なりたいもの
フィルネの聖堂は、厳かな空気に包まれていた。
聖堂の扉の前には、成人の儀を受ける若者たちが集まっていた。若者たちは硬い顔で立っている。見届けに来た家族も、心なしか緊張しているようだ。
ノナは来ていない。「家で待ってる」と言った。
夕日が石畳を赤く染めている。市場の商人たちの影が長く伸びている。
「今日はここまでだよ! 安くするから持ってって!」
「それでも、高くなったよねえ」
「そうなんだよ……野菜が育たなくなった。瘴気が濃くなっているらしくてね」
「魚も減って、高くなったしねえ」
威勢のいい声は飛び交っているのに、どこか短く途切れて力がない。
菜の花は、今日もノナから薬草を頼まれていた。
人混みをすり抜け、市場の奥の薬草屋へ向かう。薬草屋の店先には、萌黄色、枯草色、若草色——色とりどりの薬草が、夕日を受けて並べられている。
「こんにちは」
菜の花が声をかけると、店主のおばあさんが顔を上げた。
以前より、顔色がいい。よかった。
「今日もお使いかい?」
「はい。『その日に最後まで咲いていた朝露草の種』を、ひとつかみください」
店主は、菜の花を見返す。
「何を作ろうとしているのかねえ」
「秘密だって。でも、最近、調合をずっとしているよ」
「薬屋が忙しいってのは、どうだろうね」
店主が眉をひそめる。
「この素材は、ちょっと高いよ?」
店主は、棚の奥をのぞき込みながら言った。
「お金はもらってます」
「朝露草はね、朝に咲いて昼にはしおれるだろ?」
「うん」
「だから、その種には『即効』の効能がある。他の薬草の効果を早める力」
「ふーん」
「頭痛薬なんかは、朝露草の種が調合されていることが多いよ」
頭痛は、早めに止めたいもんな。菜の花は思う。
「でもね、『その日に最後まで咲いていた朝露草の種』は、効き方が違うんだ」
店主は、小さな布袋を取り出した。
「効能は、『即効』じゃなくて『持続』に変わる。薬の調合の中にこれを混ぜておくと、他の薬草の効能が持続するんだよ」
店主は、種を小さな袋に詰める。
「貴重な素材だ。集めるのが大変なんだよ」
「どうするの?」
「昼過ぎに朝露草群生地へ行って、最後まで咲いてた花に糸で印をつける。それを毎日だ」
「毎日……?」
朝露草は、朝露が多くなる秋の初め頃、小さな花を咲かせる。青い花が一面に咲くのはとても美しい。でも、群生地は聖域から遠く、毎日行くのは大変だろう。
「秋が終わって種ができたら、その印のついた種だけ収穫する。すると、『持続』の効能のある種が集まる」
「それは大変だあ……」
「まあ、私がやる訳じゃないけどね。私は仕入れて売るだけさ」
店主は、菜の花に袋を渡した。さらさらと音がする。
「どうして効能が変わるんですか?」
「さあ? それは学者の仕事だよ。薬草屋は、効能が分かっていればいい」
菜の花は、手の中の布袋に目を落とした。
「でも、最後まで咲き続けてやるっていう気概が、そいつにはあったんだろうねえ」
店主は、からからと笑う。笑うと、目尻の皺が深くなる。
「ちょっとおまけしとくよ」
店主は、金額を菜の花に伝える。ノナに渡されていた金額より、だいぶ安かった。
「ありがとう。いいんですか?」
「いいよ。最近、薬草がよく売れるからね。儲かってるんだ」
「よかったですね」
「薬草屋が儲かるなんて、ろくでもないことさ。最近、瘴気が濃くなってきてるだろ。薬が必要な人が増えてるんだよ」
「ああ……」
菜の花は、代金を払い、種を鞄にしまった。
「気をつけて帰りなよ。日が暮れるのが早くなってきたからね。ノナによろしく」
「はい」
菜の花は、店を出た。
最後まで咲き続けた花の種。母さんは、これで何を作るんだろう。
帰り道を急いでいると、市場の片隅で音楽家が演奏していた。
弦楽器を抱えた老人が目を閉じて、指を滑らせている。
「すごい……」
菜の花は、立ち止まった。旋律が自由に流れていく。楽譜は見当たらない。
演奏が終わり、老人はゆっくり目を開けた。菜の花は、拍手する。
「おや、聴いてくれてたのかい」
「すごいですね。楽譜、ないんですか?」
「そうだね。即興だよ」
「でたらめに弾いているわけじゃないですよね?」
菜の花は、念のため聞いてみた。
「もちろん」
「どうやってるんですか?」
「うーん、いろんな人がいて……中には、『一分の曲を一分で作曲してる』と感じる人もいる。でも、私はちょっと違う。『見つける』という感覚かな」
菜の花は老人の弦楽器を見つめた。
「見つけるって、どういうことですか?」
「音には、無限の組み合わせがあるだろ?」
「はい、そう……だと思います」
菜の花は、音楽には詳しくない。だけど、組み合わせがたくさんあるのは分かる。
「その中に、ごくたまに——美しい組み合わせがあるんだ。砂漠の中のごま粒みたいにね」
「ごま粒」
「そうそう」
音楽家は、楽器をなでる。
「私は、即興演奏をしながら、それを見つけていく感覚かな」
「見つけられるんですか。そんなの」
「見つかるよ。自分でも驚くような音がね」
——しましまの服でエマ消えた。三田駅前で食ふのマシマシ。
この回文も、菜の花が作ったのではなく、どこかにあったものを、たまたま見つけただけなのかもしれない。
市場を出て、菜の花は、ぽてぽてと帰り道を歩く。
空はすっかり茜色から菫色に変わっている。夜が近づいていた。
「夜、よる……るよ」
ああ、最後は「るよ」だから、話しかけるような言葉になるんだな。
たぶん、ここにある。
菜の花には、音楽家の言葉が、思いのほかしっくり来ていた。
菜の花は、探す。砂漠の中のごま粒を探すように。丁寧に、一音ずつ。
「ああ、あった」
背筋がぞくりとするような、たまらない感覚。
「夜、血散るよ」——よる、ちちるよ。
「それにしても、我ながら物騒な回文を見つけてしまった……」
まいっか。笑いながら、菜の花は帰り道を急ぐ。
——私は、日本語の研究者になりたいな。
そんなことを考えながら、菜の花は家の門をくぐった。
「ただいま」
「おかえり」
夕食を食べながら、菜の花はノナに聞いてみた。
「ねえ、母さん」
「ん?」
「回文って知ってる?」
「回文?」
スプーンを持つ手が一瞬だけ止まった。
「日本語の言葉遊びなんだよ。すごく面白いんだ」
「へえ、どんなものなの?」
「前から読んでも後ろから読んでも同じになる言葉。丸い輪っかみたいな言葉」
菜の花は、スプーンでくるくると円を描く。
菜の花は、その日あったことを話した。「わたし負けましたわ」の回文。三田駅とジロー。神秘の麺とマシマシ。エマとしましまの服。
ノナは、いつもと変わらない表情で話を聞いている。優しい顔だ。
——でも、何か……何だろう。今日は、少しうわの空に見える。
調合で疲れてるのかな。菜の花は、ふと思った。
その晩。菜の花は、自分の部屋でぼんやりしていた。
ノナは薬の調合をすると言っていた。
「ふんふふーん」
階下から唄が聞こえる。よく聞く唄だ。
「あ」
菜の花は、急いでノートを開く。
「よくきくよ」——よく聞くよ。
「ようたうたうよ」——夜唄うたうよ。
「とおいおと」——遠い音。
見つけた。五・七・五の俳句の形をした回文の組み合わせだ。
この三つは、並べることで複雑な物語になっている気がする。
なぜ、よく聞こえるのか。
どんな夜唄なのか。誰が歌っているのか。
なぜ、遠くに聞こえるのか。
——日本語の研究者って、どうやってなるんだろう。なれるかな。
「ふんふふーん」
菜の花の歌声は、菜の花の部屋に小さく響いた。
「菜の花!」
リーネとミラが手を振っていた。駆け寄ると、ミラが菜の花の顔をのぞき込む。
「緊張してる?」
ミラが、にこにこしながら聞いてくる。
「うん」
菜の花は、正直に答えた。
「私も」
リーネが、胸に手を当てる。
「心臓がバクバクする」
「リーネでも緊張するんだ」
「当たり前だよ。一生に一度の儀式だよ?」
リーネの手が、スカートの裾をぎゅっと握っていた。
三人は、聖堂の入口で、列に並んで立った。
周りには、同い年の参加者がたくさんいる。知っている顔もあれば、知らない顔もある。みんな、同じように落ち着かない様子だった。
「どんな力に目覚めるのかな?」
ミラが、小声で聞いてくる。
「私はやっぱり、巫女様になりたいなあ」
「狭き門だよ?」
「分かってるけど、夢は大きく」
ミラは、聖堂を見上げる。
「リーネは?」
「私も変わらない。火の魔法がいい」
リーネは、きっぱりと言った。
「山賊をドカーンってやっつけたい。商人の娘だから」
「菜の花は?」
二人の視線が、菜の花に集まる。
「私は……うーん」
菜の花は、少し考えた。
よく分からない。本当のことを言えば、日本語を研究したい。それだけだ。
ただ、今朝ノナが言った言葉が、ずっと頭に残っている。
「何が起きても、菜の花が感じたとおりにしなさい」
それが、何を意味するのか。
今夜、分かるはずだ。
「まあ、すごい力に目覚めなくても、普通に暮らせるしね」
菜の花は、曖昧に答えた。
「パン屋さんでも、薬師でも」
「菜の花らしいね」
リーネが、笑った。
やがて、聖堂の扉がゆっくりと開いた。中から、凛とした空気が流れ出してくる。
「入りなさい」
扉の向こうに立つ神官が、若者たちを手招きした。
若者たちは、一列になって中に入る。
「わあ」
太い柱と長椅子が整然と並び、天井は高い。
ステンドグラスの光が、床に紅や瑠璃の帯を落としている。その中で埃が輝いている。
「……きれい」
菜の花は思わずつぶやく。
「きれいだね」
ミラが上を見ている。
「……埃だけどね」
リーネが小声で言う。ミラは否定せず、まだ天井を見ている。
「でもさ」
リーネが続けた。
「いつか成人の儀を思い出すときにさ、『埃がきれいだった』って言いそう」
「なにそれ」
——でも、そうかもしれない。菜の花は、光の中の埃をもう一度見上げた。
最奥の祭壇には、聖職者が立っていた。シオナ。この聖域を取り仕切っている。
白い法衣をまとった女性。四十後半から五十くらいだろうか。白い髪を後ろでまとめ、背筋がまっすぐ伸びている。
「ようこそ、若者たち」
シオナの声が、聖堂に響く。低く、落ち着いた声だ。それでいて、隅々まで届く。
「今日、あなた方は成人となり、自分の力が何か知ることになります」
若者たちは、緊張した面持ちで聞いている。
シオナは、若者たちを見渡した。
「今日は、各地の聖堂でも成人の儀が行われています。成人の儀でこんなことを言うのは、私くらいなのですが」
そう前置きをして、シオナは続けた。
「私は、力は、『目覚める』ものではなく、『与えられた』ものだと感じています」
菜の花は、シオナをじっと見つめる。
「ただ、その力は、『できること』でしかありません。あなた方が『やりたいこと』や『なすべきこと』とは別です」
シオナは若者たちを見渡した。
「力が役に立つなら使えばいい。役立たないなら、新しい力を身につければいい。今日決まるのは、その程度のことです」
意外なほど柔らかく、シオナは笑った。
「気楽になさい」
儀式が、始まった。
「一人ずつ、祭壇に進みなさい」
最初の若者が歩き出す。足音が、石の床に響く。
若者が祭壇の前に立つと、シオナが手をかざす。祝福の言葉を唱える。
淡い金色の光が、若者を包む。
数秒間、若者の体が輝いて、すっと引いた。
「何の力でしたか」
シオナが尋ねた。
「はい、『洞察』の力でした」
「良い力です。役立てなさい」
「はい、そうしたいのですが……」
若者は、残念そうな顔をする。
「その力を使うと、その人の誕生日が分かる、というものでした」
「ふふふ、素晴らしい力ですね。きっと、あなたを助けますよ」
「そうでしょうか」
「はい。相手のことを知ろうとする。それが、この力の本質のように感じます」
「……分かりました」
「祝福を。あなたの人生に幸多からんことを」
それから何人もが祭壇へ進み、光に包まれて戻ってきた。
シオナは、一人ひとりに祝福の言葉をかけ、背中を押した。
「次、リーネ」
やがて、リーネの名前が呼ばれた。
「行ってくる」
リーネは、菜の花とミラに小さく手を振って、祭壇に向かった。
背筋を伸ばして、堂々と歩く。さすがリーネだ、と菜の花は思った。緊張しているはずなのに、それを見せない。
リーネが祭壇の前に立つ。
シオナが手をかざすと、光がリーネを包む。
その瞬間——リーネの手に、小さな火が灯った。
「おお」
会場が、どよめいた。リーネの手のひらの上で、橙色の炎がゆらめいている。
小さいけれど、それは火だった。
「火の力ですね」
シオナが、微笑んだ。
リーネは、驚いた顔で自分の手を見つめている。それから、ぎゅっと拳を握った。
「大きな力です。気をつけて使いなさい。……祝福を」
リーネは、呆然としながら礼をして、下がった。
菜の花たちのところに戻ってくると、リーネの手が震えていた。
「火、出た……」
「すごい、リーネ!」
ミラが、小声で興奮している。
「やったじゃん!」
「うん……」
リーネは、まだ信じられないという顔をしている。
「次、ミラ」
「行ってくる!」
ミラは、意気揚々と祭壇に向かった。
シオナが、手をかざす。
光がミラを包むと、いくつもの水滴が浮かんだ。
水滴は一か所に集まり、凍った。そこには、小さな盾が浮かんでいた。
「水の力です。守りに特化したものでしょう」
シオナが言った。
「……あれえ?」
「別の力が良かったですか?」
「はい、祈りの力をいただきたかった……です」
「巫女になろうとしていたのですね。ありがとう」
「はい……」
「ミラの力は、素晴らしいものですよ」
「それは、あの、そうなのかもしれませんが……その」
「うふふ、巫女の衣装を着たかったの?」
「うっ……はい」
「たまにいるのです。そういう子が」
「すみません」
「貸してあげます。本物ですよ」
「そんな簡単に貸していいんですか?」
「かまいません。ただの服だもの」
シオナは、いたずらっぽく笑った。
シオナから、祝福の言葉をもらい、ミラは戻ってきた。
「巫女、なれなかった」
ミラは、唇をきゅっと結んだ。
「ミラ……」
菜の花は、どのように声をかけて良いか、分からなかった。
リーネも、声をかけられないでいる。
「まいっか」
「ええ?」
「よく考えたら、私、巫女の衣装着てみたかっただけだ」
「えええ?」
「衣装は、貸してくれるって言ってたしね。なら、いいや」
「まあ、ミラがいいなら……」
「それに、水……の守り? 何かには役立つでしょ」
ミラがからからと笑うと、リーネも笑った。
「リーネは火でしょ。たぶん、攻撃が得意だよ。私は水の守りだから、最強だよ」
「うん、最強だ」
「すごい」
菜の花は、小さく拍手をした。リーネとミラ、二人ともすごい力に目覚めた。
私は、何だろう。『探求』とか『発見』の力だったら、日本語研究者になれるだろうか。
拍手をしながら、菜の花の手のひらだけが、冷たかった。
読んでいただき、ありがとうございます。
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本作は完結まで執筆済みで、全56話・約14.9万文字です。
3/29(日)まで毎日20時に更新予定です。




