できた。

 魔獣が棲む森に子供が出歩くことが許されないのは当然だろう。実際に魔獣の脅威を肌で感じた経験のあるプルトンには、大人の考えがよくわかった。魔獣にとって子供は狙いやすい獲物でしかないのだ。

 プルトンが肯定も否定もできないでいると、視線を樹上へと向けていたザスカラが笑みを浮かべた。

 

「ちょっと待ってろよ。イイもん取ってくるから」


 そう言ったザスカラは膝を曲げる。そして跳躍すると木の幹を蹴って更に上へ。近くにあった太い枝を掴むと勢いを利用して体を回転させ、枝の上に乗った。

 あまりの身軽さにプルトンが眼を丸くしていると、ザスカラは木の頂上近くになっていた赤い果実を二つ手にとった。そして踊るように枝から枝へ飛び移ってプルトンの眼前へ着地する。


「へへ、これが結構美味いんだぜ」


 果実を手に持って得意気に笑うザスカラは、一つをプルトンへ差し出した。食べ方を教えるように果実を皮のまま齧るザスカラを真似て、プルトンも果実を齧ってみる。

 やや硬い食感の直後にさわやかな甘さが口内を満たした。林檎のような甘酸っぱさがあり、とても食べやすかった。プルトンがそのまま二口、三口と果実を齧っていく様子にザスカラは笑顔を浮かべた。

 

「美味いだろ?」


 勢い良く頷くプルトン。ザスカラは声を上げて笑った。


「色々答えてくれた礼だ。そういえばお前名前はーーっと、喋っちゃいけないんだったか」


 ザスカラはそこで言葉に詰まり、考えこむ。

 プルトンは出来るなら自分の口で名前を教えたかった。

 王国での生活に不自由はなかったが、友達と呼べる者がいた経験がない。自分の声で傷つけてしまうのが怖かったからだ。

 だが、ここに来てプルトンな中で傷つける恐怖よりも、ザスカラと友達になりたいという欲求が勝った。


「俺、字は読めねえからな。お前の仲間から訊くことにすっかーーん?」

 

 プルトンは首を振ってザスカラの言葉を止めた。そして自分の口を指差した後にザスカラへと向ける。


「なに? えっと、口で教えてくれんの?」


 プルトンは音がなるほど首を上下に振った。


「ハハッ、別に無理すんなって。あのおっかねぇ魔法使いに怒られんぞ」


 プルトンはシワが刻まれたイシュランディルの顔が怒りに歪むことを想像して身震いする。しかし、自分の内から湧き出るような欲求には逆らえない。表情を固くして頷いた。


「んー、じゃあちっさい声でな。それなら多分大丈夫だろ」


 プルトンは喜びに笑顔を浮かべ、軽く胸を叩いて深呼吸する。鼻から息を吸って、口から大きく吐いた。

 やけに大げさな行為にザスカラは笑っているが、プルトンからしたら声を出すのは数年ぶりだ。

 それも友になりたい少年に名前を教えるのだから、緊張してしまう。

 呼吸を落ち着けると、プルトンはザスカラをまっすぐに見た。


「お、準備万端か?」


 プルトンは笑顔で頷く。

 そして口を開き、ただ一言、自身の名を呟くようにザスカラへと向けた。





「プルトン」




 それは波であった。

 プルトンの内から湧き出る魔力が溢れだし、声に乗って周囲へと広がっていく。地を揺らし、木々を揺らし、風を揺らし、空を揺らす。

 小さな声が万物を揺らすように響き渡った。

 

 プルトンの声は数年ぶりとは思えないほどはっきりとした音になり、ザスカラへと伝わる。そして同時に、魔力がザスカラという存在を揺らした。


「お、おお?」


 酩酊したような様子でザスカラは頭をふらつかせ、手に持っていた果実が手から零れ落ちる。そして立つ姿勢を保てないかのように尻餅をついた。

 プルトンは慌ててザスカラに駆け寄った。自分の声がまた傷つけてしまったという後悔が脳裏を満たし、深刻な表情で顔を俯かせてしまう。

 しかしあまりに明るいザスカラの声で顔を上げた。


「は、ハハハッ、すっげえなあ、おい」


 ザスカラはプルトンの背中を力強く叩いた。


「なーに泣きそうな顔してんだよ。別になんともないって。ほら」


 ザスカラは若干震える足を叱咤するように叩いて立ち上がった。少し足元が危ういが、それ以外は何ともなさそうだと、プルトンには感じられた。


「いや、お前の声すっげえよ。見てたか? 周りの木がブワァって揺れたんだぜ。何かが広がるようにブワァってな!」


 興奮した様子で喋り続けるザスカラは身振り手振りで凄さを表現する。

 その様子がどこかおかしく、プルトンは暗い顔を笑顔に変えた。


「あんなすげえ魔力は初めてだ。全身を何かが通り抜けたように感じたぜ!」


 興奮が抑えられない様子のザスカラ。彼は右手で拳を作り、プルトンに差し出す。

 拳の意味が理解できないでいると、ザスカラに「お前も」と促されてプルトンも拳を前に出した。


「約束する。俺は大人になったらお前に会いに行く。そして、魔力を制御できるようになったお前と、ちゃんと言葉を交わす。必ずだ」


 ザスカラはそう言って、自分の拳でプルトンの拳を上から二回叩く。

 ますます疑問符を浮かべるプルトンに、ザスカラは行為の意味を説明した。


「これは俺たち緑の部族に伝わる誓約の儀式だ。まあ儀式って言っても、約束を果たすためにどんな困難も乗り越える、っていう宣言みたいなものらしいけどな」


 興味深そうに頷くプルトンに、ザスカラはどこか誇らしげに言葉を続けた。


「ずっと昔に族長は王様と誓約を交わしたらしいぜ。内容は教えてもらえなかったけど、今でもその時の約束を果たし続けてるって言ってた。それと同じってわけじゃねえけど、これは未来の魔王と緑の部族の誓約だ」


 ザスカラの言う王様とは魔族の王のことだ。それはつまり、この誓約の儀式は魔王が認めたものだということだ。

 その事実に、プルトンは何処か荘厳なものを感じる。


「俺がお前の拳を上から二回叩くことで誓約した。お前がその誓約を受けるなら上から二回叩き返して、受けないなら下から二回叩けばいい」


 無邪気な笑みを浮かべるザスカラ。プルトンは同じような笑みを浮かべ、自分の拳をザスカラの上にもっていき、軽く叩いた。そしてもう一度。


 誓約は成った。


「よっし、約束な。プルトン」


 プルトン。

 そう呼ばれた本人は呆けたように目を開き、自分の中で名前を呼ばれた事実を噛み締め、声を上げないように苦労しながら笑う。眼には薄く涙の膜が張られていた。










 そして二人の耳に音が届く。

 地を駆ける重い足音。木の枝を強引に押しのける葉擦れの音。

 そして振動。


「なん、だ?」


 笑顔から一転、ザスカラの表情は緊張に変化する。

 そしてそれ以上に、プルトンの表情は恐怖に染め上げられた。

 

 あの音は知っている。

 力を響かせるようなあの音。その発生源である魔獣をプルトンは知っている。

 身を持って味わった絶望を忘れてはいない。


 音は遠くはない。それどころか近づいている。

 微かに聞こえていた振動音が、周囲の木々を揺らすほど大きくなったとき、魔獣が姿を表した。



 緑の体毛に覆われた巨体。むき出しの赤い皮膚に覆われた凶相。赤く淀んだ眼とむき出しの太い牙。

 大猿グラ・セッロだった。


 その魔獣は存在するだけで圧力を放つ。


「な、んで……こいつ、が?」


 全身を震わせるザスカラは呆然とした様子で呟く。

 先程までの和やかな雰囲気など一片も残っていない。ただただ恐怖に震えていた。


 それはプルトンも同様だ。

 まるで極寒の中に放り出されたように顎を震わせて歯を鳴らしている。

 緑の猟犬に包囲されたとき、その場に存在する全てを圧倒するかのように現れた大猿の行為が脳裏に再生された。

 あのときの大猿は、無造作といえるほどに容易く猟犬を掴みとり、その半身を食いちぎり咀嚼した。

 そして今、あのときと同じ行為が再現されようとしていると、プルトンは予感した。

 食い千切られるのは自分たちであるという、死の予感だ。


 大猿はプルトン達を見下ろすと、今度は周囲へと視線を向ける。何かを探しているような動きだった。


 傍らのザスカラは腰を抜かしたように尻餅をついた。手足は後ずさるように動いているが、力が入らないのか少しも進んでいない。

 プルトンはその姿を見て不思議に思った。

 どうして自分は立っていられるのか? ただ怯えるだけで済んでいるのか?

 予測の答えはすぐに出る。

 経験だ。

 大猿に睥睨され、威圧を一身に受けた経験だ。

 あの絶望的な恐怖の経験があるから体を震わせる程度で済んでいるのだ。

 だからこそプルトンは思う。この程度で済むのなら、足を動かすことは出来るのではないか?

 足が動かせるのならーー


 今なら、逃げられるのではないか?


 その選択肢が脳裏をよぎった瞬間、怖気が全身を駆け巡った。

 自分は今何を考え、どのような未来を思い描いたのか。

 その事実に激しい自己嫌悪が生まれる。

 プルトンが逃げるということは、ザスカラはこの場に残されることを意味する。直前に約束を交わした相手を置き去りに、いや、囮という餌として扱うことだ。


 プルトンは右手で拳を作り、歯を食いしばる。

 そして握りしめた拳で、自身の顔面を力いっぱい殴った。

 勿論恐怖はあった。痛みは怖い。

 だが、ザスカラを置き去りにすることよりも、怖くはなかった。


 肉と骨が打ちあう音が脳内を駆け巡る。

 痛く、熱い血液が流れだす。

 だが、恐怖は薄れた。


 プルトンは鼻から流れだした血を拭うと、未だ震えている足を動かす。

 前へ一歩。たった一歩。それだけでも意味はある。

 そしてまた一歩。更に一歩。

 ザスカラを庇うような位置に立つ。

 

 プルトンの額を汗が伝った。

 たったの三歩。

 それだけの動作で大量の汗が吹き出すほどの疲労に、プルトンは目眩がするような気分だった。


 大猿は動き出した餌を見下ろした。首を左へ右へと傾け、観察している。


 プルトンは自分を見下ろす大猿を睨むように見上げた。そうしなければ心が折れてしまいそうだったからだ。

 ここまでしたプルトンだが、大猿に力で敵うはずがない。ではどうするのかといえば、声しか無かった。

 

 魔族の王になる資格を秘めるほどのプルトンの声。

 万物を震わすような魔力が込められたその声で、大猿を撃退する。

 

 逃げるための選択ではなく、強大な存在に立ち向かうためのたった一つの方法をプルトンは選びとった。

 確証はない。予測もできない。

 それでも、前に進むための選択だった。


 破裂するかと思うほど暴れる心臓を抑えつけ、プルトンは深く息を吸った。

 

 その行動に反応するかのように大猿が体を動かし、プルトンへと手を向ける。それは餌に対する動きというより、何かを確かめるために掴むような動きだったが、掴まれる側のプルトンの眼には捕食されるための行動にしか映らない。


 それ故に失敗する。

 緑の猟犬が捕食される場面を思い出してしまい、それを自分の未来だと考えてしまった。半身を口切られるのが緑の猟犬ではなく自分の姿だと幻視する。

 恐怖に立ち向かおうとするものが、恐怖に負けた姿を思い描く。それは敗北宣言と同じだった。

 

 そして限界が訪れる。

 肺活量ではない。全身を貫く恐怖に限界が来たのだ。

 眼前に迫る巨大な掌が放つ圧力に、プルトンの体と意識は動くことをやめてしまった。


 自分に訪れるであろう死を脳裏で認識し、それ故に諦めてしまう。自分を掴もうとする巨大な掌から逃げられないのだと、本能で理解してしまった。


 プルトンの目から涙が零れ落ちる。

 

 もはや呼吸は止まる。体の震えも止まる。

 自分に死をもたらすであろう大猿の掌を、プルトンは滲んだ視界でただ見つめていた。


 


 そして、プルトンの視界に赤い花が咲く。

 赤い花は大猿の手とプルトンの間に入るように咲き乱れた。細長い何かが振り下ろされる。

 その直後、驚愕と苦痛が込められた声が響く。

 プルトンではなく、ザスカラでもない。

 大猿の悲鳴だった。


「ギュオォォ!」


 プルトンの全身を覆っていた圧力が消える。前触れ無く自由を取り戻した身体は力が入らず、地面に引かれるように腰が落ちた。

 プルトンは震える手で目をこする。滲んでいた視界が鮮明になる。

 そして赤い花の正体を理解した。


 頭部から流れ落ちる火の色をした髪の毛と、女性にしては長身なその身体。

 そんな人物は一人しか知らない。

 自分を魔族の都に届けるための護衛の一人。

 

 ニトローナ・ヴィルブランドだった。

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