毒舌弁護士、酸欠になるほどの大爆笑 〜サイコメトリーOLが持ち込んだ証拠が綺麗すぎて、汗をかかずにクズを地獄に叩き落とす〜
フォークの先で弄んだリゾットが、嫌に生温かかった。キノコの濃厚な匂いが、今の胃袋にはただただ泥臭く、吐き気を催させる。
「――悪いけど、紗季。君との婚約は破棄させてもらう」
拓海の口から出た言葉は、耳の奥で一度妙な形に歪んでから脳に届いた。 何を着てきても似合わない男だと思っていたが、今日のスーツはいつになく仕立てが良い。玩具メーカーの営業で少し小綺麗にしているからって、調子に乗っている。私は手に持っていたスプーンを、受け皿の端にカツンとぶつけた。
「……え? 拓海、何、言って――」
「とぼけないでくれよ」
拓海はわざとらしく、周囲のテーブルに聞こえるような大きなため息をついた。被害者を気取った、薄っぺらな顔。その目はもう、私を人間としては見ていない。ゴミ箱に放り込む前の、濡れた生ゴミでも見るような目だった。
「君の異常な束縛、あれ、もう限界なんだわ。毎日毎晩、スマホ盗み見ようとしてさ。こっちの精神が持たない。悪いけど、もう会社の上層部にも全部話してあるから」
「ストーカー……!? 私が? そんなこと、一度だって――」
「言い訳は人事部に言えば?」
鼻で笑う拓海の顔。 頭の芯が冷えていく。総務部の私の耳にも、ここ数日、妙な噂が届いていた。営業の飯田がメンヘラ女に付きまとわれて困っている、と。まさか自分のことだとは思わなかった。すべて、この男が裏で絵を描いていたわけだ。
「じゃあ、そういうことだから。二度と現れないで。ストーカーさん」
拓海は伝票をひったくり、椅子を引いた。 怒りなのか、情けなさなのか、指先が凍りついたように動かない。耳の奥で、古い換気扇が回るような不快な雑音がずっと鳴っている。
『いい? 紗季。うちの血筋はね、本当に追い詰められた時……頭のネジが外れるのよ』
実家の母親が、いつもボロ布を触るみたいに手袋越しに世界を見ていた姿が、不意に脳裏をよぎった。オカルトだと、ずっと鼻で笑っていたのに。
「待って」
身体が勝手に動いた。 立ち上がろうとする拓海の胸元。そのジャケットの、安っぽい光沢のある水牛ボタンを、指先がちぎれんばかりの力で掴んでいた。
「おい、離せ! 何をするんだ、この――」
拓海の罵声が、遠ざかる。 脳味噌の裏側に、熱い油を直接注がれたような衝撃。 視界が真っ黒に染まり、次の瞬間、見たこともない、けれど酷く生々しい光景が脳内にこびりついて離れなくなった。
ホテルのシーツの、安っぽい洗剤の匂い。 半裸の拓海が、一ノ瀬美波の細い太ももにしがみついている。美波の手には、社外秘のシールが貼られた、会社名義の予備スマホ。
『ねえ、パパの部屋からくすねてきたこれ、超使える。これで紗季のフリして、ストーカーの証拠メール送りまくっといたから』
『最高だよ美波。あいつ真面目だけが取り柄だからさ、まさか会社の名義の端末から罠が仕掛けられてるなんて気づきもしないよ』
場面が、別の夜へ飛ぶ。暗い車内。拓海の、汗で額に張り付いた前髪。
『美波、頼む……! 帳簿調べられたら、横領がバレて俺は終わりだ!』
『いいよぉ、お父様に言って監査を揉み消してあげる。その代わり、あたしに一生服従してね? だからさ……早くあの邪魔な女、片付けてよ』
「――っあ!」
気がついた時には、自分の指が拓海のボタンから離れていた。 喉の奥がカラカラに乾いて、激しい呼吸が止まらない。拓海は、虫でも見るような目で私を見下ろし、服の皺を大げさに伸ばした。
「本当に気味が悪いな。警察を呼ばれたくなければ、大人しく会社を辞めるんだな」
足早に去っていく背中を、私はただ見送った。 涙なんて、一滴も出ない。 視えた。全部。
触れたものに残る、他人の生々しい記憶。母が恐れていたあの忌々しい力が、この最悪のタイミングで私の脳みそを乗っ取ったらしい。 会社の法人携帯を使った偽装工作。拓海の横領。全部、この頭の中に焼き付いている。
私はテーブルの上の、クシャクシャになったおしぼりで手のひらを乱暴に拭った。バッグの底からスマートフォンを引っ張り出す。画面に付いた指紋を親指で強く拭きながら、以前、総務の書類で見かけた「裏社会の揉め事を専門にする弁護士」の番号を呼び出した。
窓の外は、じっとりと湿った夜が始まろうとしている。発信ボタンを押す私の指先は、ひどく冷たかった。
冷房が効きすぎていて、肌が粟立つ。南青山の、看板も出していない法律事務所の応接室は、嫌に高い芳香剤の匂いがした。 対面に座る男――神城律は、三つ揃えの重苦しいスーツの袖口から覗く指先で、太い万年筆を弄んでいる。彫刻みたいに整った顔だが、その目は私の話をこれっぽっちも信じていない。品定めするような、冷酷な光。
「なるほどね。要するに、身に覚えのないストーカーに仕立て上げられて婚約破棄、会社でも居場所がないと」
神城は万年筆を机に置いた。小さく乾いた音が響く。
「同情はしますよ、高橋さん。でもね、現実は非情だ。相手は会社の専務令嬢と、その腰巾着。社内政治なんてバイアスの塊だ。いくら君が『嵌められた』と泣いたところで、誰も味方にはならない。それどころか、名誉毀損で骨までしゃぶられて終わりです」
男はデスクに肘をつき、組んだ指の隙間からこっちを覗き込んできた。蛇が獲物の値打ちを測るような仕草。
「ひっくり返せるだけの、相手の息の根を完全に止める『証拠』は? あるんですか」
「ありますよ。今からその場所を教えます」
私が即答すると、神城の片眉がわずかに跳ね上がった。
「ほう……面白いな。一応言っておくが、ここでの会話は外には漏れない。守秘義務ってやつです。さあ、どんなカードを持ってきた?」
私はビジネスバッグの底から、クシャクシャの領収書やリップクリームの頭に紛れていた「二つの物」を引っ張り出し、ガラスのテーブルに並べた。 一つは、拓海がいつも見せびらかすように胸ポケットに挿していた万年筆。 もう一つは、美波が総務部へ嫌がらせに来た際、私のデスクにわざと置いていった、ブランドもののシルクのハンカチ。香水の匂いがきつくて吐き気がする。
「高橋さん、これは?」
「今から、この持ち主たちの頭の中を覗きます。驚かないでくださいね」
私はストッキングの電線を気にするような手つきで、まず拓海の万年筆を素手で握りしめた。 ドクン、と心臓が跳ねる。手のひらから熱い泥のような記憶が流れ込んできた。
「……視えました。飯田拓海が隠している横領の裏帳簿データ。黒いUSBメモリです。彼のデスクの真ん中の引き出し、底を強く押すと二重底になっていて、そこにあります。パスワードは美波の誕生日、十月二十四日の『1024』。口座は〇〇銀行の神田支店。実の母親である『サトウアキコ』の名義で、口座番号は496……」
神城のペンが、机の上でピタッと止まった。私は構わず、美波のハンカチをひったくるように掴む。お嬢様の傲慢な笑い声が、脳味噌の裏側に直接響いて頭痛がした。
「次は一ノ瀬美波。私をストーカーに仕立てたスマホは、専務の部屋の金庫から盗んだ会社名義の予備端末です。管理番号は法人ゼロハチロク。それから……神城先生、ここからが本番」
私は自分の声が嫌に冷たく響くのを聞いていた。
「一ノ瀬専務は、娘から横領の話を聞いて、それを揉み消そうとしています。来週の役員決済で、拓海が盗んだ四千二百万を『海外コンサルへの正当な支払手数料』として処理する気です。その架空契約書の原本、専務の部屋のシュレッダーの横にある、鍵付きのファイルボックスに眠っていますよ」
「……ちょっと待ちたまえ」
神城の目が、完全に変わった。さっきまでの小馬鹿にしたような光が消え、正体のわからない化け物を見るような目つきで私を凝視している。
「君、それをどこで……。専務の最高機密だぞ」
「このハンカチを弄りながら、二人が楽しそうに喋っていたんです。神城先生、これだけあれば、会社は動かせますよね?」
部屋の中が、水を打ったように静まり返る。神城は手元のメモと私の顔を何度も往復させ、やがて、口元を歪めて低く笑った。
「……出来の悪い作り話にしては、数字が具体的すぎる。どうやって手に入れたかは聞かないでおきましょう。だが、もしこれが本当なら、稟議だの決裁だのという生ぬるい手順は要らない」
神城は椅子を蹴るようにして立ち上がり、棚から分厚い六法全書を引き抜いた。
「会社法三百八十一条。取締役から独立した最高権限を持つ『社外監査役』を叩き起こす。専務派じゃない、骨のある監査役に私が直接これを持ち込みますよ。私のバッジを賭けてもいい。会社への損害を確定させようとした専務の行為は、立派な特別背任だ。これなら一ノ瀬専務に一切気づかれずに、後ろから首を絞められる」
数日後、営業部。 いつも通り、後輩に無理難題を押し付けてふんぞり返っていた拓海の前に、二人のスーツ姿の男が現れた。会社の独立系常勤監査役と、その調査員。男たちの顔には、愛想の「あ」の字もない。
「飯田拓海くんかね。業務上横領の疑いがある。君の立ち会いのもと、今からデスクの調査を行う。来なさい」
「え……? い、いや、何言ってるんですか! 専務には通して――」
「これは会社法に基づく監査役の固有権限だ。専務の許可など要らない。拒否するなら、その場で懲戒解雇の手続きに入るが?」
周囲の社員たちの手が止まり、一斉に視線が集まる。拓海は顔面を土気色に変え、脇汗でシャツを滲ませながら自席へと連行された。 監査役は迷いのない手つきで真ん中の引き出しを引き抜き、中の書類を乱暴にぶちまけると、木製の底を強く突き上げた。バキッ、と嫌な音がして、隠されていた二重底が開く。
中から転がり出たのは、小さな黒いUSBメモリだった。
「……これは何かね?」
「あ、あ、それは……ただの、私物の音楽データで……」
「では、今から監査役室のパソコンで中身を確認させてもらう。パスワードは『1024』だそうだな?」
拓海の喉が、ひっく、と妙な音を立てて鳴った。 誰にも言っていないはずの、美波の誕生日。拓海の額から、大粒の汗がボタボタと机の上の書類に落ちて染みを作っていく。監査役は事務的にUSBをポケットに放り込み、さらに古い手帳の裏から隠し口座のキャッシュカードを引っ張り出した。
「明日の朝、ホテルの会議室で行われる高橋紗季さんとの示談の席。君も一ノ瀬専務と共に、必ず出席してもらう。……言い逃れができると思うなよ」
男たちが去った後も、拓海はガタガタと膝を震わせたまま、自分のデスクにしがみついていた。オフィスの蛍光灯が、チカチカと不快な音を立てて明滅している。
ドアを開けた瞬間、じっとりとした静寂を期待していた私の耳に、酷く下品な悲鳴が飛び込んできた。
「ひぃーーーっ! ハハハハハ! 痛い、お腹痛い……ッ! 死ぬ、本当に死ぬから勘弁してくれ……っ!!」
南青山の法律事務所。いつもなら澄ました顔でクラシックでも流していそうな応接室で、神城律は完全に壊れていた。 高級なシルクのネクタイは結び目が喉元から大きくずれ、だらしなく床に垂れている。男はソファーの上でクッションを顔面に押し付け、芋虫みたいにのたうち回っていた。
ガラステーブルの上は悲惨な有り様だった。前夜に監査役から回ってきたという「社内調査報告書」の写しや、通信会社から強引に引っ張ってきたらしい法人携帯のログが、まるでゴミ箱をひっくり返したように散らばっている。
「あ、あの、神城先生……?」
私が声をかけると、神城は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔をソファーから上げた。だが、私の顔を見た瞬間、また「ブフッ!」と汚い音を立てて吹き出した。
「は、ハハハ! ごめん、本当にごめん高橋さん! 違うんだ、君を笑っているんじゃないんだ! 凄すぎて、面白すぎて……っ、ひー、息が、上がっ……!」
何度も深呼吸を繰り返し、机の上の書類をペンで何度も叩きながら、男はようやく人語を話し始めた。その顔は、他人の不幸を骨までしゃぶる快楽で酷く歪んでいる。
「高橋さん、君は化け物か? 昨日、監査役が君の言った通りに机の底をぶち抜いたら、横領のUSBも専務の隠しファイルも、全部そのまんま出てきたよ! 拓海くん、目の前で二重底を開けられた瞬間、喉から変な音を出してその場にへたり込んだらしいじゃないか。見たかったなぁ、そのツラ!」
神城はポケットから出したシワだらけのハンカチで目元を拭い、今度はゾッとするほど冷たい、それでいて愉しげな笑みを浮かべた。
「でもね、本当にマヌケなのはここからさ。拓海くんは専務の権力で横領を揉み消すつもりだった。なのに、君をハメるために美波ちゃんを抱き込んだ。そして美波ちゃんは、ご丁寧にパパの部屋から盗んだ会社名義の予備スマホで工作しちゃった。はい、これで会社資産の私的流用と、証拠隠滅の共同正犯が成立」
神城は身を乗り出し、私の目の前で書類をトランプのようにバラバラと落とした。
「さらに傑作なのが一ノ瀬専務だ。娘が可愛いばかりに、拓海くんの四千二百万を海外コンサルの架空経費で処理しようとした。会社の金を盗んだ男のために、さらに会社の金で穴埋めしようとしたわけだ。これ、教科書に太字で載るレベルの完璧な特別背任罪。拓海くんが自分の保身のためにチョロチョロ動いたせいで、一ノ瀬家っていう会社のトップが、内側から一発で腐り落ちたんだよ」
男は再びソファーに背中を打ち付け、天井を見上げて声を殺して笑った。
「あまりに証拠が綺麗すぎてね、示談の前に警視庁捜査二課への告訴状が完成しちゃった。知り合いの刑事に連絡したら、『いつでもガサ入れできるようにハンコだけ押しとく』ってさ。裁判なんて時間の無駄。この告訴状のコピーをあの親子の前に放り投げるだけで、全部終わる。あーおかしい。こんなに汗をかかない仕事は初めてだ」
酸欠で首筋まで真っ赤にしている弁護士の、どこか狂気じみた後ろ姿を見ながら、私は冷めた頭で考えていた。母が忌み嫌ったこの力も、こういうゲスな人間を社会的に監獄へ叩き落とすためなら、いくらでも汚れてやる。
時計の針が、約束の時間を指そうとしていた。 前日の段階で全てを毟り取られて生ける屍になっている男と、何も知らずに今から私を嘲笑うつもりのバカな親子。 地獄の席へ、出かける時間だ。
窓の外には、いかにも高そうなホテルの最上階から見下ろす街並みが広がっていた。重厚なマホガニーのテーブルを挟んで、部屋の空気はひどく澱んでいる。
「さて、高橋紗季さん。身の程を弁えなさい」
専務が連れてきた顧問弁護士が、爪の先で叩いた書類がパサリと乾いた音を立てた。 「我がクライアントである飯田氏に対する、度重なるストーカー行為。すでにこちらの端末からの送信履歴を含め、証拠は揃っています。今なら自主退職と接近禁止の誓約書へのサインで済ませてあげようという、一ノ瀬専務の『慈悲』です」
「そうだよ、紗季。早くサインしてよ」
隣で一ノ瀬美波が、退屈そうにさっきから爪の甘皮を弄っている。地味な総務の女が泥沼に落ちるのを、安全な特等席から見物しているような、下卑た愉悦が隠せていない。
だが、その隣。 飯田拓海だけは、さっきから生ける屍のようだった。ヘラヘラ笑う余裕など微塵もなく、借りてきた猫のように肩をすくめ、前夜から一睡もできていないのか眼窩がどす黒く落ち込んでいる。朝、自分のデスクの引き出しが空っぽになっていた恐怖が、まだその膝をガタガタと震わせていた。
「ふむ……慈悲、ですか。笑わせる」
静寂を破ったのは、私の隣に座る神城律だった。男はいつになく、他人の家庭を壊す間際の獣のような、邪悪な笑みを浮かべていた。持参した特大の黒いアタッシュケースが、テーブルの真ん中にドン、と鈍い音を立てて置かれる。
「では、こちらからも『慈悲』のお返しといきましょう。我が依頼人に対する名誉毀損、不当解雇の強要、ならびに――あなた方の、あまりに杜撰な犯罪行為の数々について」
神城がケースの金具を外した。カチャリと冷たい音がして、中から分厚い書類の束が容赦なくぶちまけられる。
「……なんだね、これは」
眉をひそめる相手方の弁護士に、神城は満面の笑みで書類の一枚を差し出した。
「昨日、貴社の独立系監査役が、飯田君のデスクから回収した総額四千二百万円の業務上横領の裏帳簿データ。ならびに、一ノ瀬専務、あなたがその横領を隠蔽するために会社に損失を補填させようとした『特別背任』の証拠一式です。……おや、飯田くん。昨日、君の目の前で発掘されたパスワード『1024』のUSBの中身は、すでに監査役室で厳重に保全されているよ?」
「ひっ……あ、あああ……っ!!」
誰も知らないはずの美波の誕生日を神城の口から告げられ、拓海はついに椅子から転げ落ちた。白目を剥いて、絨毯の上に這いつくばっている。それを見た顧問弁護士の顔から、一瞬で血の気が引いた。
「それだけじゃない」
神城の追撃は、まだ爪を弄っていたお嬢様へと牙を剥く。
「一ノ瀬美波さん。あなたが、お父上の部屋の金庫から盗み出した会社名義の予備スマホ、管理番号『法人ゼロハチロク』の通信ログだ。これを使って、あたかも高橋さんがストーカーであるかのように自作自演のメッセージを連投していたね。会社資産の窃盗、および組織的証拠隠滅の共同正犯だ」
「な……にそれ……なんで、なんでバレて……!?」
美波の顔から一瞬で余裕が消え去り、さながら乾いた泥人形のようにガタガタと硬直した。
「極めつけはこれだ」
神城は、青ざめる専務の目の前に、一枚の重々しい書類を叩きつけた。そこには鮮明な赤い公印が押されている。
「すでに監査役名義で警視庁捜査二課に提出済みの、あなた方全員に対する『告訴状』の写しだ。しっかりと受付印が押されているだろう? この示談書にサインし、被害額の即時全額弁済に合意しなければ、今すぐこの告訴状を正式に受理させる。そうなれば明日には君たちの家へ、本物のガサ入れが来るが……どちらがいい?」
「……バカな……我が一族が、終わりだというのか……」
専務は頭を抱え、そのまま椅子から滑り落ちるように床へ崩れ落ちた。
相手方の顧問弁護士は、差し出された告訴状と証拠の数々を一読した瞬間、額から滝のような冷汗を流した。そして、スッと眼鏡を直すと、書類を綺麗に揃えて席を立った。
「……当方に勝ち目はありません。全面的にそちらの要求を受け入れます。一ノ瀬専務、飯田氏、あとは警察と法廷でお話しください。私は辞任します」
「先生!? 先生待ってくれ!!」
叫ぶ拓海と美波の手元に、神城が「慰謝料および損害賠償」の超高額な示談書を突きつける。 絶望の中、震える手で示談書にサインする拓海と美波。彼らは示談成立と同時に、会社を懲戒解雇となり、後日、告訴状を受理した捜査二課によって正式に逮捕された。
数日後。 すっかり秋晴れとなった爽やかな街並みを、私は歩いていた。社内の悪評は完全に払拭され、むしろ「不正を暴いた英雄」として扱われているが、私は今朝、未練なく退職届を出したところだった。
「いやあ、あの時の彼らの顔! 何回思い出しても酒の肴になるね!」
隣を歩く神城が、相変わらず楽しそうに笑っている。男は私に向き直ると、ふと真面目なトーンになり、懐から一枚の真新しい名刺を取り出した。
「高橋さん。改めて、うちの法律事務所に来ないかい? 君のその『勘の鋭さ』があれば、どんな企業の闇も一瞬で暴ける。年収は今の四倍を保証する。役職は我が事務所の『特級調査員』だ」
私は差し出された名刺を受け取り、指先でそのざらついた質感を確かめる。 もう、触れる恐怖はなかった。クズどもを合法的に、大爆笑しながら叩き潰すには、これ以上ない使い道だ。
「特級調査員、ですか。悪くないですね」
名刺をバッグに収め、私は少しだけ歩幅を広げた。昼下がりのオフィス街の風は、驚くほど軽かった。




