初夏の夜
「お祖母ちゃん、私のお父さんとお母さんはどんな人なの?」
夕食の席でそう尋ねたまだ幼い那由多に、正面の席に座った清子が琥珀色の瞳を細める。
物心つく前から、この家には那由多と清子しかいなかった。
幼稚園の友達の家には当然のように『両親』がいるのに、那由多の家には『祖母』しかいないのだ。
どうしていないのかという疑問は浮かばなかった。
そんな疑問を抱く年頃になるより早く、清子から二人は交通事故で亡くなってしまったのだと教えられていたからだ。那由多は、そうなのかと納得する他なかった。
しかし、この家には『両親』どころか、『両親に関する物』が何一つなかった。
遺留品はもちろんの事、写真すらない。結婚後に別の家へ越したのだとしても、母親の母である清子がアルバムの一つも持っていない事が不思議だった。
那由多の成長を記録するように、こまめに慣れないカメラで写真を撮っては丁寧にフォトアルバムに保管している清子の事だ。もしかしたら、母のアルバムくらい持っているのかもしれない。
だが、彼女にはそれを見せる気がないようだった。少なくとも、今の所そのつもりはないように思えた。
だから、こうして疑問を口にしたのもこの時が初めてだった。
箸を止めてじっと答えを待つ那由多を見つめ、清子は困ったように眉を下げて微笑む。
「ごめんなさいね、那由多。貴女のお父さんの事はあまりよく知らないのですよ」
「……お母さんは?」
「貴女のお母さんの事なら、よく知っています。あの子はとても賢い子で、ちゃんと自分の考えを持っていた。だけど他の人を思い遣る事もできて、間違った事は間違っているとはっきり言える子でしたよ」
初めて聞いた母の話はたったそれだけだったが、自分とはあまり似ていないと那由多は思った。
僅かに肩を落とす彼女に、清子がくすくすと笑みを零す。
「……ああ、そうね。貴女のその瞳は、遥にそっくり」
紫苑色の瞳が丸くなり、清子はどこか懐かしむように微笑んだ。
「あの子も貴女と同じ、不思議な色の瞳をしていたわ」
*
「那由多、お前は異能者と魔族の子なんだ」
はっきりとした口調で告げた目の前のいとこに、那由多はぐらりと世界が歪むような気がした。悪夢に魘されて起きた時のような不快感が、体を包み込む。
本当に、これは現実なのだろうか。
祖母の葬儀に疲れて、いつの間にか眠ってしまったのではないか。きっと、こうしていとこと再会を果たしているのは夢なのだ。そうでなければ、魔族だ異能者だのとおかしな話を聞く筈がない。
変に乱れた脈が気持ち悪く、胸の辺りをきゅっと掴む。
静かな声が名前を呼ぶのが聞こえて、いつの間にか俯いていた顔をそろそろと上げた。
すると、真剣な色を帯びた紫の瞳が体を射抜く。
夢なんかじゃない。一瞬でそう思った。
彼の言葉全てを理解した訳ではないのに、これが現実だという事だけは最早疑う事すら許されなかった。
「お前の親がどうしていないのか、お前は交通事故で死んだと聞かされた筈だ。だが、本当はそうじゃない。伯母さんは殺されたんだ、異能者にな」
「――え」
――殺された? 仲間である筈の異能者に?
瞠目したままの那由多をしっかりと見据え、春は強かな口調で言う。
「父親も同じような末路を辿ったって話だ。異能者と魔族は互いにいがみ合ってるんだから、当然と言えば当然。世界からすれば、二人は裏切り者として処罰されたに過ぎない」
淡々と語られる、顔も知らない両親の話。
何故か胸がきりきりと痛むのは、言葉を交わした事がなくても『両親』だからだろうか。那由多にはわからなかった。
「――けどまあ、過去は過去だ。もうどうしようもない。それより、未来の方が大事だ」
「……み、らい……?」
僅かながら声のトーンを変えて、春は一度頷く。音も立てずに麦茶を一口飲むと、再び那由多を見据えた。
「お前は忌み子として、異能者からも魔族からも狙われてる。今までは、ばーさんがいたから無事に済んだ。でも、もうその盾はない。――お前は逃げられない。それでも、逃げなけりゃ死ぬ」
ピシャリ、と冷水を浴びせられたような気分だった。信じてきたもの全てを否定され、最早縋りつくものすらない。
じわじわと、視界が滲んでいく。
大好きな祖母が死に、その祖母は嘘を吐き続け、両親は世界中にいる仲間と敵に恨まれながら殺された。そして、この自分も命を狙われている。
世界中が敵のような、世界中の不幸が自分に降りかかっているような気さえした。
小刻みに震える体をぎゅっと抱き締める。
すっかり血の気が引き、蒼白な表情の那由多を見て、春は呆れたように溜息を吐いた。
「そんな顔すんなよ。何の為に俺が来たと思ってんだ」
「え……」
「お前を授かったとわかった直後、伯母さんは親父にだけ相談した。お前が狙われる事はわかりきってたから、産むのを躊躇ってたらしい。だから親父が約束したんだ。伯母さんの代わりにお前を守る事を。……まあ正確には、息子の俺に守らせるっていう約束なんだけどな」
ふざけた親父だろ、とでも言いたげに頬杖をついて、手をヒラリと振る。
那由多は僅かに瞬きを繰り返した。
「……どうして、アズマくんなの……?」
「『水無月』は水を操る一族の総代だからな。本来なら当主になるべき伯母さんの代わりに当主になった親父は、他への体面があるから表立って動けないし、いつまでも家を空ける事もできない。だから、俺がお前を守りに来たんだ」
どこか不敵に笑ってみせる春に、恐怖や不安に押し潰されそうだった胸が解放されるのを感じる。
「アズマくんが……守ってくれるの……?」
「ああ。お前が能力を受け継いでるなら、使い方も教えてやる」
便利だぞ、と笑う少年はやはり記憶の彼とは別人だ。
しかし、あの頃には、彼は既にすべての事を知っていたのだろう。
何をすれば良いのかはわからない。それでも、何をすべきかはわかった。
那由多はまっすぐに春を見つめ、おずおずと頭を下げた。
「これから、よろしくお願いします……」
僅かに見開いた紫の瞳。
それから、ふは、と息を吐くように春が笑う。
「こちらこそ、よろしく」
初夏の夜。
少女は気付かぬままに日常を代償に、決して優しくはない世界に足を踏み入れた。