雨があがる前
「いいですか、那由多」
しとしと。しとしと。
空から零れ落ちた雫が、静かに世界を濡らしている。
穏やかなその声は弱々しく、しかし決して雨音に埋もれる事はない。
「貴女はとても、恵まれた子なのですよ」
緩やかに細められた瞳を見下ろしながら、少女はただ黙して老婆の手を握っていた。木の節のように固く、骨と皮ばかりの手のひらをしっかりと握る。
およそ一月振りとなる雨が、静かに町を潤している。外を駆け回る子供の声も無く、閑散とした町には雨音ばかりが響き、少女の耳朶を揺らした。
そう広くはない部屋の中央に敷かれた布団に横たわる老婆は、もう一度念を押すように、同じ言葉を繰り返した。
「那由多。貴女は本当に、とても恵まれた子なのですよ」
床にあっても凛とした声音に、少女の頭の中で記憶が引きずり出される。
初めて出会った頃の記憶など無い。物心付いた時からずっと、老婆は少女の傍にいた。
どんな時でも着物を着こなし、歳のわりに背筋がぴんと伸びた老婆は、時に厳しく、しかしたっぷりの愛情を持って少女を育てた。少女が幼い頃は毎日のように近くの公園へ遊びに行き、学校の授業参観から入学式・卒業式に至るまで、ほとんどの行事に参加していた。
しかし、近所でも元気なお婆さんとして親しまれていた彼女も、遂に老いには勝てなかったようだ。
少女が成長するにつれて背中は縮み、外出は減った。
そして今、彼女は灰色だった髪を真っ白にして床に伏している。
あんなにも若々しかった老婆のこの様を見るのは、少々不思議な気分でもあった。
しかし、少女もまた、ただそう不思議がっていられるだけの子供ではなくなってしまった。
風に揺られる桜の花弁を見つめるように、少女はいつ儚く散ってしまうとも知れない老婆を離すまいと、その手のひらに力を込めた。
そんな少女の心情を知ってか知らずか、老婆は眩しそうに目を細める。
「安心なさい。貴女は一人じゃありませんよ」
「……嘘。お祖母ちゃんがいないと、一人だよ」
搾り出した声が震えてしまわないよう細心の注意を払い、少女は老婆の琥珀色の瞳を見つめ続けた。
庭の木々の葉を打つ雨音が、僅かに大きくなる。
老婆は布団の中からあいた手のひらを出し、少女の頬をそうっと撫でた。
壊れ物に触れるようなそれに、少女は込み上げる熱が溢れてしまわないよう、眉間に力を込める。
ぐっと眉根を寄せた少女を見上げて、老婆はくつくつと笑った。
「私は貴女にいくつか嘘を吐いた事もあったけれど、この期に及んでそんな事しませんよ」
皺だらけの顔で笑う老婆を見つめ、少女は唇を噛む。
できることなら、彼女の手を離さなくてもいい未来を探しに行きたかった。しかし、少女にはその為の術も、時間すら残されてはいない。
自分以上に苦しそうな表情をする少女を見つめる老婆の瞳は、やはり穏やかだった。
「――もうすぐ、迎えが来るわ」
「……え?」
「本当は貴女と一緒に迎えたかったけれど、私の迎えの方が早く来てしまうみたいですね」
僅かに目を見開いた少女はその言葉の真意を尋ねようとしたが、老婆が思いの外寂しそうな眼差しをしていて、思わず口を噤んだ。
幼い頃は、病も怪我もなかった老婆を無敵なのではないかと本気で信じていた。
しかしこうしてその彼女の死を目の前に見据える時が来て、少女は何もできない自分の無力さと非力さに申し訳なくすら感じている。
老婆はたおやかに微笑んで、少女の小さな手のひらを握り返した。
「……那由多、貴女は私の自慢の子。大切な、愛しい子」
「……おばあ、ちゃん」
「最期は、きちんと笑って見送ってくださいね」
穏やかな声が胸に染みる。
最早、少女には、残された少ない老婆の時間をいかに優しい物にできるかを考えるしか残されていなかった。